書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』135


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第135回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の部分を終えて、今回から「六 統一教会の教化方法の特徴」に入る。これは第7章の中で記述してきた元信者のライフストーリーのデータをもとに、櫻井氏なりの総合的分析を試みた節であると言える。と同時に、本書において櫻井氏が執筆する前半部分の最後にあたるので、まとめ的な意味を持っている。

 櫻井氏はこの節の冒頭で、「全員が規格化された統一教会の勧誘・教化コースを通過して信者になったことがわかる。信仰の持ち方は、個々人の状況に応じて若干の相違点はあるが、伝道やマイクロ、献金の儀礼や決断といった局面において信仰を深めてきた過程は共通しており、特に家族との葛藤(元々葛藤があるのではなく、活動により発生・深刻化させられる)が信仰のバネとなるというカルト教団特有の特徴を示していることにも注意したい。」(p.393)と述べている。この櫻井氏の分析が正しいかどうかを評価することから始めよう。

 まず、統一教会の信者となった者が規格化された勧誘・教化コースを通過しているという指摘であるが、これは統一教会に限らずどの宗教でも当たり前のことであるし、とりたてて問題視されるべきことではない。宗教の教理について全く学ぶことなく信者になるということはあり得ないので、入信の過程において求道者はある程度規格化された研修課程を通過するのが普通だからである。キリスト教ではこれを「カテケージス(catechesis)」と言い、日本語では「入門教育」や「要理教育」と訳される。伝統的には、こうした教育は洗礼や堅信礼といったサクラメントの前に行われることが多く、その際に用いられるキリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説のことを「カテキズム (Catechism)」と言う。このカテケージスに当たるものが統一教会の「修練会」であり、カテキズム (Catechism)」に当たるものが原理講義であると言っていいだろう。こうした入門講座はキリスト教のみならず、伝統仏教にも新宗教にも存在し、それは子供向けや大人向けといったバリエーションはあるものの、基本的にはその宗教の教えに基いて規格化された教育である。

 櫻井氏は、これらのインタビューを受けた者たちが伝道された過程に一定の共通性があることから、それこそが彼らが伝道された主たる原因であると言いたいようだ。しかし、この分析の視野が極めて狭いことは、アイリーン・バーカー博士の研究と比較してみたときに明らかになる。バーカー博士は、「人はなぜムーニーになるのか?」という問いを立て、それを決定する変数として、①個人の持っている素養や特性、②周りの社会、③統一教会の選択肢が持つ魅力、④修練会の環境、という4つの変数を提示した。いわゆる洗脳論は、①や②や③の要素に関わりなく、どのような人でも④だけの要素で強制的に入信させられてしまうというものだが、実際に参与観察してみれば、そのような事例は一つも存在しないということを根拠に、バーカー博士は洗脳論を却下している。それでは①から④のどれが入教を決定するのかを探求した結果、バーカー博士はこれら4つの要素が総合的にバランスよく働いた結果として人はムーニーになるのであり、その中のどれか一つが欠けてもムーニーになる確率は著しく低くなるという結論を出している。

 櫻井氏は、統一教会信者の信仰史を分析する際に、入信過程における統一教会の勧誘・教化の方法にばかり着目して、それがもっぱら入信に決定的な役割を果たしたのであると短絡的に結論しているが、実際にはそのような勧誘・教化のプロセスを通過したとしても信者にならない者は多数いるのであり、むしろ信者になる人の方が少数派であるという事実をすっぽりと見落としている。それは彼が結果的に信者となり、さらに脱会した者に対するインタビューしか行っていないからであり、信者にならなかった人々がその勧誘・教化にどのように反応したのかを全く知らないために、あたかもそれが抗し難いほどの威力を持っているかのように過大評価してしまっているのである。櫻井氏自身は洗脳論やマインドコントロール理論の信奉者ではないが、結論的にはそれと大差ない主張になってしまっているのはこのためである。

 実際には、統一教会の勧誘・教化が説得力を有するのは、ごく一部の人に対してのみである。それはバーカー博士が指摘するように、①もともとその個人が宗教的な内容に反応する素養を持っており、②自分のまわりの社会や人間関係に何らかの不満や不適合を感じており、③統一教会にその人を引き付ける魅力があり、④修練会という環境の中でそれを受け入れるようになった、という4つの要素がかみ合わない限りは人は伝道されないのである。そしてその4つがかみ合って入教する割合は、バーカー博士の分析では多く見積もっても10%程度であり、一度伝道されても時間の経過とともにその割合はさらに減っていくというのである。

