ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳65


第7章 分析と発見(8)

 男と女が「他人」であるというのは、非常に異なる社会的背景から来ているという意味ではなく、(以前の社会における配偶者とは異なり)彼らは異なった「会話の領域」から出てくるという意味である。この言い回しの意味は、彼らには共有した過去や共通の現実がないということだ。主要な経済的・政治的制度への意味ある参加から疎外されており、「個人が力、理解度、そしてまさに文字通りに、名前を求めるのはここ(結婚という私的領域)なのである。名前は世界を形作るための明らかな力であり、どんなに取るに足らないものであったとしても、彼自身の存在を示すであろう。彼自身によって形作られたと思われる世界は、彼を形作ったと主張するような他の世界とは異なり、彼にとっては半透明に理解可能である(あるいは彼はそう考える)。それゆえに、その中で彼が何者かであり、おそらくその特権グループの中でさえ、主人であり支配者である世界だ。」(注45)

 二人の個人が共通の意味世界を作り上げるには、各自は彼または彼女のそれ以前の現実と自己の定義を根本的に変えなければならないであろう。それは「規範の破裂」を伴う仕事であり、新しい規範のプロセスに着手し維持するという、極めて難しいプロジェクトなのである。
「結婚はこのように新しい現実を仮定する。しかし、この新しい現実に対する個人の関係は弁証法的なものである。彼は結婚相手と一緒にそれに対して働きかけ、そしてそれが彼およびパートナーに働きかけ、彼らの現実を一緒に組み立てるのである。この現実の構成を客観化することは危ういため、カップルが所属しているグループはこの新しい現実を再定義するのを助けることを求められている。」(注46)

 パートナーはどちらも広範な会話の領域から来るため、新しい客観化された現実を作り出すカギは、その言葉の本来の意味における交換である。
「結婚における世界の再構築は、主として会話の過程において起きる。・・・この会話に潜在する問題は、二人の個人の現実の定義を一致させることにある。・・・いまやこの会話は、秩序化と典型化の装置、言ってみれば客観化の装置を離れることとして理解することが可能であろう。各パートナーは継続して彼の現実理解に貢献し、そしてそれらは通常は一度ではなく何度も「語り明かされ」、その過程の中で会話的装置によって客観化されるのである。会話が長く続けば続くほど、パートナーにとって客観化はより大きな現実となるのである。」(注47)

 過去が共有され、未来が投影されるこの言葉のやりとりの過程を通して、「自己と世界の両方が、パートナーの両名にとってより堅固でより信頼できる性質を帯びるようになるのである。」(注48)バーガーとケルナーはこの全プロセスを、理想型として以下のように要約している。
「・・・そのなかで現実が結晶化され、狭められ、安定化されるものである。両面性は確実性に変換される。自己と他者の典型化は定着するようになる。もっとも一般的には、可能性が事実性になる。さらには、このプロセスはほとんどの場合、その作者であり対象である者たちによって理解されていないのである。」(注49)

 規範構築の手段として結婚という見方は、確かに今日のアメリカ社会に対しては適切である。その宗教的・文化的多様性により、夫婦関係が意味のある秩序だった世界の創造にとって主要な焦点となることは、可能であると同時に不可欠となっている。対照的に、統一運動においては、宗教共同体そのものが規範構築のための中心的な手段である。統一教会の信徒にとって、グループとの最初の接触から始まって、世界の救済者としての人生史を通しての拡大、彼らの新しい「統一家族」への参加は同時に、混乱した外の世界とは大きく異なるものとして彼らに理解されている、意味ある世界の占有に入ることを伴うのである。バーガーとケルナーによって記述された夫婦の相互作用における以上に、統一運動における修練期間は世界構築の期間であり、ここにおけるプロセスは理想型的には、個々のメンバーと共同体の間の成長する規範的相互作用の期間なのである。これらの新しい改宗者は、バーガーとケルナーのカップルのように、異なる会話領域からグループに加入し、リーダーや年長のメンバーたちや同僚たちとの言葉のやりとりを通して、文師のカリスマ的リーダーシップのを中心とする新しい世界、統一原理の教え、そして共同体の終末論的使命を客観化するのである。統一運動における生活をたまたま観察した者でさえ、メンバーのの交流の特徴である一見ひっきりなしの会話に気付くであろう。統一教会の信徒たちは行動の人であるが、同時に言葉の人でもあり、彼らの言葉のやりとりは主として彼らの信仰の意味を定義することであり再定義することなのである。修練期間中に異性間の肉体・恋愛関係を禁止していることは、メンバーに対して全グループと関わることを奨励することとなり、このかかわりの性質は大部分において言葉によるものである。したがってこの最初の三年間の意義は、知識の社会学の観点からは、本質的に規範的であると見られるのである。マッチングと祝福を受ける資格のあるメンバーは、理想的には共同体に備わっている意味世界を内面化した者たちである。この試みの成功は聖酒式を通して宣言され、その場において新しくマッチングを受けたカップルは統一運動の完全かつ真正なメンバーとなるのである。

 私たちは既に、マッチングを受けたカップルの聖別・約婚期間における相互作用において言葉が中心的な役割を果たしていることに言及した。すなわち、長い手紙、会話、祈祷会である。バーガーとケルナーの分析によれば、アメリカ社会において婚約したカップルは新しい結婚に基づく現実を創造し始めるのであるが、それとは異なり、統一教会のカップルは新しい世界を創造しない。むしろ、彼らは宗教共同体の意味、基本的な規範的手段を、将来における彼らの結婚生活に情報を与え、導き、維持する意味に翻訳することに携わっているのである。統一運動で婚約したカップルは、もちろん外の世界のカップルと同じような話題についても多く話すが、彼らのコミュニケーションは一般的に共同体の信仰の基盤の中に組み込まれているのである。創造者というよりは翻訳者として、マッチングを受けた(そして後に祝福を受けた)カップルは、従うべき手掛かりが非常に少ない。なぜなら、運動のアメリカ支部にとっては結婚は比較的新しい現象だからである。聖別・約婚期間と結婚後の別居の期間中には継続的に直接の接触を持てないという事実により、彼らの仕事はさらに困難になっている。

(注45)前掲書、p. 55。
(注46)前掲書、p. 60。
(注47)前掲書、p. 61。
(注48)前掲書、p. 62。
(注49)前掲書、pp. 64-65。

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