『生書』を読む04


第一章 大神様の生い立ちの続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第4回目である。前回から、「第一章 大神様の生い立ち」に入った。『生書』に描かれている教祖像の特徴は、浮世をよそにした大自然の懐に抱かれた純朴な農村の質朴な農家に誕生したが、誕生にまつわる神秘的な出来事は何一つなく、幼いころから男勝りの性格で、肚の据わった、ものに頓着しない子供だった、というものだ。ある意味では、この頃から後に教祖として頭角を現す片鱗を早くも見せていたとも言えるであろう。幼少期から結婚するまでの記述は短くてシンプルである。
「小学校を卒業された教祖は、女に学問をさせると虚栄心が強くなるから、女学校にはやらないという長蔵氏の意見で、女学校には行かれず、家事、農業を手伝う傍ら、当時近所の娘たちが通う、手芸、裁縫などを教える私塾に三年間通われた。」(p.7)

 現代のフェミニストが「女に学問をさせると虚栄心が強くなる」などという言葉を聞いたら怒り出しそうだが、当時としては普通の考えだったのであろう。このように教祖が高等教育を受けていないことは、天照皇大神宮教の性格に少なからず影響を与えたのではないかと思われる。その教えは知的な体系を持っているわけではなく、エネルギッシュで迫力ある平易な言葉で語られている。大神様は自分のことを「尋常六年しか出ていない百姓の女房」とか「おんなヤクザ」と呼んでおり、どこか反知性的な性格を持っていたと思われる。そのため、天照皇大神宮教では「経文や本で宗教を勉強して、頭に知識を入れる時代は終わった」とか、「知識や頭脳で悟ろうとする時代は終わった」として、経典の知識を蓄積する職業的宗教家も必要ないと教えている。小説家の藤島泰輔氏は、大神様について「土俗性というか、土の匂いのする方」であるという印象を語っている。その言葉通り、大神様は生涯質素な生活を貫いた純粋な宗教者であった。それがこの教団と教祖の魅力の一つであり、そのことに好印象を持った知識人は多かった。

 ここで『生書』は当時の時代背景と教祖の歩みを以下のように対比させている。
「明治三十三年、呱々の声を上げられてから、大正九年、北村家に嫁がれるまで二十余年間、世界の舞台は明治から大正の時代へと変転し、第一次世界大戦の勃発等、次から次へと慌ただしい年月となり、二十世紀の文明科学の世も、まさに黄金時代を出現させんとする時期とはなったが、これら慌ただしい歴史の動きを遠く離れ、大自然の懐に抱かれながら、教祖はその青少年時代を過ごされたのであった。」

 大神様の青少年時代には、人生の問題について深く悩んだとか、社会問題に対して関心や疑問を持ったというような形跡が見られない。田舎の娘として純粋に育ったということだけが記述されている。大神様が教祖として目覚めるのはずっと後のことであるが、少なくともその時までには自分の周辺の社会問題に対して関心を持ち、その解決のために自分が何かをしなければならないという使命感、召命感を持っていたとは思われない。大神様が教祖として立ち上がっていく動機の背景にあったのは、結婚後の生活であった。

 一方で、文鮮明師の青年期は大神様に比べるとはるかに悩みや葛藤に満ちたものであり、そのことが教祖として立ち上がっていく動機に直結している点で大きく異なっている。文師の故郷も大自然の懐に抱かれた田舎であり、農村で育った点は共通しているが、周辺の社会環境は大きく異なっていた。それは韓国が日本の植民地にされていたことが深く関係している。文鮮明師は自分の青少年時代について以下のように語っている。
「私が偉大な博士となり、有名になれば、何不自由なく、富貴栄達で過ごせる。しかし、それが私にとって何なのか。数多い不幸な人間に対して何の意味を持つというのか。私がなさなければならないのは、何であろうか。労心焦慮するうちに、人生の目的や、これからなさなければいけない仕事の輪郭が浮かんできた。全人類のこの苦痛、この不幸、この悲劇、この罪悪から解放する仕事。この仕事に責任をもって、引き受ける立場、位置があるに違いない。」
「先生の出生と少年時代は本当に不幸で悲劇的なものであった。それは先生一人が経験した環境ではなく、当時に生まれついたすべての韓国人たちの悲しい運命でもあった。五千年の悠久なる歴史を持つ韓国であったが、国力が衰退しながら日帝の侵略を撃退できず、彼らの支配下で人間以下の生活をするしかない時代だったからである。」
「少年期の感性は非常に鋭利であり、鋭敏なものである。まだ小さい時であったけれども、周辺で起こっている環境の変化に対してたくさんのことを考えながら、そうならざるを得なかった理由を知ろうと努めた。その時、先生の気運を前に立てて、不幸な環境に暴力で立ち向かおうとしたなら、・・・・・・恐ろしい組織を持った頭目ぐらいにはなったであろう」(1982.10.17)

