書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』12


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第12回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」のつづき
 先回までは櫻井氏による創造原理の批判を検証したが、今回から堕落論の批判に入る。彼は冒頭、「罪というのは元来共同体や社会関係の秩序を乱す行為に対して、社会的制裁を宗教・道徳的次元で表現した」ものであり、社会秩序に対する反抗・抵抗に他ならないので、「人間に罪の根があるとかないとか、なぜ堕落したのかといった話は、すくなくとも社会学的に意味のある話ではない」(p.36)と言っている。これは櫻井氏の本音であると思われる。櫻井氏には、宗教者や信仰者が教えたり感じたりしている「罪」の概念を内在的・共感的にとらえようとする姿勢はなさそうだ。これは一種の社会学的還元主義といえるが、実は櫻井氏の堕落論批判の中心的スタンスは社会学にあるのではない。それは、「現在の聖書学の水準やキリスト教各教派から考えると、極めて独自の見解」(p.36)であるということなのある。

 櫻井氏は、現在の聖書学の知識を用いて創世記第3章の堕落の物語を「ヤハウィスト文書」に分類し、「宗教的解釈であっても現代の私達が旧約聖書を作った人達の意図を無視して自由に聖書を読み込んでいいというわけでもないだろう」とか、「現在の聖書学ではヤハウィスト文書をはじめ旧約の諸文書には原罪の概念はなく、楽園において人間が神の戒めを破ったこと、その結果、神の前に裸で立てずに神を恐れるようになったという事柄をそのまま述べているのだと考えている」(p.39)などと主張している。要するに、統一教会の説く「原罪」の概念には聖書的根拠がないと言いたいのだ。

 櫻井氏のように、聖書批評学などの学問的立場から、特定宗教の聖書解釈を批判することは「釈義」の問題としては可能である。しかし、現実に存在しているキリスト教信仰の中でこうした学問的批判に耐えうるものはほとんど存在しない。なぜならその論法に従えば、人間には原罪があるというキリスト教の根本教義そのものも旧約聖書の「原義」とは異なり、クリスチャンの勝手な解釈ということになってしまうからだ。この問題は少々複雑なので、詳しく説明しよう。

 一般に人があるテキストを解釈しようとするとき、その人の持つ前理解が解釈の輪郭を決めてしまうという事実がある。特に聖書のような宗教的書物の場合、信徒たちは自分の所属している教派の教義を聖書の中に「読み込む」という傾向が強い。しかし、学問的な聖書研究においては出来事と神学的解釈が混同されてはならないのである。今日の聖書研究においては、聖書の「字義」を特定しようとする「釈義」と、そこから今日の信徒たちにとって有益なメッセージを引き出そうとする「神学的解釈」や「信仰的理解」は別の領域に属するものであるという見方が一般的であり、聖書学を学ぼうとする者は、常にこの二つのレベルを区別する視座を持っていることが要求される。そこで聖書の「解釈」と「釈義」の問題について簡単に触れておきたい。

 古来より、聖書を読む人々はそのテキストの「字義」すなわち単語や文章の示している明らかな意味のほかに、もっと深い宗教的意味、あるいは隠された意味があるのではないかと考えてきた。これは聖書のテキストをより深く読むことによって、より深く神の意図を知ろうとする信仰者たちの探求心の自然な発露であったと言ってよいであろう。そして多くの宗教的天才たちが既に聖典化された「聖書」の意味を解釈した文献をその時々に新たに編み出し、それを何世紀にもわたって蓄積してきたのである。

 キリスト教初期の聖書解釈においては、聖書には文字通りの意味と並んで、比喩的な意味も持っているという理解が発達し、それも寓喩的、アナロギア的、教訓的という三つの意味があるという見解へと発展していった。この傾向はオリゲネス(185頃~254頃)に代表されるようなアレクサンドリア学派の人々に顕著であり、彼らは今日から見れば「空想的」とも言えるような深遠で神秘的な解釈を聖書の記述の中に読み込んだのである 。オリゲネスの「人々のすべての誤った見解の原因は、彼らが聖書を霊的な意味で理解せず、文字の表わすままの意味に理解している点にほかならない」 という言葉は、この傾向を端的に表現していると言って良いであろう。こうした傾向は中世に至るまで続いた。

