『生書』を読む06


第二章 主婦としての続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第6回目である。第4回から「第二章 主婦として」の内容に入った。前回までは大神様が姑のタケさんから受けた様々な試練の物語を紹介し、そのことが教祖伝において果たしている役割を解説した。すなわち、試練が教祖の信仰を固くし、人格を精錬することにより、万人を導く指導者としての資格を得るためのプロセスとなるのである。こうした試練によって教祖は人々を引き付けるカリスマを得るようになる。しかし、ただ単に試練を受けるだけで教祖としてのカリスマが得られるわけではない、そうした試練を乗り越え、さらには試練を与えた人を屈服させてこそ、真の勝利者となることができるのである。そうしたあり方は、大神様の北村家における歩みにも表れている。

 勝利の第一段階としては、大神様が過酷な姑のいじめにもかかわらず実家に帰らず、嫁としての務めを2年、3年と続けられたことが挙げられる。それまでの嫁は半年も経たないうちに音を上げて帰ってしまったのだから、それだけでも大したものである。しかも百姓の仕事を主人以上にこなしながら、大正11年には一人息子の義人氏を出産している。これがまずは嫁として婚家に定着するという勝利の段階である。

 やがて月日が流れると、大神様は農事においても家事においても北村家の大黒柱となっていく。『生書』には、「主人を立て、そして姑に仕え、義人氏を養育し、一町以上の田畑を立派にこなし、家の柱として何の欠点もなく、主婦としての行を務められたのである。」(p.18-19)と記されている。この辺は天理教の教祖である中山みきの歩みにも似ている。みきは13歳という若さで中山善兵衛に嫁いだが、義理の父母にも夫にもよく仕える見事な若妻であったと伝えられる。家事に加えて、男の仕事とされていた田植えや畑仕事なども率先してやり、人の倍も働いたという。奉公人たちの評判も良かったので、みきは16歳で中山家の所帯をまかせられることになる。このように、嫁ぎ先で誰よりも熱心に働き、嫁として認められていくというプロセスは、日本の新宗教の女性教祖の物語においては一つの典型路程となっているように思われる。この段階から、教祖は周囲に影響を及ぼす主体として頭角を現すようになるのである。これは大神様と姑のタケさんの関係においても同様であった。
「十余年間姑に、はい、はいで仕えてこられたが、その頃から、そろそろ姑さん教育を始められた。もう老婆となられた姑のわがままを、手玉に取りだされたのである。機嫌よく仕えられると同時に、間違いは正され、たまにはそのわがままを、がんとやっつけられるようになった。」(p.18)

 姑のタケさんは90歳近くになるともうろくし、手足もきかなくなってきたという。
「昭和十五年、他界されるまでの二、三年間、下のものはたれっ放し、言われることも、すっかりとんちんかんになられた。教祖はこのような姑に対し、嫌がることもなく、下の世話から、何もかもを真心をもって看護をされたのである。

 その状態はおいおいひどくなり、それまで肌身離さず持っておられた貯金の通帳や、財布の守りができなくなって、最後にはそれを実子の清之進氏には渡されずに、嫁サヨさんに渡されたのであった。

 初めは仇のように思っていた嫁に、とうとう命よりも大事な品々を譲られたのである。そして昭和十五年十一月十日、九十歳で死なれた。」(p.19-20)

 大神様自身が、この姑タケさんを「行の相手」として位置づけており、「あの姑あって、初めてわしの行ができ、わしの今日があるのだ。」「恨みが感謝に変わった時、初めて神行の道に入るのだ」(p.20)と語っている。つまり、姑のタケさんによる試練は、自らの位置を確立するために必要なプロセスであったと理解しているのである。

 宗教団体の教祖は、このような試練を乗り越えた勝利したという物語を持っている場合が多い。統一原理においては、このような試練は神に選ばれた中心人物が経なければならないプロセスであるとしており、それはカインとアベルという役割の中で展開されると理解している。