 文鮮明師の青少年期は、『生書』にみられる大神様の記述に比べれば悲壮感が強く、このことと文鮮明師が教祖として立ち上がっていく動機となった「神の召命」の体験が15歳という若年であったことは、深く結びついていると思われる。すなわち、順風満帆の人生を歩んでいる人が神の啓示を受けて教祖になるということは考えにくく、必ず何らかの苦難に直面しなければならないのである。大神様の場合には、それが青少年期ではなく、結婚後に中年になった頃に訪れたということである。

第二章 主婦として
 
 ここから『生書』の「第二章 主婦として」の内容に入る。

 大神様は大正9年11月に田布施の北村清之進氏と結婚している。二十歳の時であった。ちなみに、同じ年の春に文鮮明師が誕生している。

 第二章の冒頭で『生書』はしばらくの間、田布施の土地柄について説明している。現在の田布施は小さな農村に過ぎないが、干拓して田んぼとする前は瀬戸内海の大きな入り江であり、大陸との交通の要衝であったこと、多くの仏教寺院が栄え、地方政治の中心地でもあったことなどが紹介され、ちょっとした「お国自慢」が展開されている。

 教祖が嫁いできた北村家は、『生書』では天照皇大神宮教の本部道場になっていると記述されているが、1964年に現在の本部道場が竣工された後は「旧本部道場」となっている。私が2019年の6月に天照皇大神宮教本部を宗教新聞の取材で訪問した際には、この旧本部道場にも案内してもらった。「天照皇大神宮教・神の国建設・精神修錬道場・本部」という看板は『生書』の記述のままであった。

天照皇大神宮教旧本部道場

天照皇大神宮教旧本部道場(2019年6月22日筆者撮影)

 『生書』によると、北村清之進氏は16~7歳のときにハワイに移民し、そこで10年間働いて財を成し、27歳のときに帰国してここに家を建てたという。その母屋が、後に大神様が説法をされる本部道場になったというわけだ。

 清之進氏が徴兵で満州に行っている間に、父である吉松氏が明治44年に亡くなると、家に残ったのは教祖とその姑に当たるタケさんだけになった。このタケさんは部落でも有名な吝嗇家(ケチ)であった。この話は島田裕巳氏や上之郷利昭氏の著作でも紹介されている有名な逸話である。
「来る嫁も、来る嫁も、このお婆さんの気に入らず、農繁期が済むと、いじめて追い返すのであった。教祖サヨさんがお嫁に来られた時は、もう五人の嫁が同じ運命をたどった後であった。つまり六番目の嫁として迎えられたのである。」(p.13)

 いまであれば考えられない話だが、当時はそういうこともあったのであろう。本来なら夫である清之進氏が妻を守るべきであろうが、彼は実直ではあったが小心者で、母タケさんの言いなりになる人であったため、守ってはくれなかったようだ。
「このような家庭に迎えられた、教祖サヨさんの新婚生活は、近頃の若い人々が夢見るような結婚生活とは似ても似つかぬものであった。世界一難しい姑といっても過言でない姑に仕え、小心者の夫君のご機嫌をとり、一町以上の田畑の仕事をやりきってゆかねばならない主婦サヨさんの行は、並たいていのものではなく、断じて常人のよくするところではなかった。」(p.14)

 いよいよ大神様の苦難の路程が始まったわけだが、そのことの持つ意味については次回に分析したい。

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