書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』170


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第170回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。先回から中西氏がA教会発見した任地生活の女性に向けた「15ヶ条の戒め」と呼ばれる心構えの分析に入った。中西氏はこれを、日本人女性信者の合理的な判断力を抑圧し、信仰的な発想しかできないよう仕向けているかのようにとらえているが、そこで述べられている内容は宗教が伝統的に教えてきた内容であり、同時に人間が幸福に生きていくための心構えと言えるものも含まれている。先回は①自分を捨てること、②驕慢にならないこと、の二つを紹介し分析したので、今回はその続きとなる。

3.神様をまず考えること
 およそ宗教においては、神よりも人間を優先せよという教えはなく、何よりも神を優先することが強調される。これは一神教の伝統においては特に顕著である。

 旧約聖書の箴言9章10節には、「主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め」という言葉がある。「主を畏れる」とは、第一にわれわれの創造主である神を畏れ敬うという意味であり、これがいかなるこの世の知識にも先立つ「知恵の初め」であると位置づけられている。すなわち、創造主の存在を前提としない知識は空しいものであり、神を第一に考えることによって他の知識も神によって祝福されると教えているのである。「主を畏れる」ことの第二の意味は、私たちをお造りになった神の意思を知り、それを大切にするということである。われわれの創造主である神を知り、われわれが造られた目的をその方に聞くという、受けの姿勢であり、祈りの姿勢である。創造主の御心を知ることがすべての知識に先立つということである。われわれは創造主を知らなければ自分勝手な人生の目的は持つことができても、本当の目的を知ることができなくなる。知恵の初めの「初め」という言葉には、頭(かしら)という意味がある。つまり大切な土台であり、すべての出発点という意味である。このようにユダヤ・キリスト教の伝統においては、あらゆる人間的な知恵に先立って「神をまず考えること」を教えてきたのである。

 新約聖書の中で、イエス・キリストは「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と律法学者から尋ねられて、以下のように答えている。
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイによる福音書22:37-40)

 キリスト教信仰の神髄は、神に対する愛と人に対する愛である。その中でも第一にあげられるのが神に対する愛であり、それに基づいて人に対する愛が実践されるという構造になっている。もし神に対する愛である信仰がなければ、人に対する愛も完全なものにならないので、常に心を神に向け、神を中心とする生活をするよう教えているのである。

 神を第一に考えるということは、エゴイズムの否定にもつながる。エゴイズムとは自己中心であり、それを否定して神を中心に物事を考えるようになることによって、神の御心に適う自分に変わっていくことができると統一教会では教えてきた。

 「自己中心」対「神中心」という言い方は、統一教会だけでなく一般のプロテスタント教会でもするようである。例えば、片柳福音自由教会の滝田新二牧師は2019年4月7日に行った「新たな旅立 ~自己中心から神中心へ~」と題する説教の内容を同教会のウェブサイトに掲載している。その中で彼は「自己中心から神中心に立つ」ことの重要性を説いているが、こうした言葉の使い方は統一教会とほぼ同じである。
(http://www.katayanagi-efc.sakura.ne.jp/?p=261)

 その中で彼が紹介している三浦綾子のエッセーはなかなか感動的な内容なので、ここで紹介したい。
「他者中心の人生は卑屈なものになってしまう。人の顔色をうかがい、ただ波風が立たなければよいと思って、ひたすら自分を押し殺して生きていると、後の日に『いったい自分の人生ってなんだったんだろう。』ということになってしまうだろう。さりとて、逆に、自己中心の利己的人生は醜悪なものとなってしまう。『私の人生は、私のものだ。どんな生き方をしようと私の自由だ。誰にも文句は言わせない。』というような生き方は、まったく醜いものである。しかし、人はただ神を中心に生きる時、美しい人生を送ることができる。」

 その他にも、仙台福音自由教会の吉田耕三牧師が2003年6月1日の礼拝説教で「自己中心から神中心へ」というタイトルで語っているし(https://sendaiefc.com/sermons/20030601/)、北海道のクリスチャンKenは、「『奪う』自己中心と『与える』神中心」と題する投稿をアップしている。(https://ameblo.jp/ken-godbless/entry-12044197523.html)イエス・キリスト宮崎福音教会の2017年2月5日の説教のタイトルは「自分中心ではなく、神中心の生き方」である。(http://www.jcmgc.com/archives/2497)要するに、「自己中心」対「神中心」という言い方は統一教会固有のものではなく、キリスト教における一般的な表現なのである。こうした考え方はキリスト教だけでなく、天照皇大神宮教のような日本の新宗教にも見ることができる。「神様をまず考えること」はこうした普遍的思想を表現したものである。

4.真の父母様の家庭に孝行すること
 統一教会では文鮮明師夫妻を「真の父母様」と呼んで敬愛している。それは単なる宗教の教祖という位置ではなく、祝福式を通して血統的な因縁を結んだ「親」であると信じられているということである。そしてその親の願いにこたえることが子女としての道理であり、「孝行」であると考えられている。この辺は、クリスチャンとイエス・キリストとの関係とは若干異なり、韓国の儒教的な考え方が強く反映されている。とはいえ、両親を大切にし、親孝行することはどの宗教においても美徳であるとされている。いくつかの代表的な聖句を紹介しよう。
「父、母を養い、妻子を慈しみ、平和に治めること、これは偉大な祝福である。」(仏教 スッタ・ニパータ 262)
「なんじの主は命じたもう、…両親に孝行であれと」(イスラム コーラン 17.23)
「あなたの父と母を敬え。」(ユダヤ・キリスト教 出エジプト記 20.12)
「神々および父祖に対してなすべきつとめを怠ることなかれ。母を神として敬え。父を神として敬え。師を神として敬え。」(ヒンドゥー教 ターイッティリーヤ・ウパニシャド 1. 11. 2)
「仏の国に生まれたいものは、…両親に対して孝をもって仕え、彼らを養うべきである。」(仏教 観無量寿経 27)

 これらの宗教の経典で言うところの父、母、両親は、もちろん自分を生んでくれた実の父母を指しており、その父母に対して具体的に親孝行をすることを説いている。これは一緒に生活している父母を大切にせよと言っているのであるから、ある意味で分かりやすい。しかし、統一教会の信徒たちは文鮮明師夫妻を「父母」として敬愛しているものの、大部分の祝福家庭は「真の父母様の家庭」と一緒に生活しているわけではない。にもかかわらず「孝行」するとはどのような意味で言っているのであろうか? 「15ヶ条の戒め」には明記されていないが、私の経験上それは重層的な意味をもっていると言える。

 第一の意味は、霊的な意味で真の父母様の家庭に孝行するということである。統一教会の信仰生活は「侍る生活」であると言われる。たとえ文師夫妻が一緒に生活していなかったとしても、家庭の中に彼らが霊的に臨在していることを感じながら、侍る生活をするということである。いつ実体の真の父母様が訪ねてきてもいいような生活を日頃からするというのが祝福家庭の理想である。第二の意味は、祝福家庭として幸福に生活し、それを真の父母様に感謝するということである。親の願いは子女の幸福である。したがって、夫婦と親子が円満に暮らすことが父母に対する孝行となるのである。第三の意味は、真の父母様の願いである地上天国実現のための活動をすることである。その具体的な内容は伝道と献金であり、教会が行うさまざまなプロジェクトへの協力である。いかに自分の家庭が幸福であっても、地上天国実現のために何もしていなくては、親孝行とは言えないのである。「真の父母様の家庭に孝行すること」という言葉の中に、こうした幾重もの意味が込められていると言えるだろう。

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