書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』11


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第11回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」のつづき
 先回から櫻井氏による創造原理の批判に入ったが、櫻井氏は二性性相の批判に続いて神の創造目的である三大祝福の批判へと移ってゆく。彼は陽陰の二性性相を批判する際にはある種の比較宗教的な視点から、統一教会の神観がキリスト教的なものであるというよりは東アジアの民俗的な神観に近いことを示唆したが、三大祝福の分析に当たっては、突如として教団の組織論との関係を指摘するというスタンスにシフトする。このように彼の批判スタンスは実に都合よく変化する一貫性のないものだ。

 三大祝福は統一原理の人間観の根本をなす重要な概念であり、人間のあるべき姿を示した理想象といえる。第一祝福である「個性完成」は、神を中心として心と体が一体となり、一人の人間として完成することを意味する。これは心身一体、神人一体という個人としての理想像である。第二祝福である「子女繁殖」は、神を中心として男女が一体となって家庭を形成し、子女を生み増やすことを意味する。これは夫婦の和合、親子の和合、神の祝福の下にある家庭という、統一教会の家庭理想を表している。第三祝福である「万物主管」は、神を中心として完成した人間が万物を主管することを意味し、万物世界の主人としての人間の理想像を現している。その中には科学の発達や経済的発展も含まれている。この三つの祝福を完成することが人間の幸福であり、地上天国の姿であるというのが統一原理の基本的な人間観である。

 櫻井氏は旧約聖書の創成神話(原文ママ:「創世神話」の誤植ではないか?)の原義は、「男女が成長して夫婦となり、子を生み育てて、大地の恵みを得ることを神が祝福された」(p.34)ことであると解釈しているが、それは若干素朴な表現ではあるものの、統一原理の三大祝福が意味していることとほぼ同じである。その意味で、統一原理の人間観は聖書的なものであると言える。

 しかし、櫻井氏は「統一原理は独特な解釈を施す」(p.34)と言いながら、突然これらの理想像を教団の資金調達や組織論と結び付け始める。まず、「個性完成という近代主義的発想を持ち込む一方で、神中心の家庭形成というアジア的家族主義を盛り込んだ人間論を神の創造目的とする。そうすると、家庭形成にふさわしい男女関係についても神が関与することになる」(p.34)と指摘し、個性完成や家庭完成の理想は統一教会の祝福のシステムを維持するための論理に還元される。

 続いて万物主管の理想は、「神を中心としない人間は被造世界を支配する権限がないという発想を導き出すことが可能になり、堕落人間によって偽りの主管がなされる被造世界を神の元に取り戻すことが万物の復帰という発想につながる」(p.34-5)と指摘し、教団の資金調達のための論理に還元される。

 そして四位基台という概念そのものが、「『神中心』『中心との一体』という文言にある通り、宗教的コミュニオンへの家族的没入である」とされ、「これが統一教会の実践的規律である」(p.35)と結論される。要するに櫻井氏は「教説の解説」の部分に組織論的な分析を持ち込んでいるわけで、ここで「教理の問題」が突如として「組織の問題」に変換されるという一貫性のなさなのである。教理の問題を純粋に教理の問題としてとらえず、組織論にすり替えるのは、社会学的な還元主義といえるだろう。

 創造原理批判の最後に、櫻井氏は「独特な霊界の存在」または「アジア的な霊魂観」を指摘する。すなわち、「キリスト教でいう聖霊や天国という観念は、東アジア的な死霊の世界、後生の観念とは大きく異なる。キリスト教伝統によれば、聖霊は聖人の霊魂ではなく、聖・神的特徴を持った霊的存在であり、天国/地獄の観念も最後の審判の後にある来世であって現世の裏にある精神世界などではない。」(p.35)としたうえで、統一原理の説く無形実体世界(霊界)は非キリスト教的なものであるというのだ。

 ここで櫻井氏は社会学的なスタンスから、再び比較宗教的な視点へとスタンスを変え、キリスト教的な伝統に基いて、統一原理の霊魂観・来世観が異教的または異端的なものであるかのような言い方をしている。これは半分あっているが、半分間違っている。なぜか? 確かにキリスト教の正統信仰は霊界の存在を否定しているが、現実のクリスチャンたちは死後の世界を信じているからである。これは少々複雑なので、詳しく説明しよう。