 しかし、宗教改革の時代になると、ともすればプラトン主義などに基づいて聖書の中に霊的・象徴的な意味を読み込んでいくカトリックの聖書解釈に対する批判がなされるようになり、「聖書は聖書によってのみ解釈される」という原理が主張されるようになった。ルターもカルビンも寓喩的解釈を批判し、言語学的注解によって聖書のテキストそのものが伝えようとしている「原義」を明らかにしようと試みたのである 。

 啓蒙主義の時代に入ると、聖書のテキストの「原義」を明らかにしようとする試みは教会の教義的制約から解放されて、学問の自由が保証された大学における批判的研究としてさかんに行なわれるようになった。そこで目指されたのは、「一つのテキストを、それのもともとの文脈において理解する」(W・マルクスセン)ということであり、それこそが「釈義」の目的であるとされた 。すなわち、聖書の著者はある特定の時代と場所に生きた人間であり、その当時の読者に向かって何らかのメッセージを伝えるために、その当時の言葉で語ったのであるから、より正確な「釈義」をするためには、原典の言語(ヘブライ語、アラム語、ギリシア語)や文学類型はもちろんのこと、当時の歴史的・文化的・宗教的背景に通じていることが必須条件であると理解されるに至ったのである。

 したがって、現代の聖書学における「釈義」は極めて学問的・技術的な側面が強調されており、歴史的・文献学的研究という側面に限定される傾向にあると言って良いであろう。キリスト教には「旧約聖書の預言が新約聖書において成就した」という信仰があり、旧約聖書の「隠された」意味は新約聖書によって照らし出されるという解釈が存在する。この原則に立てば、旧約聖書の記述はその「字義」あるいは「原義」よりも、「キリスト教的意味」あるいは「霊的意味」が強調されるようになり、旧約の出来事はできるかぎり新約の「予型」として解釈されることになる。しかし、こうした解釈は今日の聖書学によればキリスト教徒の「神学的推論」に過ぎず、旧約聖書の「原義」とはかけ離れたものであるとされるのである。したがって、学問的に厳密な「釈義」を追究していくと、それが信仰と分離してしまうという事態に至るのである。

 しかし、聖書の持つ意味が「原義」や「字義」に限定され、それが書かれた当時の人々に対するメッセージとしての意味しか持たないとなれば、それが現代に生きるわれわれの信仰生活と何の関わりがあるのかという疑問が当然出てくる。聖書がキリスト教の聖典であり、信仰の書物である以上、今日に生きるわれわれの信仰生活を導いてくれるメッセージをそこから読み取ることができなければ何の意味もないのである。そこで、今日の説教者は聖書のテキストの基本的な意味を読み取る「釈義」から始めて、その意味を現代人に分かるように説明する「解説」、さらにはそれを現代人に対するメッセージとして翻訳する「説教」という幾つもの段階を経ながら聖書を解釈し、それを人々に伝えなければならない。そして各教派の特徴や説教者の個性が現れてくるのは、それを現代に生きる信徒たちに対するメッセージとして解釈する段階においてであり、ここにおいてその教派や個人の「信仰」が表現されるのである。今日のキリスト教を幾つもの教派に分けているのは、主として聖書のメッセージをどのように受けとめるかという「解釈」の部分であり、この解釈の相違こそが教派の相違であると言っても良い。

 したがって、聖書の「原義」や「字義」を追求する「釈義」と、そこから宗教的メッセージをくみ取ろうとする「解釈」は別の領域に属するものであるので、すべての聖書解釈が厳密な「釈義」に縛られているわけではないし、逆にそれに縛られていてはキリスト教の諸教派の独自の聖書解釈は成り立たないのである。現実のクリスチャンたちの信仰生活においては、学問的な「原義」や「字義」に関心がもたれることはほとんどなく、それがいまに生きる私にとってどのような意味があるのかの方に大きな関心が寄せられる。

 これは統一教会においても同様であり、『原理講論』は聖書批評学の本ではなく、統一教会の信仰を解説し、信徒の信仰生活を導く神学的な書物であるのだから、聖書の「原義」や「字義」以上に、その中に秘められた神のメッセージを受け止めることに主たる関心があるのである。したがって、櫻井流の堕落論批判は象牙の塔の中で行われる学術的な遊戯に過ぎす、少なくとも統一教会の現役信者にとっては何の意味もないものである。

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