書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』202


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第202回目である。

「おわりに」

 前回から本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入った。前回は櫻井氏による冒頭の言葉を、宗教学の作法という観点から分析し、さらにオウム真理教事件が日本の新宗教研究に残したトラウマという観点から、櫻井氏の研究者としての立場性の問題を指摘した。今回からは櫻井氏の具体的な批判内容に当たる「1 統一教会における信仰のリスク」の分析に入る。ここで櫻井氏が言っているのは、統一教会の信仰を持つことはリスクが伴うのだが、伝道の際にそのリスクが伝えられていないし、入信した後にはそのリスクをリスクと認識しないように教化されているので、結果的に信徒たちにとって有害であるということだ。

 櫻井氏が第一にあげているリスクとは、「『原理講論』に決定的に欠落している論証、すなわち文鮮明が再臨主であることが何ら証明されていないということ」(p.553)だという。これは宗教学者の発言としては驚くべきものだ。なぜなら信仰とは通常、告白すべきものであって証明すべきものではないからだ。新約聖書はイエスがメシヤであることを証しているが、それは論理学的な意味で論証しているわけではない。同様にコーランはムハンマドがアッラーから啓示を受けたことを証しているし、仏教の諸経典は釈迦が悟りを開いたことを証しているが、それらも同様に万人が正しいと納得できるような「証明」ではない。キリスト教神学は歴史的に神が存在することを論理的に証明しようと試みてきたが、万人の納得する神の存在証明はいまだに存在しない。聖書が神の啓示の書であることも、証明することはできない。証明なしに受け入れるからこそ「信仰」なのである。ある宗教の信者が、自らの信仰の正しさを証明したと主張することはあるが、それは信じる者にのみ通じる証明であって、信仰を共有しない者から見れば「護教的な発言」に過ぎない。

 人がイエスをキリストとして受け入れるということは、合理的な分析によるものではなく、聖霊体験に代表されるような宗教体験に基づくことが多い。新約聖書にはイエスのメシヤ性が理路整然と証明されているわけではなく、彼の言葉と行動が物語として書き記されているだけであり、使徒たちが「イエスはキリストである」と証しをするだけである。同様に、統一教会の修練会においては、「原理講義」の後に、通常「主の路程」というタイトルで文鮮明師の生涯に関する講義がなされる。講師は「文鮮明先生こそメシヤです」と証しするかもしれない。これを聞いて修練生たちは、この人がはたして私の救い主であるかどうかを自分で判断するのである。メシヤを受け入れるプロセスは本質的に宗教的回心のプロセスであり、そこには理性では説明できない宗教的体験がともなうことが多い。文鮮明師が再臨主であるというような宗教的なテーゼに対して、櫻井氏が本気で合理的な証明を要求しているとすれば、もはや彼は宗教学者ではあり得ない。

 彼は宗教学者として、宗教的言説に対して論理的証明を求めることはできないことは百も承知のはずである。にもかかわらず、ここで「文鮮明が再臨主であることが何ら証明されていない」と主張しているのは、統一教会の現役信者たちがこれを読むことを想定して、彼らの信仰に挑戦しているとしか考えられない。実はこれは「反対牧師」と呼ばれる人々が監禁された統一教会の信者たちに対してやってきたことと同じである。彼らは「統一教会の信仰が正しいなら、それを証明して見せろ」と迫り、証明できなければ信仰を棄てるしかないと脅してきた。しかし、人には証明できないものを信じる権利があり、それこそが「信教の自由」と呼ばれるものだ。

 信仰は証明できないことを信じるのであるから、いかなる信仰でもリスクを伴う。どのような信仰であっても、お金を入れれば必ず商品が出てくる自動販売機のように、信じれば必ず恵みや救いに預かることができる、というようなものではない。信じても救われないリスク、何も変わらないリスク、予言が外れるリスク、信仰によって逆に迫害やトラブルなどの悪いことが起こるリスクなどを抱えながら、多くの人は信仰しているのである。それでも人はなぜそのようなリスクを取ってまで目に見えない神や霊的な世界を信じようとするのであろうか?このことを理解するためには、そもそも人生そのものがリスクに満ちているのだということを知らなければならない。

