アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳26


第3章  統一教会の信条(3)

残念ながら、我々皆が知っているように、これは実現しなかった。文が受けた特別な啓示によれば、アダムとエバが成長して成熟するまで世話をするよう神から委託されていた天使長ルシファーは、アダムに対する神の愛に嫉妬するようになり、エバとの間に情的関係を深めるようになり、それはやがて不倫の(霊的な)性関係へと発展した(46ページ)。そしてエバは、彼女と(肉体的な)性関係をもつようアダムを誘惑した。神ではなくルシファーを中心とした、この早まった結合の結果として、アダムとエバの堕落性と原罪が次の世代全体に伝達されてきた(52ページ)。このように堕落は、リンゴの実を食べることによってエバが神に逆らった結果としてではなく、あらゆる力のうちで最も強い力、すなわち愛の誤用を伴う不従順の結果として解釈されている。

『原理講論』によると、歴史全体は、神が本来意図された状態へ世界を復帰し、地上に神の天国を築くための、神と人間、特に聖書中のある特定の中心人物による継続的な試みとして見ることができる。最終的に復帰は、アダムが失敗した役割を忠実に成就するであろうメシヤ的人物を通してのみ可能である。しかしそれが起こる前に、神の信頼を裏切った人間は、メシヤの為の基台を造ることによって、事態を収拾する上で自分の役割を果たす準備があるということを示さなければならない(108ページ)。実際の問題としては、これは「蕩減」という概念に関わっている。それは善なる犠牲的行為が、ある人物やその先祖たち、あるいは実に過去の全人類によって蓄積された「悪の負債」を相殺することができるというものである(106, 107ページ)。

蕩減はまた、二人かそれ以上の人々が、言ってみれば、象徴的に過去の罪と「逆の行動をする」ところのいくつかの行動をも含んでいる。例えば、カインとアベルは、(相対的に)(注16)善と悪を表示する立場に神によって置かれていた。エバの最初の堕落行為を表示していたカインは、天使長に対応する「立場」にあり、一方アベルは神に対応する「立場」に置かれていた(注17)。そして、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を成就するのはカインの役割であった。これをなすためにカインはアベルを愛し、従い、アベルに対して謙遜になるべきだった。しかし、カインはアベルを殺してしまった。

「(これは)サタン側が神側を打ったことを意味し、結果的には、アダムの家庭における善悪分立の摂理は挫折し、善の側が失われてしまったである。・・・堕落人間はメシヤに対してカインの立場であるから、我々はその方の前に謙遜になり、仕え、従い、愛することにより、我々はその方を通して救いにあずかることができるのである。(ヨハネ14:6、テモテ2:5)」(120ページ)

メシヤとは、人間の親から生まれながらも原罪のない人物によって成就される、一つの任務であると見られている。第一祝福を受けた(理想的な個人として完成した) 後に、メシヤは理想家庭を築き、その次に理想国家と世界を築かなければならない(57ページ)。メシヤの子女は汚れのない血統に生まれるが、それはメシヤ自らがその結婚を祝福し、そうすることによって、原罪の血統を清めることによって浄化されたカップルの子女たちも同様である。

聖婚式、すなわち文鮮明と韓鶴子の結婚式、1960年3月16日(陰暦)。(3章79ページ)

聖婚式、すなわち文鮮明と韓鶴子の結婚式、1960年3月16日(陰暦)。(3章79ページ)

『原理講論』は、イエスがそのような人物だったと教えている。彼は人間の親(ザカリヤが彼の父親であり得るということが示唆されてきた)(注18)から生まれたが、原罪はなかった。「イエスの価値は、堕落した人間の価値と比較することができない」(98ページ)。統一教会の旧約歴史の解釈によれば、イエスが生まれるときまでに必要な基台が築かれ、世界は復帰される可能性があった。神はその選民イスラエルに、メシヤを待望するよう告げ、神はメシヤの到来を証すために洗礼ヨハネを準備した(57ページ)。メシヤであるイエスは、『原理講論』 によれば、結婚して、地上天国のための神の基台である本然の四位基台を造成すべきであった。

「クリスチャンたちは伝統的に、イエスの十字架の死は最初から神のみ旨であり予定されていたと信じてきた。しかしそうではないのである。イエス・キリストを十字架につけたのは重大な過ちであった。イエスの十字架は、イスラエル民族が神の摂理に対して全く無知であった結果である。」(57ページ)

『原理講論』によれば、イエスの使命を失敗させた張本人は洗礼ヨハネであった。彼は初めにイエスがメシヤであると証ししたにもかかわらず、彼に従わず、後にはイエスがメシヤであることを疑うようになった(161ページ)。

「さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、『「きたるべきかた」はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか』」(マタイ11:2, 3)。

このゆえに、そして他の多くの理由のゆえに、ユダヤ民族はイエスをメシヤとして認識することができず、彼は結婚することができる前に殺害されてしまった。しかしながら、イエスは彼の死と復活を通して人類に霊的救いをもたらすことができたのである。

「復活したイエスは聖霊を復帰して、霊的な真の父母となった。使徒行伝2章に記録されている聖霊の降臨は、霊的な真の母の降臨なのである。・・・したがって、霊的な真の父母であるイエスと聖霊を信じる者は、・・・霊的な救いを受けるようになるのである(ヨハネ3:16)」(171-2ページ)。

しかし(サタンとの闘いにおいてご自身の普遍的法則に従わなければならない)神は、人類の不信仰という罪を蕩減するために、イエスの肉体をサタンに引き渡すことを許さざるを得なかった。こうして人類は肉体をもった信仰の対象を失い、肉的救いを受けることができなくなった(169ページ)。肉的救いと地上天国建設は、もう一人のメシヤすなわち再臨主のためのさらなる基台が造成されるのを待たなければならなくなった。

父と子と聖霊の三者からなる一つの神という三位一体の概念を有する従来のキリスト教神学とは異なり、統一神学は三位一体のうちのただ一者のみが神であると解釈している。本来は、神と真の父(アダム)と真の母(エバ)が三位一体を成すはずであったが、これは実現されなかった。堕落によって、サタンと(偽りの父母である)アダムとエバによるサタン的な三位一体が作られた。イエスと聖霊は、第二アダムと第二エバの役割をすることができ、そうすることで神を中心とする「霊的」三位一体を造成することができた、と言われている。しかし、世界はまだ再臨の主(第三アダム・真の父)が(その新婦・第三エバと共に)霊肉「共に」三位一体を造成するのを待たなければならなかった(99ページ)。

アダムとエバがルシファーを中心とした関係をもち、原罪をその子女たちに伝達させた堕落の表示(「レベル4」108ページ)。(3章77ページ下)

アダムとエバがルシファーを中心とした関係をもち、原罪をその子女たちに伝達させた堕落の表示(「レベル4」108ページ)。(3章77ページ下)

統一原理による三位一体の概念(「レベル4」99ページ)(3章78ページ)

統一原理による三位一体の概念(「レベル4」99ページ)(3章78ページ)

(注16)「カインとアベルはそれぞれ善と悪の側に立っていたが、彼らの立場は相対的であった。実際には、二人とも本性と同様に原罪と堕落性をもっていたのである。――このように、二人とも善と悪の性質をもっていた」。郭『概説統一原理』(英文)118ページ。劉『原理講論』244ページも参照。
(注17)劉『原理講論』241ページ。
(注18)金永雲『統一神学とキリスト教思想』ニューヨーク、ゴールデン・ゲイト、1975年、116ページ。

 

 

 

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