 正統的なキリスト教が霊界の存在を否定するのは、「からだの復活」に対する信仰があるからだ。キリスト教の信条の中でも最も古い信条の一つである「使徒信条」に「からだの復活」を信じるという文言があるように、古代教会においてそれを信じることは正統的なキリスト教の信仰告白の重要な要素であった。

 キリスト教信仰には、まずイエス・キリストが復活されたことを信じ、それを土台として、キリストを信じる聖徒たちが復活することを信じるという基本構造がある。新約聖書の言葉の中には、以下に示す聖句のように、イエスの再臨のときに死者が復活するという記述がある。

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(テサロニケⅠ4:16-17)

 キリストの再臨にともなって死者が肉体をもってよみがえると信じているということは、終末論的に見れば、カトリック教会、プロテスタント教会の全教派において霊界の存在が否定されることを意味する。すなわち、キリスト教では人類始祖が堕落することによって、「霊的死」および「肉体の死」が起こったと考えており、「終末」が到来し、人間の救いが完成して「栄化」(栄光の体:ピリピ3:21)すれば、人間は「永遠の生命」を得て永生するようになるので、その「栄光の体」で生きる世界とは別の「霊界」は存在しなくなると考えるのである。

 それでは、新約聖書の中でイエスが悪霊を追い出したり、モーセやエリヤの霊と話し合ったりした記述はどのようにとらえたらよいのだろうか? これは、人間が堕落することで肉体が朽ち果てて死ぬような卑しい存在となったため、その応急処置的な世界として、陰府(黄泉)と呼ばれる、「霊界のような」世界が存在するようになったと想定しているのである。旧約聖書にはヘブル語で「シェオール」(陰府)、新約聖書ではギリシャ語で「ヘーデース」(黄泉)および「ゲヘナ」(地獄)が登場するが、特に陰府(黄泉)の世界は、人間の肉体が朽ち果てた後に、最後の審判を受けるまで住む「死者の住居」と考えられていた。このように、キリスト教における「霊界」は、神が積極的な意図をもって創造された永遠の世界なのではなく、堕落によって副次的に生じた暫定的な世界としてとらえられているのである。

 しかし、現代のキリスト教信仰はこの問題に関する深刻な矛盾を抱えている。もし終末時に「からだの復活」が起こり、人間の救いが完結するとすれば、霊界の存在は否定されることになる。反対に霊界が永遠に実在し、「からだの復活」が起こらないとすれば、キリスト教神学の根本が崩壊することになってしまう。ところが、現代においては多くの信徒たちが「からだの復活」ではなく永遠の世界としての霊界を信じているというのである。それゆえ、カトリック教会は1979年に『「終末論に関する若干の問題について」解説:教皇庁教理聖省書簡』を出版し、「もし、復活がなければ、信仰のすべての構造は、その基礎から崩れる」(p.6)と警鐘を鳴らした。

 フランスの神学者オスカー・クルマンは『霊魂の不滅か死者の復活か』(1958)を出版し、以下のような問題を提起した。

「パウロから始まる正統といわれるキリスト教神学は、『肉体の復活』を信じているのであって、死後の『霊魂の不滅』を教えているのではない。ところが多くのクリスチャンはいつの間にか、パウロの教えを忘れ、死後の『霊魂の不滅』を信じるようになっている。これはキリスト教の真正な教えと相容れない。」

 オスカー・クルマンによれば、「霊魂の不滅」はギリシャ的な観念であって、「肉体の復活」を信じるヘブライ的な観念とは相容れないという。通俗的には「霊魂の不滅」を信じていた多くのクリスチャンが、この指摘に失望し、落胆したと言われている。このように、正統とされるキリスト教の信仰と、現実のクリスチャンたちの通俗的な信仰の間には大きな乖離があり、根本的な矛盾を内包しているのである。

 「からだの復活」は古代の信仰であり、いくら正統と叫んでみても、もはや現代人が信じるのは難しい教説である。「ゴースト」「奇跡の輝き」「天国は本当にある」などの映画がキリスト教世界である西洋で制作され、現実のクリスチャンたちの多くが霊魂の不滅と死後の世界を信じている以上、統一教会の霊魂観や来世観が非キリスト教的でアジア的なものとは言い切れず、むしろ伝統的なキリスト教信仰が抱える根本矛盾を解決する福音であるととらえた方が良いのではないだろうか。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク