北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ01


 今回より、日本の新宗教研究の一環として、北村サヨと天照皇大神宮教に関する研究を短期シリーズで連載することにする。これまで私は「日本仏教史と再臨摂理への準備」と題するシリーズで仏教を扱ったり、キリスト教神学と統一原理を比較したり、「日本人の死生観と統一原理」や「宗教と万物献祭」などのシリーズで、伝統宗教や新宗教の教えと統一原理の比較を行ったりしてきた。将来は、神道についての連載も計画している。天照皇大神宮教は、戦後の一時期「踊る宗教」として一世を風靡した興味深い教団であり、現在も存続している生きた宗教団体である。教えの中身を研究してみれば、「日本的一神教」とでも呼べるような啓示宗教であり、統一原理との間に共通点も見出すことが可能な、面白い宗教であると感じた。ただ通り一遍に天照皇大神宮教について紹介しても面白くないので、家庭連合や統一原理との比較を交えながら解説を試みたいと思う。

 一つの宗教団体について研究する際には、まずはその教団が出版している文献に目を通し、その教団の自己理解に沿って捉えようとするところから出発するのが正統的なやり方である。ところが、天照皇大神宮教の教えを表現している『生書』や『天聲』は市販されておらず、部外者には入手が困難である。そこで研究の資料としては、客観的な記述であると定評のある『新宗教辞典』(弘文堂)によって基本的な事実を抑え、さらに島田裕巳著『日本の10大新宗教』(幻冬舎)、上之郷利昭著『教祖誕生』(講談社)に記述されている内容に基づいて分析することとした。これらは非信者による外部からの研究資料といえるが、いずれも扱い方は好意的だ。

 天照皇大神宮教には、教団の公式サイトが存在しない。個人のサイトとして参考になるのが、春加奈織希(本名ではなくウェブ上の匿名)による「遥かな沖と時を超えて広がる 天照皇大神宮教」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~harukanaoki/index.html)と題するサイトである。これは現役信者による記述であるため、教団の公式見解と大きな齟齬はないと思われる。「引用は自由ですが、自己の責任でお願いします。」ということなので、このサイトも重要な資料として活用させていただくことにする。

北村サヨ教祖

北村サヨ教祖

 天照皇大神宮教の教祖・北村サヨは、1900年(明治23年)1月1日、山口県玖珂郡日積村大里に生まれた。生家の浴本家は一町六反ほどの田畑を持つ比較的豊かな農家であった。サヨの両親は熱心な浄土真宗の門徒であったため、両親に連れられて寺参りをするなど、宗教的な環境の下で育てられた。サヨは活発で頭の良い子供であったが、女が学問をすると虚栄心が強くなるという父親の考えにより、尋常小学校を卒業した後は農作業の手伝いをし、20歳で北村清之進の家に嫁いだ。北村家のあった田布施は山口県の小さな田舎町に過ぎなかった(現在でも人口は1万4千人程度)が、ここから岸信介と佐藤栄作という二人の総理大臣を世に送り出したことにより、後に人々の記憶に残る町となった。北村サヨと岸信介首相との因縁も、両家が共に田布施にあったことによるものである。

 サヨが嫁いだ北村家の姑・タケは大変な吝嗇家(ケチ)であったため、サヨは嫁姑関係で苦労することになるが、それに耐えて陽気で男勝りの農婦となった。姑が1940年に亡くなった後には、サヨはしばらく平穏な生活をしていたが、1942年に離れ屋敷が不審火で焼失して農具を失ったことをきっかけに祈祷師のもとを訪れ、それから深夜に神社に参拝する「丑の刻参り」や水垢離を行うようになる。そうした宗教的な行を2年ほど続けた1944年ごろから、サヨは自分の肚(はら)の中に何者かが入って語りだすという経験をする。人々を救い、「神の国」を建設するという使命感を持つようになったサヨは、1945年7月22日に自宅に人を集めて初の説法を行う。そして同年8月12日、天照皇大神(宇宙絶対神)が自分に降臨したという自覚を持つようになり、それからサヨは浪花節のような歌説法によって新しい世界の訪れを訴える女教祖となっていく。

 北村サヨの経歴は、日本における典型的なシャーマン的霊能者のものである。その体験は、苦難の半生と更年期の神憑り体験、修行による霊威の強化などによって構成され、天理教の教祖である中山みき(1798‐1887)や大本の教祖である出口なお(1837‐1918)と多くの共通点を持つ。日本には普通の女性がある日突然「神憑り」を体験して新宗教を創設するという例が多く、北村サヨもこうした女教祖の系列の中に位置づけることができる。

<教祖の比較:北村サヨと文鮮明師>

 世界平和統一家庭連合の創設者である文鮮明師も、神の啓示を受けて一つの新宗教を創設したという点では同じであるが、同時に多くの相違点も発見することができる。そこで、この二人の教祖を様々な角度から比較してみたい。