 自分の未来や運命を100%予想できる者はいない。自分が選んだ道が本当に正しいのか、間違っているのかも、選んだその時点では分からない。自分の行く道が安全なのか危険なのかも、あらかじめ分かっているわけではない。そこでそうしたリスクに備える方法を人は考えるようになる。お金さえあればとりあえず何とかなるだろうと考える人は、貯金をしたり保険に入ったりするであろう。しかし自分の人生が本当に正しく安全なものとなるためには、もっと大きな力とつながり、その加護を得なければならないという発想をする人々がいるのである。そうした人々は占いによって自分の行くべき道を決めたり、信仰を持つことによって神の守りや導きを得ようとしたりするのである。

 ユダヤ・キリスト教の伝統には、神と人間が契約を結ぶという考え方があり、契約を結ぶ際の人間の側の動機は、人生におけるリスクを回避することにあった。このことは、旧約聖書に登場するアブラハムの孫ヤコブが、ベテルという場所で神に出会ったときに語った内容に典型的に現れている。
「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます。」(創世記28:20-22)

 これはキリスト教における「十分の一献金」の起源とされている箇所だが、ここでヤコブはまだ神を完全に信じてはおらず、「本当に私の神になって下さるのなら、十分の一をささげます」という「契約のオファー」をしていることになる。すなわち、「神が私の神となって、約束を実行してくれたなら、私は十分の一を捧げます。私の神になって下さらなければ、十分の一は捧げません」と言って交渉しているわけである。ここでは神に対する一定の奉仕(財産を捧げること)を条件として、その見返りに加護を求め、人生のリスクを回避してもらうという「契約関係」が想定されているのである。この時点では相手が契約を本当に守ってくれるかどうかは分からず、リスクが存在する。しかし、どのみち彼の行く道はリスクに満ちた険しいものだったので、ヤコブはリスクを承知で神との契約にかけてみようと思ったのである。およそ信仰者というものは、このヤコブと同じように、リスクを承知で神との契約にかけてみようと決断した人々のことを言うのである。

 櫻井氏は、「仮に文鮮明のメシヤ性に疑義が生じたとすると、地上天国実現のため、あるいは先祖の解怨のために、青年達や壮婦達が死線を突破する思いで伝道や献金に明け暮れていることにどういう意味があるのかということになる。」(p.554)と述べ、統一教会を信じることのリスクの大きさを強調する。しかし以下に示すように、こうしたことは他の宗教にも同じように当てはまることだ。

 仮にイエスのメシヤ性に疑義が生じたとすると、世界宣教のため、あるいは人々の魂の救済のためにキリスト教の宣教師が死線を超えてアフリカの未開の地に入って行ったり、禁教下の日本に潜入して殉教したことにどういう意味があるのかということになる。

 仮にムハンマドが神の啓示を受けておらず、コーランが偽物だったとすると、一日に五回もメッカの方角に向かって祈りを捧げ、一か月にわたるラマダンの断食を実行し、ジハードの名のもとに異教徒を殺したり、逆に殉教したりすることにどういう意味があるのかということになる。

 仮に釈迦の説法に疑義が生じ、修行をしても悟りが得られないとすれば、7年にもわたって比叡山の山内を歩き回る「千日回峰行」を苦労して達成することにどういう意味があり、さらには途中で行を続けられなくなって自害した修行僧の死にどんな意味があるのかということになる。

 激烈な信仰は、それだけ多くの恩恵が得られるということを前提にしている。いわばハイリスク・ハイリターンの信仰である。生ぬるい信仰は、ローリスク・ローリターンの信仰ということになる。櫻井氏は統一教会の信仰について「死線を突破する思い」といういささか大げさな表現しているが、実際に死線を突破することはほとんどない。上記のキリスト教、イスラム教、仏教の事例は、実際に死線を突破する事例が歴史的に多数存在しているのであり、その意味では統一教会に比べてはるかにハイリスクの信仰であると言えるだろう。いずれにしても、どのような信仰を持つかはその宗教の個性であると同時に、信じる人の内面がその激しさを決めるのであり、神と人との契約関係に、第三者が口をはさむべきではない。

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