書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』201


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第201回目である。

「おわりに」

 先回で本書のすべての章に対する批判的分析を終えたので、今回から全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入ることにする。この書評もあとわずかで終わりということだ。思えば2016年3月16日にこのシリーズを開始して以来、途中何度かの休憩を挟んで、既に4年以上の歳月を費やして書き続けたことになる。ある意味で感慨無量だ。言うまでもなく、このブログの中では最長のシリーズとなった。本書の「おわりに」は櫻井氏が執筆しているが、彼はその冒頭で以下のように述べている。
「統一教会とはつくづく不思議な宗教だと思う。調べれば調べるほど魅力が増すという意味ではない。むしろ、なぜ、信者達はこのような信仰を維持していられるのか、筆者の想像を超える信仰生活という意味で感嘆せざるをえないのだ。このような言い方は宗教学者として不遜な言い方、あるいは冷静さや客観性を欠く言い方だと思われるかもしれない。宗教には、実践しないものには容易に知りえない世界があることを承知しているし、信仰者の世界に土足で踏み込んだり、外部からとやかく言ったりすべきではないという正論も承知している。」(p.553)

 櫻井氏が「宗教学者として不遜な言い方、あるいは冷静さや客観性を欠く言い方」というのには訳がある。それは宗教学者は研究対象である宗教に対して敬意をもって接し、冷静かつ客観的な、あるいは価値中立的な立場で分析すべきであるという、学問としての作法が存在するからだ。これは、現代の宗教学が神学からの解放を通じて自らを確立してきた歴史を持つことと深く関係している。宗教を研究する学問としては、宗教学よりも先に神学があり、宗教学は神学に下属する学科として理解されていた時代があった。したがって、そこからの自らの解放、すなわち「脱神学化」こそが宗教学の目標であったため、その方法論はしばしば神学との対比において語られてきた。神学が規範的な学問であるのに対して、宗教学は経験的で記述的な学問であるとされる。この「規範的」対「経験的・記述的」という言葉は、「主観的」対「客観的」という表現に置き換えることも可能である。要するに、主観的研究が信仰の立場からの研究であり、宗教がいかにあるべきかを問うものであるのに対して、客観的研究は宗教をあるがままの姿で、実証的かつ価値中立的に取り扱うものであるとされているのである。

 宗教学は「比較宗教学」として始まり、さまざま宗教を比較研究するところから始まったが、近代的な宗教学が確立される以前の宗教の比較は、「護教論的な比較」と言ってよいものだった。その比較は、善悪や優劣などの価値判断をすることを動機あるいは目標としていた。宗教の世界における比較は、つねにある特定の宗教を有する人々が、異なる人々に出会ったときに始まるが、そこで人々は自他の宗教について異同や優劣を論じたり、その違いの原因を探ろうと努めたりする。そこにおいては、多くの場合、自身の属する宗教が暗黙の、または明白な基準として立てられ、他の宗教が「異教」「外道」ないし「異端」などとして批判されるのが常である。このように自らの宗教の真理性を明らかにするために行う比較は、自己中心的であることを免れず、客観的とは言いがたい。

 近代的な宗教学においては、特定の宗教の優越というような、信仰に基づく判断を差し控えることが根本のたてまえとなっている。それは自己の宗教の絶対化を避け難い神学からの漸進的な解放によって、はじめて独立しえたものだからである。それでも、近代的な宗教学の草分け的存在であるといえるミューラーやタイラーにおいても、経験科学としての宗教学と、宗教の起源および進化という思弁とが混在しており、諸宗教の「相対的優劣」という間接的な価値判断がまぎれ込んでいたことが指摘されている。しかし今日に至っては、宗教学は諸宗教の「相対的優劣」はもちろんのこと、その起源を論ずることをも、ほとんど放棄するにいたった。そうしたことを論じるのは実証的でないと考える、客観的な経験科学としての宗教学の立場が主流になったからである。

