神道と再臨摂理シリーズ07


 「神道と再臨摂理」シリーズの第7回目です。今回は記紀の神話の終わりの部分について解説します。記紀の神話の目的は、神々に関する物語が最終的に皇室に繋がっていることを示すことにより、天皇の正統性と権威を示すことにあります。そして、その神話の世界と皇室を結ぶ「証拠物」が、いわゆる三種の神器なのです。

 三種の神器は、天皇が皇位の璽(しるし)として代々伝えた三種の宝物です。記紀の伝承によれば、天照大御神がこれら三種の神器を孫の邇邇芸命に与えたということになっています。その具体的な内容は以下のようになります。

三種の神器のレプリカ

三種の神器のレプリカ

①八咫鏡(やたのかがみ):これは伊勢神宮の御神体となっています。天の岩屋から天照大御神を引き出す方策としてつくられたものとされています。
②天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)または草薙剣(くさなぎのつるぎ):これは愛知県名古屋市熱田区にある熱田神宮(あつたじんぐう)の御神体となっています。須佐之男命が八岐大蛇を退治した時にその尾から見いだされ、天照大御神に献上されたものとされています。
③八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま):これは皇居に保管されています。

 さて、記紀の神話の世界と皇室を結ぶ「物語」が神武東征です。これは、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)(後の神武天皇)が、葦原中国を平和に治めるためのふさわしい地を求めて、日向を発って東に向かい、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話です。神武天皇は日本の初代天皇とされる人物ですので、彼によって天下った神々と歴代の天皇が連結されているといえます。

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 さてここで、神社に祀られる神々の種類についてまとめてみましょう。
①記紀の神々:天照大御神(伊勢神宮)、須佐之男命(氷川神社)
②土着の神:大物主神(大神神社)、寒川比古命(寒川神社)
③習合神:八幡大菩薩(宇佐八幡)、熊野三所権現(熊野三社)
④天皇・皇族:桓武天皇(平安神宮)、明治天皇(明治神宮)
⑤英雄・功労者:徳川家康(日光東照宮)、東郷平八郎(東郷神社)
⑥御霊神:早良親王(御領神社)、菅原道真(北野天満宮)、平将門(神田明神)、崇徳天皇(白峯神社)

 この中で、④~⑥を「人間神」と分類することができます。これは、実在した人物が、死んだ後に神として祀られるということであり、一神教の世界では考えられない現象ではありますが、神道においては一般的なことです。ローマの宗教においても、人が死んで神になることはあったので、神道と類似していると言えます。①~③は、歴史上実在したことが分かっている人物が神になったのではなく、最初から神であった神話的な存在がまつられているのに対して、④~⑥は歴史上実在した人物が死んだ後に神になったという点が異なるのです。④の亡くなった天皇を神として祀るというのは、近代になってよく見られるようになった現象です。⑤は故人が生前になした行いを顕彰するために祀るということで、上記以外の例としては、柿本人麿、菅原道真、安倍晴明、坂田金時、楠木正成、源義経、後醍醐天皇、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信、吉田松陰、二宮尊徳、西郷隆盛、乃木希典などを挙げることができます。⑥は恨みを持って死んだ人物の祟りを鎮めるために祀るということで、その代表例はなんといっても菅原道真を祀った天満宮ですが、実は御霊(ごりょう)として祀られた菅原道真に対する信仰は、天神信仰と習合して独特な発展を遂げていきます。

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 菅原道真は、845年から903にかけて生きた平安時代の貴族であり、学者であり、政治家です。菅原家は学問の家として知られ、道真の曽祖父の代から努力を重ね、政治の世界でも出世していきました。道真も幼いころから頭角を現し、やがて宇多(うだ)天皇の信任を受けて出世をとげていきます。彼は右大臣にまでのぼりつめるのですが、901年に突如として太宰府(だざいふ)の副官に左遷されてしまうのです。大宰府は九州に設置された地方行政機関ですから、明らかに出世コースから外されたと言えます。

 実は、左遷の理由はよく分かっていません。醍醐天皇を廃位させる陰謀に関わったとか、宇田上皇と醍醐天皇の対立の巻き添えを食ったとか、道真の華々しい出世に対する嫉妬があったのではないかとか、諸説ありますが真相は分からないままです。とにかく彼は、左遷されてわずか3年後に亡くなってしまいます。

 すると菅原道真の死後、京で異変が相次ぐようになったのです。909年には、道真の政敵であった藤原時平が39歳で病死しました。913年には、道真失脚の首謀者の一人が溺死しました。923年には、醍醐天皇の皇太子・保明親王が21歳で死去しました。

 この時点で、醍醐天皇は道真を元の右大臣に戻し、名誉を回復しました。これは上記の悪い出来事が、道真の怨霊の祟りであることを公に認めた形になりました。ところが、それでも災いは止まなかったのです。925年には、保明親王の息子で皇太孫となった慶頼王が5歳で病死してしまいます。930年には、朝議中の清涼殿が落雷を受け朝廷要人が多く死亡します。そして醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御してしまったのです。これにより、道真が雷神を操っていると噂され、道真の霊と雷神が習合していくことになります。

 987年には北野天満宮で勅祭(天皇の使者が派遣されて執行される神社の祭祀)が営まれ、「北野天満天神」の称が贈られ、道真に太政大臣の位が追贈されました。道真は、死後において官位の最高位にのぼりつめたことになります。こうして道真の霊は、神社に祀られただけでなく、天神や雷神と習合することによって、人々の信仰を集めるようになったのです。

 その後、道真の霊は祟り神からむしろ善神へと変貌を遂げていくことになります。彼自身が無実の罪で左遷されたという理解から、冤罪に陥った人を救う「雪冤(せつえん)の神」になったのです。そして中世になると、天神は至誠の神、正義の神となり、国家鎮護の神として信仰されるようになりました。さらに、生前の道真が学問の人であったことから、「学神」になり、書道の神として、江戸時代に寺子屋で祀られるようになりました。それが近代に入ると、「受験の神」として信仰されるようになったのです。

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