書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』203


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第203回目である。

「おわりに」

 第201回から本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入り、前回からその中の「1 統一教会における信仰のリスク」の分析に入った。ここで櫻井氏が言っているのは、統一教会の信仰を持つことはリスクが伴うということだが、前回は宗教的言説に対して論理的証明を求めることの問題点と、信仰者にとってのリスクとは何かという点について掘り下げて考察した。今回はより具体的なリスクの内容に入っていくことにする。櫻井氏の指摘する統一教会のリスクとは、主としてあまりに活動に没頭しすぎて健康を害するリスクと、献金をしすぎて多重債務者になったりする経済的なリスクである。彼は以下のように述べている。
「宗教的な救済は世俗的な価値を超えるものだとはよく言われることだが、日本の統一教会信者は信仰的である人ほど全てを出し切る生活を送っている。献身者は医療保険や国民健康保険もかけずに教会生活を送るが、病気や大けがをしたら自宅に戻されるだけである。全てを献げ切った老年の信者達は生活保護を申請するしかないだろう。統一教会がいう天国(天一国)への入籍証をもらうためには献金が必要とされ、今後とも様々な形でお金が必要であることは地上でも天国でも統一教会員である限り変わらない」(p.554)

 以前、統一教会信者の一部が国民健康保険や社会保険に代表される公的医療保険制度に入っていなかったというのは事実であるが、これは既に昔の話である。櫻井氏の言うところの「献身者」は宗教法人統一教会の職員ではなく、信徒の組織の中で活動をしていた者を指すが、そうした組織がまだまだ未成熟で未整備だった時代の話である。コンプライアンスの徹底の中で、現在では宗教法人の職員は社会保険と厚生年金に加入するようになっているし、関連団体の職員も同様である。宗教法人は信者を雇用しているわけではないから、基本的に統一教会の信仰と保険との間には関係がない。関係があるのはむしろその人の職業である。信者の中には、会社員も公務員も自営業を営む者もいるのであるから、それぞれの職業にふさわしい保険には入っているのである。

 それ以外の櫻井氏の発言は大雑把な推測に過ぎず、明確な根拠が示されていない。生活に困窮するようになった信者が生活保護を申請するのは国民としての権利である。生活保護を支給する側は、その人が実際に保護を必要とするかどうかを調べるのであって、そうなった理由を問うたり、その理由によって差別をする立場にはない。櫻井氏の言う「地上でも天国でも」という言葉は意味が不明であり、何が言いたいのかよく分からない。普通、「地上」と対比されて用いられる「天国」という言葉は霊的な世界のことを指すが、霊界は物質的な世界ではないので、そこでお金が必要であるとは統一教会は教えていない。死後天国に入るための条件として地上での生活において献金が必要であるという話と、死後天国でもお金が必要だという話はまったく別の話であり、論理的に破綻した内容を櫻井氏は語っている。どうやら櫻井氏は統一教会を揶揄することに頭がいっぱいで、論理的思考ができなくなってしまっているようだ。

 続いて櫻井氏は、日本の女性信者は韓国の男性と祝福家庭を持つ可能性が高く、韓国に嫁げば経済的に余裕のない厳しい生活を送るようになるリスクがあると主張する。さらに恋愛感情なしに結婚した日本人女性たちが信仰を失った場合、家庭を継続することが難しくなるリスクもあるという。通常リスクとは、自分では回避しがたい危険や困難に関することを言う。しかし、韓国の男性と祝福を受けるかどうかは本人の意思によって選択可能なので、これは「回避可能なリスク」ということになる。櫻井氏は、統一教会では結婚する相手の国籍は選択できないかのように書いているが、実際には祝福の面接の際にどの国の人を希望するのかが確認され、それに反して相対者が選択されることは基本的にはない。むしろ、本人が国際祝福を希望したとしても、両親や家族の事情などをよく聞いて、慎重に判断するように諭すことの方が多いのである。

 また、信仰を失ったときに家庭を継続することが難しくなるリスクに関しては、基本的には「心変わりのリスク」ということになり、これは統一教会の韓日祝福だけでなく、どんな結婚にも存在するリスクであると言えるだろう。たとえ恋愛結婚をしたとしても、結婚後に相手に幻滅したり、相手の心が自分から離れてしまった場合には、結婚生活を継続できなくなるリスクは存在する。どちらかが浮気をするというリスクも存在する。夫婦の愛情がなくなり、お互いに相手を憎むようになっていたとしても、子供がいるから家庭生活を継続している夫婦はいくらでも存在するのであるから、「心変わりのリスク」が存在しない結婚はないと言える。信仰を動機とした結婚が、信仰を失うことによって危機に瀕するのも、恋愛感情を動機とした結婚が、愛情がなくなることによって危機に瀕するのも、どちらもうつろいやすい人の心によって生じるリスクであり、統一教会の結婚だけが特別にリスクを背負っているのではない。