 こうした宗教学の伝統から見れば、本書における櫻井氏の立場は異端的であり、あきらかに逸脱していると言える。櫻井氏の批判は特定の信仰に基づく神学的な批判ではないが、彼は明らかに「宗教は本来こうあるべき」という規範を持っており、それに基づいて統一教会はとんでもない宗教だと批判しているからである。さらに彼の批判は、ときに宗教社会学の範疇を逸脱して神学的な領域にまで到達することもある。批判できるものならどんな情報も、どんな手法も使ってしまおうという節操のなさがあり、冷静さや客観性を欠いているのである。

 日本の宗教学の歴史の中には一時期、宗教者の体験的身体的理解を重んじる「体験的身体的理解」や、信仰世界に対して共感的でありながらも、その信仰の営みを時代的状況との対応関係の中で位置づけ直そうとする「内在的理解」といった手法がもてはやされた時代があった。これは研究主体とその対象という二分法を克服し、研究対象に認識主体が接近しようとい動機に基づくものであり、両者ともに宗教的世界に対して極めて好意的な姿勢を示していた。ところが、こうした手法でオウム真理教の研究に関わった宗教学者たちが、オウムの中に潜む闇を見抜くことができなかったことが批判されるようになり、こうした研究手法は「宗教に対してあまりにも肯定的すぎる」と批判されて大きく躓くこととなったのである。オウム事件が日本の新宗教研究に残したトラウマはあまりにも大きく、いまだにそこから立ち直っていないと言っても過言でないほどである。

 櫻井氏の研究手法は、こうした「体験的身体的理解」や「内在的理解」に対する反動として位置づけることができる。一言でいえば、研究対象である宗教の内面世界に対しては一切の共感を拒絶し、ただひたすら批判することを目的とした研究であるということだ。その意味でこれは規範的で主観的な研究であり、記述的で客観的な研究ではなくなってしまっているのである。なにがなんでも批判してやろうという姿勢は、冷静さも失っていると言える。
「宗教には実践しないものには容易に知りえない世界がある」という正論を櫻井氏は承知していると言っている。しかし現実には、櫻井氏は統一教会信者の内面世界を共感的に知ろうとしていないばかりか、むしろ「絶対に共感しないぞ」という決意で観察しているのである。「筆者の想像を超える信仰生活」なのではなく、そもそも共感的に想像しようとはしていないのである。「なぜ、信者達はこのような信仰を維持していられるのか」に関しても、共感しようとしないから分からないのである。逆に彼が積極的にやろうとしていることは、「信仰者の世界に土足で踏み込む」ことであり、「外部からとやかく言ったりする」ことだ。冒頭の彼の言葉は、おそらく自分の研究態度が伝統的な宗教学の作法から逸脱していることに対するある種の「後ろめたさ」から来ているのであろうが、それでもそれを貫徹しているところが櫻井氏の確信犯たるゆえんである。

 事実、彼は「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」の「第七章 統一教会信者の信仰史」に「3 研究者の立場性」という項目を設けてこのことを論じており、研究者は研究対象である教団や信者・元信者に対して、無色透明な客観的第三者として関わることは不可能であり、教団に対して親和的であるか、あるいは元信者や教団の反対勢力に対して親和的であるかといったような、何らかの「立場性」を取らざるを得ないという趣旨のことを述べている。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というように、統一教会について本当に知りたければ、教団の中に果敢に飛び込んで行かなければ何も分からないはずである。しかし、櫻井氏は統一教会と適切な距離を取るためにはそれができないという。そこで櫻井氏は「虎穴に入る」ことを拒否し、安全圏から相手を砲撃するという研究方法を採用した。日本社会において統一教会と反カルト運動を比較すれば、後者と一体化し、そこに身を置いた方がはるかに安全である。その意味で彼は「第三者」ではなく、対立構造にある一方当事者と同じ立場に立って研究をしているのであるが、それによって自分の身を安全地帯に置いているのである。これはある意味でオウム真理教事件以降の新宗教研修者が取るようになった、一つの処世術であると言ってよいであろう。

 櫻井氏自身が統一教会信者の内面世界に対して一切の共感を拒絶するという姿勢で本書を執筆し、同じ原理で「おわりに」を書いている以上、少なくとも統一教会の現役信者が彼の記述に共感を覚えることはあり得ない。その意味では、櫻井氏自身が言う通り、彼の記述は「統一教会信者達には余計なこと」(p.553)に過ぎないのである。

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