 文鮮明師は1920年生まれなので、北村サヨよりも20歳年下となる。しかしどちらも第二次世界大戦が終了した頃に、ほぼ同時に宗教活動を開始している。北村サヨは44歳の時に神憑り体験をし、45歳の時に本格的に宗教活動を開始する。一方で文鮮明師が神の啓示を受けて使命を自覚したのは15歳の時であり、本格的な牧会活動を開始したのは25歳の時であった。北村サヨの宗教家としての活動は45歳から67歳で他界するまでの22年間であるが、文鮮明師の活動は25歳から92歳までの67年間であり、その長さの違いが生涯において手がけたことや成し遂げたことの差となって表れているように思われる。

 教祖が男性であるか女性であるかも、その教団の性格に大きな違いをもたらすと思われる。日本の女性教祖は高度な教育を受けることなく苦難の半生を送り、その体験に基づいて教えを語ることが多いため、その内容は「お筆先」のような形で、生活の実感に基づいた平易な言葉で語られることが多い。島田裕巳が「天照皇大神宮教は、もっぱらこの生き神様としてのサヨの魅力によって信者を集めていく。体系的な教義が作られ、洗練された儀礼が形成されていたわけではなかった。」(『日本の10大新宗教』、p.92)と語っているように、サヨの教えも知的な体系を持っていたわけではなく、エネルギッシュで迫力ある平易な言葉で語られたものであった。サヨは自分のことを「尋常六年しか出ていない百姓の女房」とか「おんなヤクザ」と呼んでおり、どこか反知性的な性格を持っていたと思われる。そのため、天照皇大神宮教では「経文や本で宗教を勉強して、頭に知識を入れる時代は終わった」とか、「知識や頭脳で悟ろうとする時代は終わった」として、経典の知識を蓄積する職業的宗教家も必要ないと教えている。

 小説家の藤島泰輔は、サヨについて「土俗性というか、土の匂いのする方」であるという印象を語っている。その言葉通り、サヨは教団の中で「大神様」と呼ばれながらも、生涯質素な生活を貫いた純粋な宗教者であった。それがサヨの魅力の一つであり、彼女に対して好印象を持った知識人は多い。女性が教主として信仰の伝統を相続する日本の新宗教においては、教団の運営は親族の男性が教主を補佐する形で行う場合が多い。これは天理教においても大本においても、天照皇大神宮教の二代目以降の教主においても同様であるようだ。教主は神との仲介役として、宗教的純粋性を保つことが役割となる。シャーマンという霊的な役割と、教団の運営という合理的な仕事を両立するのは難しいため、こうした分業が発生すると考えられる。

 一方、文鮮明師は神の啓示を受ける霊的な指導者であると同時に、宗教団体の運営にとどまらず、新聞社、学校、病院、政治団体、企業、NGO、芸術団、スポーツチームなど、無数の団体を創設して運営した実業家でもあった。文師は日本統治時代の韓半島の平安北道の田舎町で生まれ育ったが、日本に留学して早稲田高等工学校に学ぶなど、当時の韓国人としてはかなりの高等教育を受けている。文師は深い宗教性を持ちながらも「反知性」とは真逆の人物であり、工学だけでなく幅広い哲学や思想にも関心を持つ、知的好奇心の旺盛な青年であった。そうした文師が若き日の宗教的探求の結果として解明した「統一原理」は、一つの組織神学として完成した壮大な知的体系であった。文師は生涯にわたって多くの説教をなし、それが「御言葉全集」として残されているが、その教えはかなり初期の段階で『原理講論』という体系的な一冊の書物にまとめられている。文師のようなカリスマ的宗教指導者の教えは、通常であれば生前は多くの矛盾をはらんだ断片的な言葉として記録され、死後にそれが体系可されることが多いのであるが、文師は弟子の劉孝元氏に命じて『原理講論』をまとめさせ、それを自ら監修して体系的な教えとして残している。

 文師が知性を重んじていたことは、「世界平和教授アカデミー」や「科学の統一に関する国際会議」などの学術的な団体を創設していたことからも明らかだが、こうした活動の背景には理想世界の建設に対する壮大なビジョンがあった。日本の新宗教の教祖の中に文鮮明師に匹敵するような人物を探すとすれば、シャーマン的な女性教祖の中に見出すことは難しい。最も近いタイプの人物としては、「大本」の二大教祖の一人である出口王仁三郎を挙げることができるであろう。日刊紙「大正日日新聞」を買収したり、世界共通語としてのエスペラント語の普及に努めたり、大陸に進出して新蒙古国を作ろうとしたり、「世界宗教連合会」を立ち上げたりしたスケールの大きさはよく似ているし、国家権力から弾圧されて牢獄に入った点も似ている。コンピューターを搭載したブルドーザーのように、あらゆる分野に活動を広げながら生涯疾走した文鮮明師の教祖としてのあり方は、やはり高度な知性を持った男性ならではのものであったと言えるであろう。

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