 同じ「人はなぜ統一教会の信者になるのか」について分析していても、バーカー博士と櫻井氏の視野の広さには雲泥の差があり、櫻井氏は全体像のごく一部分しか見えていないことが分かるであろう。それは、研究対象との向き合い方が全く異なっているのと、それに起因して資料の入手方法が全く異なっているからである。この研究のスタンスと資料の偏りこそが櫻井氏の研究の致命的な欠陥であると言える。

 また櫻井氏は、「伝道やマイクロ、献金の儀礼や決断といった局面において信仰を深めてきた過程は共通」しているというが、こうした一般化に当てはまらない事例が存在していることも指摘しておきたい。まずCとDは大学生であったため、そもそも高額の献金を行っておらず、そのことを決断するための儀礼にも参加していない。彼らは金銭的には失うもののない者たちだったのであり、その代わりに自分たちの青春時代と体力を投入した者たちであった。一方で、壮婦であったHとIは熱心に献金は行ったが、マイクロには乗っていない。このように、伝道されたときの立場によって入信過程には個人差があり、櫻井氏が強調するほど規格化されているものではないのである。

 さらに、家族との葛藤が信仰のバネとなるという現象はカルト教団に特有のものであり、しかもそれは元々葛藤があるのではなく、活動により発生・深刻化させられるのであるという彼の主張も誤りを含んでいる。彼は「カルト」の信仰は異常で家族関係を破壊する有害なものだと言いたいようだが、子供が宗教に入ったことに親が反対したり、妻が信仰を持ったことに夫が反対するというのは、新宗教においては良くあるケースであり、その際に家族の反対を受けることで余計に信仰が強化されるというのも珍しい話ではない。既に多くの事例を挙げて説明してきたとおり、迫害を信仰の糧とする伝統は多くの宗教に見られ、それは家族からの迫害であっても同様である。

 そのことを抑えた上で、個々の事例について指摘すれば、元信者Fの母親は現在も壮婦の信者であり、彼女は母親の強い勧めによって統一教会に入信したのであるから、F自身は信仰のことで家族から反対されたことはなく、櫻井氏の主張はまったく当てはまらない。彼女が経験した「家族との葛藤」は、むしろ祝福を受けて訪韓した後に、夫の親族との間に生じたものであった。そしてこの葛藤は信仰のバネになるどころか、結果的には離婚と棄教という、信仰を破壊する方向に作用したのである。

 わざわざ櫻井氏が「家族との葛藤が信仰のバネに」というサブタイトルをつけている壮婦のケースにおいて、元信者Hの事例はもともと夫との関係に葛藤を抱えていたケースであった。実は櫻井氏自身がそのことをほのめかしている。「Hは入信前に夫との関係に悩んでいた。家庭内暴力に近いものがあった。こうした状況でHが積極的に問題の打開策を求めていったともいえるし、統一教会の伝道者がつけ込んだともいえる。」(p.375)という記述がそれだ。

 櫻井氏は家族側の立場に立って記述しているので「家庭内暴力に近いもの」という曖昧な表現をしているが、実際には家庭内暴力そのものがあったのであろう。要するにHが統一教会に救いを求めなければならない状況に追い込んだのは、夫自身であったということだ。だとすれば、「元々葛藤があるのではなく、活動により発生・深刻化させられる」(p.393)という櫻井氏の主張も、Hには当てはまらないことになる。

 同じく壮婦の元信者Iの事例においても、夫は既に亡くなっていたため、家族と言えは子供たちだったのだか、「子供達は母親の統一教会における活動を当初は世間一般の宗教と同様に考え、母親の気晴らしになるのであればと気楽に捉えていた」(p.391)とあるので、家族との葛藤が信仰のバネになったとは到底思えない。彼女は家族の反対によって信仰を強化するどころか、息子たちとの話し合いによって比較的あっさりと信仰を棄ててしまったのであり、信仰を巡って子供たちと激しく闘った様子は見られない。

 総じて、櫻井氏の分析は個別の事例が持つ多様性を無視した無理な一般化が多い。偏ったサンプルにもかかわらず彼の一般化が当てはまらない例外が多いのであるから、もしこれをより広く公正なサンプルに照合した場合には、彼の一般化はほとんど現実を反映しない思い込みであることが明らかになるであろう。

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