書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』204


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第204回目である。

「おわりに」

 第201回から本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入り、前々回からその中の「1 統一教会における信仰のリスク」の分析に入った。ここで櫻井氏が言っているのは、統一教会の信仰を持つことはリスクが伴うということだが、今回は櫻井氏がリストアップするリスクの内容を分析する。
「(1)招待を隠した伝道方法ではリスクが伝えられていない。『ここが統一教会であること、教団の活動内容を予め教えてくれたら入りはしなかった』と脱会者は同じような語り方をする。つまり、ビデオセンターやセミナー、教会内において人間関係が形成されておらず、統一教会の教説が全く入っていない段階で、本書で縷々説明したような統一教会の実態を知っておれば、あえて入信のリスクを選択する人はいないと思われる。」(p.556)と櫻井氏は主張する。

 私は、少なくとも人を伝道する際には、自分が統一教会の信仰を持っており、これから学ぶ内容が統一教会の教理であることを相手に告げるべきであるという点においては櫻井氏と同意見である。これは私の個人的な意見ではなく、2009年3月25日に徳野英治会長による教会員に対するコンプライアンスの指導が出されたときから教会の公式的な方針となっている。しかしながら、櫻井氏が「本書で縷々説明したような統一教会の実態」について、伝道者が相手に伝える必要はまったくないと考えている。実はその内容を、櫻井氏は大畑昇氏と共に編著者になっている『大学のカルト対策』(北海道大学出版会、2012年)という本の中でかなり詳しく述べている。彼が言うところの「予め伝えるべきリスク」とは、以下のような内容である。
「私は統一教会に関しては研究をしていますが、布教の最初の時点から自分たちの名前と活動内容を明かした布教をするのであれば、それは認められるべきだと考えています。つまり、『統一教会でいう教えに従えば、日本はエデンの園において蛇の唆しによって先に堕落したエバの立場に立ち、アダムの立場に立つ韓国に絶対的に尽くすしか日本が霊的に解放される道はない。具体的には、姓名判断、家系図診断、各種物品販売等々に従事して、原価の数十倍の価格で韓国の大理石壺を販売したり、都市近郊の資産家をVIP待遇の信者として時に数億円相当の献金を依頼したりするような宗教活動に従事することになる。その上で合同結婚式に参加することが認められ、日本人のみ多額の祝福献金なるものを出した上で教団が勧めてくれた配偶者と結婚することができ、その場合、国際結婚になる可能性(日本人女性の場合は韓国人男性の確率が大)が高い。合同結婚後も、統一教会が主催する修練会やイベントに参加して献金要請に応えていくのである』ということをあらかじめ学生に対して周知して、それでなお、活動しようとするのであれば、私は認めざるを得ないのではないかと思います。」(『大学のカルト対策』p.160-161)

 よくもここまで本音を言ったものだと思うが、これが櫻井氏の言うところの「リスクを伝える」ということであり、「宗教的なインフォームド・コンセント」なのである。これは要するに、宗教の伝道者は自分の教団の教義を相手に伝える前に、教団に関するありとあらゆるネガティブな情報を予め伝え、信仰のリスクを十分に認識させたうえでなければ、教えを伝えることができないと言っているのに等しい。

 そもそも、宗教団体の信者が伝道や布教を行う際に、基本的な教えを述べる前に、自らの教団の戒律やネガティブな内容を積極的に開示することが期待されており、そうしなければ「信仰のリスク」を十分に伝えていないとみなされるのであろうか? 例えば、イスラム教徒は、「私たちの宗教では、メッカの方角に向かって1日5回の礼拝をし、ラマダンには1ヶ月間の(夜間)断食をし、生涯に一度はメッカに巡礼に行かねばならず、酒は飲めず、豚肉も食べられず、女性には男性と平等な権利はなく、姦淫の罪を犯したら死刑で、他宗教に改宗しても死刑で、場合によってはジハード(聖戦)に参加して殉教していただきます」と最初の段階で言わなければ、人をモスクに誘うことはできないのだろうか? またイスラム教徒は、9.11の同時多発テロやパレスチナで爆弾テロを行ったのは私たちの仲間だが、それでも話を聞いて欲しいと最初の段階で言わなければならないのだろうか?

 キリスト教徒は、毎週日曜日の礼拝参加や十分の一の献金、洗礼や聖餐式などの情報、および信徒としての義務をすべて最初の段階で開示しなければ、聖書の話をしてはいけないのだろうか? カトリック教徒は、十字軍や異端審問などの過去の暗い歴史についてすべての情報を開示し、一部の司祭や修道者による児童への性的虐待問題について最初に説明しないと伝道できないのだろうか?

