北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ09


 北村サヨと天照皇大神宮教に関する研究シリーズの9回目である。第3回からは天照皇大神宮教の教えを統一原理と比較しながら分析する作業を開始したが、先回までで教義の根幹部分に関する比較を一通り終えたので、今回からより細かい類似点と相違点をポイントごとに解説することにする。

<怨讐を愛する:迫害に対する教祖の姿勢>

 天照皇大神宮教と家庭連合の教祖の物語に共通する内容として、自分に敵対する人物を許して受け入れていく話がある。イエス・キリストは「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えたが、それを実践したような物語が存在しているのである。

 北村サヨは1946年に食糧緊急措置命令違反に問われ、懲役八カ月、執行猶予三年の有罪判決を受けたことがあった。多くの日本人が空腹にあえいでいた戦後の食糧難の時代に、サヨは自分が農業をして作った米の供出を拒否するとともに、「同志」(信者のこと)たちに対しても供出拒否を呼び掛けた。「神に近づく努力もせず、私利私欲に固まった“蛆虫ども”に食わせる米はない」というのがその理由であった。サヨは法廷でも裁判官や検事を前に臆することなく歌説法を行い、無我の舞を見せて時代と社会を批判した。

 その時の担当検事が、渡辺留吉という人物であった。彼はサヨの罪を指摘して求刑しなければならない立場であったのだが、内心ではサヨが熱っぽく説く話に感動してしまったのである。彼は後に、「本当にこの人のいう通りだ、と内心忸怩(じくじ)たる思いに駆られながら、懲役八ヵ月の論告をしたのですから、なんともお恥ずかしい話です」と述懐している。裁判のしばらく後に、渡辺検事は田布施の本部を訪問している。その時の様子が上之郷利昭著『教祖誕生』で以下のように語られている。
「なんとなく気がかりだった、ということなんでしょうか。近くに所用があった時に、つい寄ってみたくなったんです。警察で自転車を借りましてね。なにしろ、私は畏れおおくも〝大神様〟を取り調べ、懲役を言い渡した男。もしかしたら信者の人たちにブン殴られるんじゃないか、何しに来たと憎々し気に睨まれるんじゃないか、と覚悟をして行ったのですが、全く逆でした。みなさん、手を合わせて『いらっしゃい』というように温かく迎えて下さった。大神様も『よく来たな』といった具合で。」(『教祖誕生』、p.312)

 渡辺検事はこのとき教祖の北村サヨと本部道場で会話し、信者たちと接したときに、彼らの幸せそうな姿とほのぼのとした温かさに触れて心惹かれるようになり、この時の体験がきっかけとなって「同志」になったという。劇的な霊的体験ではないものの、キリスト教における「パウロの回心」のような、かつての迫害者が味方になったという話である。

 文鮮明師は、日本留学時代に韓国人留学生たちと共に抗日独立運動をしたことが原因で、戸塚警察署で何度も取り調べを受けている。卒業して韓国に帰国した後にも、1944年10月に京畿道警察部に連行され、そこで過酷な拷問を受けている。日本での地下運動の具体的な内幕と、その関連者を暴露するよう迫られたのである。あまりに過酷な拷問に、文師は血を吐き、生死の間を幾度もさまよいながらも、仲間を売ることはしなかった。文鮮明師にとって日本人は、自らの祖国を植民地化しただけでなく、個人的にも拷問を受けた怨讐であった。このことについて文師は以下のように語っている。
「先生においては日本人は怨讐であった。日本の憲兵によって相当拷問された。血を吐き、生死の境界を何十回も往来した男だ。時来たらばそれ全体を一遍に復讐してしまっても、あまりあるような、そういうような立場において辛さを感じた男である。」(1972年5月6日:『日本統一運動史』、p.102)

 しかし、日本が降伏したときには、文師は復讐とは真逆の行動をしている。
「第二次大戦で日本が負けた時、先生を拷問した人たちをみな夜中に呼び出して、『あなたたち、韓国にいたら危ないから逃げなさい』と荷物を積んで送り出した先生です。先生はその時、今までの日本は敵国であったが、将来はそうではない、神の御旨によって、兄弟になるであろう未来を思いつつ、現実の赦し難い日本を赦そうと思ったのです。」(1978年9月21日:『日本統一運動史』、p.103)