 カインとアベルは旧約聖書におけるアダムの二人の息子の名前だが、この言葉は聖書の人物の固有名詞という以上の意味で統一原理においては用いられている。アダムの二人の息子の中でカインは兄の立場だが、それは悪やサタンを表示する立場である。一方、アベルは弟の立場だが、それは善や神を表示する立場である。長子であるカインが悪を表示しているということは、堕落した世界においては悪がより優位な立場にあり、サタンが主権を握っていることを示している。この兄と弟の立場が逆転することによって、サタンから長子の特権を復帰し、善悪を逆転させることが復帰摂理において必要とされているプロセスなのである。このことを統一原理では「長子権復帰」とか、「サタン屈服路程」と呼んでおり、アベルの立場に立った中心人物が歩まなければならない典型路程であるとしているのである。

 アダムの家庭においては、アベルはカインに殺害されることによって長子権復帰に失敗した。ノアの家庭においては、次男の立場にあったハムはノアと心情一体化することができなかったため、アベルの位置を離れてしまった。創世記においてアベルの立場で初めて長子権復帰に勝利した人物は、アブラハム家庭におけるヤコブである。

 ヤコブは兄であるエサウから憎まれ、一度は殺されそうになるが、ハランに逃げて叔父のラバンから何度も騙される試練を受け、最終的には兄エサウをも屈服させることによってアベルの位置を勝利したのである。神の摂理において中心人物に選ばれた者は、モーセも、イエスも、みな民族の前にアベルの立場に立った指導者であった。彼らはカインである民族から試練を受け、彼らを愛と人格で屈服させなければならなかった。これは武力や権力によって強制的に屈服さるのではなく、アベルはカインの前に「僕の僕」から出発して、僕となり、やがては互いの位置を逆転させて主人の立場に立たなければならない。このように愛と人格によってカインを自然屈服させる道を文鮮明師は「アベルの正道」と呼んでおり、以下のように語っている。
「アベルは、そのサタン世界の底辺に住む僕のような人たちに仕えるようにして、感化させなくてはならないのですから、僕の歴史にいま一つの僕の歴史を積み重ねなくてはならないのです。しかしその場合、サタン世界の僕たちと、天の世界のアベルのどちらがより悲惨な道を歩んだのかを問われる時に、アベルがアベルとして認定されなくてはならないのです。その時にサタン世界の僕たちは、『何の希望ももてないどん底の中にあっても、あなたは希望を捨てることなく、力強く私を支えた』と認めるのです。アベルは『いかに耐え難い時も、信義の理念をもち、愛の心情をもち、天国の理想をもっていたから、最後まであなたを信じて尽くすことができました』と、言えるのです。そこで『地上で自分の生命も惜しまず、愛と理想をもって犠牲的に尽くしてくれたのはあなたしかいません。私は誰よりもあなたを信じ、国よりも世界よりも、あなたのために尽くします』と、なるのです。その認められた事実でもって、初めて『自分はアベルであり、あなたはカインである』と言うことができるのです。アベル・カインの関係はその時から始まるのです。」(『摂理から見たアベルの正道』光言社、p.9-10)
「アベルは、カインに尽くしたあとにアベルとなるのです。互いに相手を尊重しなければなりません。尊重されるためには先に、カインとなる人に尽くすのです。誰よりも信仰心が篤く、誰よりも愛の心情が深く、誰よりも理想的であるという模範を示し、自然屈服させたあとに、カインたちのほうから、『我々の代身となって指導してください』と願われた時、『はい』と答えてアベルになれるのです。」(同書、p.37)

 このような路程は、聖書の中の中心人物のみならず、文鮮明師御自身が歩まれた道である。一つの例としては、北朝鮮の共産政権下の興南監獄において、文師は過酷な重労働を誰よりも率先して行い、「模範労働賞」を授けられただけでなく、命がけで従ってくる弟子を獄中で復帰している。これは文師の愛と人格によって周りの囚人たちが感化され、屈服したということである。

 統一原理の観点から言えば、大神様は北村家において「アベルの正道」を歩み、自らを目の敵にして迫害していた姑のタケさんをカインとして自然屈服させ、北村家における長子権を復帰したことになる。これをもって大神様は北村家における信仰の中心人物として立つことができたので、北村家を基盤として天照皇大神宮教を立ち上げることができたのである。

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