 こうした主張がナンセンスであることは、米国版の「青春を返せ裁判」とも言える「モルコ・リール対統一教会」の民事訴訟において、米国キリスト教協議会(NCC)がカリフォルニア州最高裁判所に提出した法廷助言書で、以下のように皮肉たっぷりに示されている。
「結婚しようとする男女は結婚許可証を受け取る前に、お互いの最悪な欠点を述べ合うことを要求されているだろうか。弁護士事務所の雇用担当者は法学部卒業生に対して面接時、雇用契約の前に弁護士事務所の欠陥や問題点を述べるよう義務づけられているだろうか。海兵隊の志願者募集で、担当官は訓練キャンプの最悪の悲惨さと、軍隊生活の危険性のすべてを分類して入隊前の志願者に話すよう求められているだろうか。」

 数多くある社会の団体の中で、宗教団体だけが自らに対するネガティブな情報を積極的に開示されることが求められているとしたら、それは深刻な差別であると言わざるを得ない。櫻井氏が統一教会に要求していることを一般企業に例えてみれば、「会社説明会」の場において、テレビ朝日は1985年に『アフタヌーンショー』という番組で「やらせ報道」をしてプロデューサーが逮捕されたことを、リクルートは1988年の贈収賄事件を、味の素は1997年に起きた総会屋への利益供与事件を、三菱自動車は2000年に起こしたリコール隠し事件を、雪印と日本ハムと伊藤ハムは2001年に起こした牛肉偽装事件を、石屋製菓は2007年に起こした「白い恋人」の賞味期限改ざん事件を、三菱東京UFJ銀行は2012年に起こした112万人もの顧客情報紛失事件を、シャープは2012年に起こした誇大広告事件を、すべての入社志願者に積極的に情報開示することが求められ、それを十分にしないと「リスクヘッジが十分になされていない」と言われなければならない。

 大学は「学校説明会」の場で、自らのネガティブな情報を積極的に開示しているのだろうか? 櫻井氏の所属する北海道大学の不祥事をネットでちょっと検索しただけで、以下のような記事を見つけることができる。
「北海道大は2009年8月27日、2007、2008年度に大学院生の論文を審査した5人の教授が現金や商品券、衣料品などの謝礼を受け取っていたことが新たに発覚したとして、5人を訓告処分にした。」
「札幌・中央署は2012年4月13日、児童買春・ポルノ禁止法違反(買春)の疑いで、北海道大学職員の福井将大容疑者(27)を逮捕した。逮捕容疑は1月25日夜、札幌市北区のホテルで、携帯サイトで知り合った無職の少女(16)に現金1万5千円を渡す約束をしていかがわしい行為をしたとしている。 」

 こうした内容を、学校説明会の時に積極的に開示しなければ、「リスクヘッジが十分になされていない」のであろうか? そんなことは、社会のどの団体もやっていない。それを統一教会にだけ要求するということは、明らかな差別にほかならない。要するに自分たちがやってもいないことを一方的に要求しているに過ぎないのである。

 それ以外に櫻井氏が指摘するリスクは、以下に列挙するように基本的に同じ内容である。
(2)統一教会の信仰においてはリスクをリスクとして認識しないように導かれる。
(3)統一教会の信者には、リスクを低減させるよりも、リスクを一挙に解消することを求める志向が強い。・・・それは自己や他者への配慮(リスクの低減)よりも、神、霊界、お父様が後日(あるいは天国で)全てを解決してくれるという期待があるからである。
(4)統一教会は長らくリスクへの認識や管理を行わないことを宗教伝統としてきた。
(5)統一教会の信者はリスク認知を持つ能力を剥奪されている。

 どれも似たような内容だが、実は櫻井氏は「リスク・ヘッジを許さない発想やシステムは統一教会に限らず、他の宗教運動や宗教組織にも大なり小なり見られることではある」(p.557)ということは認めている。これは私が前回述べたように、およそ信仰者というものはリスクを承知で神との契約にかけてみようと決断した人々のことを言うのであるから、リスクの存在そのものは信仰を妨げる要因にはならないと言ったのと本質的には同じ内容である。つまり、統一教会信者の発想はどの宗教にも見られるものなのだ。にもかかわらず櫻井氏は、「ここまで徹底した教団は特筆に値する」と念を押している。

 いったい、いかなる比較によって櫻井氏は統一教会信者のリスク認識が他の宗教団体の信者のリスク認識に比べてとりわけ低いと言っているのであろうか? その具体的な根拠を彼は示していない。彼がそう感じるのは、統一教会に入信したことを後悔し、教会を裁判で訴えた元信者の証言ばかりを資料として、統一教会信者の信仰について理解しているからに他ならない。要するに、資料の偏りによってそのようにに見えるということであって、客観的なデータの比較によってそう言っているわけではないのである。

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