書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』112


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第112回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 第108回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入り、先回から2人目の元信者B(女性)の事例に入ったが、今回はその続きである。

 Bは短大生だった1987年に伝道され、卒業して就職した後も伝道活動などを行いながら信仰生活を送っていた。しかし仕事の後、夜遅くまで活動して帰宅する彼女の生活を姉が怪しく思い、何をしているのか問い詰めるようになった。それで彼女は家を出て、仕事を辞めて「献身」することとなる。そこから彼女の苦しい生活が始まった。

 櫻井氏の記述によれば、「数年間の伝道(壮婦対象の訪問伝道)と経済活動(改造ワゴン車で道内を移動し、訪問販売)に明け暮れ、健康を害した。元々身体が丈夫でなかったが、身体を酷使しすぎた。」(p.332)とある。一般の生活においても、健康状態がすぐれなければ陰鬱な気分になるように、健康を害することによって心霊が暗くなることは信仰生活においてもよくあることである。信仰の本質はマゾヒズムではないので、体を壊す程度にまで自分を酷使するのではなく、きちんと健康管理をしながら息の長い信仰を持つように心がけることが大切である。しかし、これを若くて純粋な信者だけの責任に帰するのは酷というものであり、健康面における上司の配慮は必要であろう。そのような配慮が当時の上司にあったかどうかは疑問の残るところである。

 しかし一方で、信者の側にも自分の健康を守るために最善を尽くすという意識は必要である。体の不調を訴えることは不信仰でもなんでもなく、身体の状況を正確に報告して上司に適切な判断をしてもらうような努力も必要であると思われる。この辺のコミュニケーションがうまく行かないと、結果的に無理をして体を壊し、恨みが残るようになる。それで信仰を失ってしまっては元も子もないであろう。

 Bの場合には単に身体が弱かったというだけでなく、自分自身に対する意識の持ち方にむしろ問題があったのではないかと思われる記述が見受けられる。「伝道でも経済活動でも常に葛藤を抱えながらの歩みでどうしようもなく辛かった。マイクロでは実績を上げないと負債になった。」(p.332)とあるように、活動に対して感じていた感情は概してネガティブなものが多かったようだ。普通に考えれば、それほど辛いならやめたらいいのにと思うであろう。信仰そのものを辞めることは可能であるし、信仰を辞めないにしても、いまのような活動形態ではなく、もっと緩い形で教会につながる方法を探せばそれも不可能ではなかったはずである。事実、そのような人は多数存在しているからである。

 辛い活動にもかかわらず彼女がこの道を捨てられなかった理由は、「氏族メシヤである自分の存在を否定することができない。そのときはもう自分はどうなってもいいと思っていたのだ。しかし、マイクロは家族のためにやらなければならなかった。そうしなければサタンが讒訴すると信じていた」(p.332)というのである。自分はどうなっても構わないから家族のためにこの道を歩むというのは、一見自己犠牲的で人の為に生きる素晴らしい信仰のように聞こえるかもしれないが、神に対する感謝の念がなく、なかば自暴自棄になっているという点で正しい信仰姿勢であるとは言えないし、健全な精神状態であるともいえない。これは統一教会の理想的な信仰者の姿ではないばかりか、典型的な姿でもない。

 キリスト教の伝統においては、他者のために犠牲的に生きることを美徳として教えてきたが、これは決して自分自身を粗末にすることを意味しない。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というイエス・キリストの御言葉にあるように、誰もが自分自身を愛しているという前提のもとに、隣人愛が説かれているのである。そしてまた、本当の信仰は、神が自分を愛しておられるがゆえに、私も自分自身を大切にしようと考えるのである。その意味で自己愛と隣人愛は究極的に矛盾するものではない。

 統一教会の信徒たちが長年にわたって信仰の指針としてきた『御旨の道』という文先生の御言葉集には、以下のような言葉がある。
「自分が生まれた地を愛することを知る者は、自分の体を愛することを知る者である。自分の体を愛する人は自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人は神様を愛する人である。」「人格者とは、自分のことを早く済ませて、他人のことをまず考える人のことをいうのである。」