 文師はその後も、大韓民国で投獄され、アメリカでも無実の罪で投獄されているが、それらの国家や政府を恨むことなく、その国のために祈り、愛し続けている。文師は反共主義者であったために、共産主義者たちから命を狙われたが、冷戦時代末期にはソ連にまで出かけて行ってゴルバチョフ大統領に会い、北朝鮮まで出かけて行って金日成主席にあっている。特に金日成主席は、かつて北朝鮮の興南刑務所に文師を思想犯として投獄した張本人である。しかし文師は、「真の愛の前には怨讐という概念はない」という信念の持ち主であった。文師は自叙伝の中で以下のように語っている。
「日本の植民統治時代と北朝鮮の共産政権、大韓民国の李承晩政権、そしてアメリカで、生涯に六回も主権と国境を超えて、無実の罪で牢屋や暮らしの苦しみを経て、肉が削られ血が流れる痛みを味わいました。しかし今、私の心の中には小さな傷一つ残っていません。真の愛の前にあっては、傷など何でもないのです。真の愛の前にあっては、怨讐さえも跡形もなく溶けてなくなるのです。」(『平和を愛する世界人として』序文より)

<結婚の重視:「結魂」と「祝福」>

 結婚を重要視していることも、天照皇大神宮教と家庭連合の共通点である。

 天照皇大神宮教では、夫婦の魂と魂が結ばれるという意味で、結婚を「結魂」と表記している。教団では信者同士のお見合いを斡旋している。適齢期の同志やその親から、教団にお見合いの斡旋依頼が出されて、当人同士がお見合いをして納得すれば婚姻に至るシステムであるという。

 教祖である北村サヨが生きていたときには、「マッチング」のようなことを行っていたことが、春加奈織希のサイト「遥かな沖と時を超えて広がる 天照皇大神宮教」では以下のように紹介されている。
「大神様は、人の前世をみることができましたので、前世で夫婦であった男女を結魂させられたことが、何度もありました。そのことは、『因縁のある者同士が結魂』することだと表現されています。前世で仲のよかった夫婦であれば、その良い因縁で結魂後も順風満帆だそうですが、前世ですったもんだしたような夫婦の場合は、その『逆縁』とでもいうべき因縁因果で、何かと波風が立つこともあるそうです。

 しかし、これも前世の因縁か、これも魂を磨く行なのだ、とすべての恨みを感謝で受けて笑顔で送る夫婦間の行(ぎょう)の日々を送ることで、そうした悪い因縁が切れてゆき、次第に円満な夫婦の境地に辿りつくそうです。実際、そうした体験談は、数多く記録されています。」

 家庭連合では結婚は「祝福」と呼ばれ、教義の中心部分をなすと同時に、救済の儀礼として機能している。神の創造目的は、人間をして三大祝福を完成させることにあり、その中の二番目の祝福が、男女が結婚して子女を生み増やすことにあるため、結婚は人生において必ずしなければならないものとされている。また、人類始祖アダムとエバが神の戒めに背いて堕落した内容も、神の祝福のもとに結婚したのではなく、サタンの誘惑によって誤った性の関係を持ってしまったことであるとされ、「結婚の失敗」であったと解釈されている。そのため、神を中心とする「正しい結婚」をすることが救いの道であり、それに該当する「祝福式」は、信者たちが罪から解放される宗教儀礼として位置づけられているのである。

 文鮮明師は、信者たちの配偶者を斡旋する「マッチング」を行ったことで有名である。相手を決めるときには、それぞれの男女の「先祖の背景」を見て決めたとされ、お互いに欠けているところを補い合うような「理想相対」を選んでくれると信者たちから信じられていた。マッチングされたカップルがお互いに対して葛藤するような場合も、それは先祖の背景からくる蕩減内容の清算の過程で起きる現象であり、それを信仰によって乗り越えたときに仲の良い夫婦になるという解釈がなされた。

 こうしてみるとき、天照皇大神宮教と家庭連合の結婚観は非常によく似ている。

<新しい時代の到来に際して新しい暦を設定>

 新しい時代の到来に際して、「元号」に似たような新しい暦の出発を設定しているところも、天照皇大神宮教と家庭連合の共通点である。

 天照皇大神宮教では、昭和21年1月1日に神の国開元を宣言し、その年を紀元元年としている。以来、教団ではこの紀元で年を表現している。

 家庭連合では、2013年1月13日を「基元節」として、その年を「天一国元年」としている。以来、教団では「天一国〇〇年」という新たな暦を用い、太陽暦ではなく太陰暦に基づく「天暦」を正式なカレンダーとして用いている。

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