 櫻井氏は続いて、「筆者が最終的に答えなければならない質問は、これほどのリスクを抱えながら、なぜ、統一教会の信者達は信仰生活を継続できるのだろうかという問題である。」(p.555)と述べている。彼の答えは、現役の統一教会信者はリスクの存在についてよく理解できていないから信仰を継続することができ、脱会カウンセリングを受けた者たちは信仰のリスクについて理解することができたからやめたのだ、というものである。そもそも現役の信者はやめるリスクとやめないリスクとを比較考慮しながら信仰を継続するかどうかを決めているわけではなく、そうしたことを考える余裕すらないというのである。櫻井氏は統一教会を信じることのリスクを5つの項目に従って解説しているが、その細かい内容に入るのは次回に譲ることにして、宗教を信じる者のリスクに対する認識についてもう一度確認しておこう。

 前回述べたように、およそ信仰者というものはリスクを承知で神との契約にかけてみようと決断した人々のことを言うのであるから、リスクの存在そのものは信仰を妨げる要因にはならない。リスクを気にかけることは、むしろ信仰が薄い証拠であると考える傾向が強いのである。このことを典型的に示している新約聖書の逸話が、マタイ伝14:26-31に出てくる物語である。この物語では、イエスが湖の上を歩いているのを見た使徒ペテロが、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と言うと、イエスが「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行ったとされている。しかし、風を見て恐ろしくなり、おぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言ったのである。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言った、という物語である。

 ここではイエスに対する信仰があれば、水の上を歩いて渡るという危険なことさえできるのに対して、風を見て恐ろしくなるというような、現実的なリスクを意識したとたんに水の上を歩くことができなくなってしまい、おぼれてしまったのだという理解がされている。すなわち、リスクについて思い煩うことは信仰の妨げになるので、すべての思い患いを捨てて純粋にイエスを信じれば逆にリスクから守られると教えているのである。

 このことは、イエスがあらゆる思い煩いを捨て、ただ神の国とその義とを求めよ、そうすればその他すべてのものは添えて与えられるであろうと教えたことと通じている。神を信じ、神のみ旨の為に生きることによって自分自身が守られるというのがキリスト教信仰の本質である。そこにはリスクヘッジという発想そのものがないのである。こうしたクリスチャンの精神を表現した讃美歌が「神はわがやぐら」である。その日本語の歌詞と、ドイツ語のオリジナルの翻訳を以下に掲載する。それを読めば、神に対する信仰こそがあらゆるリスクを遠ざけるというキリスト教信仰の神髄を知ることができるであろう。

<日本語歌詞>
1.神はわがやぐら わが強き盾 苦しめるときの 近き助けぞ
  おのが力 おのが知恵を たのみとせる よみのおさぞ げにおぞましき
2. いかに強くとも いかでか頼まん やがてはくつべき 人のちからを
  われとともに たたかいたもう イエスきみこそ 万軍の主なる あまつおお神
3.悪鬼は世にみちて よしおどすとも 神のまことこそ わがうちにあれ
  よみのおさよ ほえたけりて せまりくとも 主のさばきは なが上にあり
4.くらきのちからの よしふせぐとも 主のみことばこそ すすみにすすめ
  わがいのちも わが妻子も とらばとりね 神の国は なおわれにあり

<ドイツ語歌詞翻訳>
1.私たちの神はかたいとりで よい守りの武器です。
  神は私たちを苦しみ、悲惨から 助け出してくださいます。
  古い悪い敵はいま必死にあがいており、その大きな勢力と策略を用いて
  攻撃してくるので 地上の存在でこれに勝てる者はおりません。
2.私たちの力は無にひとしいのです。私たちは立ちえません。
  けれども私たちに代わって戦ってくださる方がおります。
  それは神ご自身が立ててくださった戦士であられます。
  そのお名前を尋ねますか? その御名はイエス・キリストです。
  万軍の主なるお方であり、神ご自身であられるお方です。
  主は敵に譲ることはありません。
3.悪魔が世に満ちて 私たちを飲み込もうとするときも 
  私たちは恐れなくてもいいのです。私たちは敵に勝利します。
  この世を支配するサタン、悪魔がたけり狂っておそってくるときも
  彼の手は私たちにとどきません。
  彼は神のみことばの一撃で、打ち倒されてしまいます。
4.世人たちがみな神のみことばをあざけり、
  みことばをふみにじっておそれをしらないときであっても
  主は私たちと共に戦ってくださり、聖霊と賜物を与えてくださいます。
  世人たちが地上のいのち、財産、名誉、妻子を奪いとろうとしても
  世人たちは何も得ることは出来ません。
  神の国は永遠にクリスチャンのものであります。

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