神道と再臨摂理シリーズ01


 今回から、「神道と再臨摂理」と題する新しいシリーズの投稿を開始します。以前にこのブログで「日本仏教史と再臨摂理への準備」と題するシリーズの投稿を13回にわたってやったことがありますが、その続きとお考え下さい。家庭連合(統一教会)の信仰はキリスト教の流れをくむものであり、『原理講論』の内容もキリスト教の組織神学の体裁を取っていますが、日本において最も影響力のある宗教といえば何といっても神道と仏教であるため、統一原理と神道の教えの関係、ならびに再臨主と中心とする神の摂理に神道がどのように関わったのかは、日本宣教における重要なテーマとなります。

 私が地方に出かけて行って講義する中でリクエストされた内容の中に、神道の基礎について教えてほしいとか、神道と再臨摂理はどのように関わるのか教えて欲しいといった要望がありました。そこで私なりにまとめて講義した内容を起こしたものがこのシリーズになります。日本の伝統宗教の双璧をなすのが仏教と神道ですが、本当の意味で日本の土着の宗教と言えるのは神道であり、仏教は長い歴史は持つとはいえ、やはり外来宗教ということになります。

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 初めに、私が神道を研究する立場について明確にしておきたいと思います。家庭連合の信仰を持つ者として、神道に対する関わり方は大きく三つに分類することができます。

 一つ目は、神道と統一原理の類似性・共通点のみを強調する立場です。これは、「神道は原理的だ」とか、「日本民族は選民だ」といった発言に代表される立場であり、シンクレティズムとナショナリズムの危険をはらんでいます。シンクレティズムとは本来異なる宗教伝統を混ぜ合わせてしまうことですが、ここでは神道と統一原理の相違点には目を向けず、類似点だけを一方的に取り上げて、両者が同じものであると主張することです。私は、こういう立場をとりません。また、愛国心が重要であることは認めますが、過度な民族の礼賛にも同意することはできません。

 二つ目は、神道を批判・排斥する立場です。「神道は旧約聖書のアシュラの神やバアルの神に等しい偶像崇拝である」とか、「国家神道は神社参拝を強要して韓国のクリスチャンたちを迫害した。神道は罪深い宗教だ」といって断罪する立場です。すべての宗教には神が啓示した真理の一部が表現されているという立場からすると、こうした一方的な断罪は行き過ぎですし、これでは神道との対話は成り立ちません。私は、こういう立場もとりません。

 三つ目は、神道を客観的に研究し、超宗教運動の対象とする立場です。まずは過度な思い入れや偏見を排して、神道に関する基本的事実を学問的に抑えることから始めます。そして神道を日本文化の根底をなすものとして評価することによって対話しようとします。その中で、統一原理と神道の共通点と相違点をそれぞれ評価し、歴史的な関係を考察していくという手法です。私の立場は、この三番目の立場になります。

 さて、神道は日本文化の根底をなすものであり、私たちの生活に馴染んだものではありますが、その教えの内容について知的に知っているかと言えば、専門的に学んだ人でもなければ、その知識は極めて漠然とした曖昧なものではないでしょうか。そこで私なりにいろんな本を読んで勉強してまとめたものがこのシリーズになりますが、仏教の場合と同じく、あまり難しい専門書を読んでも分かりやすく解説することはできないので、入門用の易しい解説書を中心に調べました。

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 では、神道とはそもそもどんな宗教かについて、基本中の基本から説明します。神道は特定の個人が創唱した宗教ではなく、日本の風土から生まれた日本固有の民族宗教です。それは、自然のいたるところに神を感じる素朴な「自然崇拝」から始まったものです。神道は日本人の日常生活に深く根付いていおり、私たちは初詣などの年中行事、七五三などの人生儀礼、地域のお祭り、家庭における神棚などを通して既に神道を「体験」しているのですが、それを「宗教」としてあまり強く意識しないこともまた神道の特徴の一つです。キリスト教のように誰かから「伝道」されて「回心」することによって信者になるのではなく、生まれた土地の「氏神の氏子」になるという形で自然に信仰を継承することが多いと言えます。

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 それでは神道の中心的価値観が何であるかと言えば、「清明心(きよきあかきこころ)」です。これは、自然のように清らかで、他人に対して隠すことのない心、神に対しても欺くことのない心、つまり私欲がなく澄み切った、穢れのない心の状態を指します。神道においては、「穢れ」を諸悪の根源として極度に嫌います。ですから、「禊」と「祓い」によって穢れを取り除くことが神道の中心的な儀礼となるのです。

 神道は日本の風土から生まれた日本固有の民族宗教ですが、「神道」という言葉そのものは、もともと中国から伝わった中国語です。中国の文献におけるこの言葉の初出は『易経』に見られ、「霊妙不可思議な自然の法則」という意味で用いられています。この言葉が古代に中国から伝わり、日本語になったのです。

 日本の文献におけるこの言葉の初出は『日本書紀』に見られます。
「(天皇は)仏法を信けたまひ、神道を尊びたまふ」(用明天皇即位前紀)
「(天皇は)仏法を尊び、神道を軽りたまふ」(孝徳天皇即位前紀)
というような形で登場するのですが、「仏法」は「ほとけのみのり」と読み、「神道」は「かみのみち」と読みます。用明天皇は神道を尊んだけれども、孝徳天皇は神道を軽んじたというような記録として出てくるわけです。ここでは、「仏法」に対比して「神道」という言葉が使われていることに留意する必要があります。『日本書紀』は外国に向けての公的な歴史書なので、外来の宗教である仏教と対抗する形で、土着の信仰を意味する「神道」という言葉が用いられたわけです。

 『日本書紀』には「惟神(かむながら)は神道(かみのみち)に随(したが)うを謂(い)ふ」という記述もあります。「惟神」とは「神の御心のままであること」という意味であり、神々に由来する自然なあり方に従うこと、自然に即して生きることが神道の理想とされています。

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