 統一教会では、まず神から頂いた自分自身の体を大切にするよう教えている。健康管理も自身の体を愛することの一つである。そして、自分の心、魂、心霊を大切にすることもまた、自分自身を愛することである。自分の精神状態が不安定で不健全であれば、神の御旨を正しく担うことができないので、常に祈り、み言葉を学ぶことを通して心を正しい状態に保つことが、自分の心を愛するということである。それが究極的には神を愛することにつながるのである。そして、私が他人を愛するためには、私自身の心と体が神を中心として一つになっていなければ、他者の前に正しい主体として立つことができない。その意味では、自分自身を正しく愛することのできる人のみが、他者を正しく愛することができるのである。こうした考えを持つ人が健全な信仰者であると言えるであろう。

 その基準から見れば、Bの信仰はどこか自暴自棄的なところがあり、本音においては自分自身を嫌っていて、そういう自分を犠牲にすることに一種のヒロイズムを感じて酔っていたのではないかと思われるふしがある。酷な言い方かもしれないが、そうした信仰姿勢のままではいつか枯れてしまい、長続きしない運命にあったのではないだろうか? 信仰は何よりも、自分が神に愛されていることに対する感謝の念から出発しなければならないからである。

 神に対する感謝の念が欠けていたBの信仰の動機となっていたものは何だったのだろうか? それは「恐怖」であった。「自分にはものすごい恐怖心があった。脱会するときに家族に何かあるのではないかと非常に怖かった」「自分の不信仰で家族にけががあったという証しを以前に聞いていたためだ。」(p.333)という表現にも示されているように、自分がこの道を行かなければ家族が酷い目に遭うかも知れないという恐怖心が、辛くてもこの道を行く動機となっていたのである。「恐怖」が信仰の動機となることは統一教会以外の宗教でもあることであり、「祟り」「バチ」「因縁」「怨恨」といったものから逃れることが信仰の動機となることは日本の宗教においては珍しくない。ユダヤ・キリスト教の伝統においても、旧約聖書の世界においては恐怖が信仰を鼓舞するケースが多く登場する。それはイスラム教においても同様である。

 しかし、統一原理の理解によれば、こうした「恐怖」を動機とした信仰は人間の心霊の成長過程においては初期の段階であり、そこからやがて喜んで信じる段階へ、さらには親の事情や心情を悟って「侍る」段階へと成長していかなければならないとされている。そうした意味では、Bの信仰はまだ初期段階のものであり、そこから神の愛を感じて感謝し、喜んで信じる段階へと成長して行かなければならなかったのである。

 より正確には、Bの信仰は恐怖や家族に対する使命感によってのみ支えられていたわけではなく、祝福に対する希望も動機の一部を形成していたようである。それは櫻井氏の以下のような表現に現れてる。
「Bの八年間に及ぶ統一教会員の生活において信仰を継続した理由は、家族への使命感と自身の幸福への希望だった。これは途中でやめることへの恐怖と祝福へのあこがれ、期待が半ばした。」(p.334)

 これはBの信仰生活の実際という点ではある程度正しい指摘なのかもしれない。しかし問題は、その祝福へのあこがれが組織によって阻まれているとB自身が感じてしまったことである。櫻井氏の表現によれば、「伝道と経済活動は祝福のための条件だから辛いのだと自分に言い聞かせるところもあった。しかし、Bには祝福を受けるようにという知らせは来なかった。祝福を受けたいということで責任者にも意向を伝えていたが、何度か合同結婚式の選にもれた。その後、聞いたところでは、祝福該当年齢・条件を満たしても教区の都合により選考されないこともあるらしい。『この時期、ベテランの女性信者が合同結婚式や海外伝道のためにいなくなり、教区長が自分を地区に置こうと考えていた』」(p.333)ということらしい。

 Bのこの現状認識が正確で客観的なものであるという保証はないが、絶対にありえないともいえない状況だと思われる。しかし、祝福適齢期の女性信徒を永遠に未婚のまま教区に置いておこうという教区長はいないわけであり、もう少し待てば彼女にも祝福のチャンスはあったのであろう。残念ながら、彼女はそれを待つことができずに信仰を捨ててしまったということである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク