ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳56


第6章 祝福:聖別期間と同居生活(12)

 姦淫は、滅多に起こることではないが、結婚を終わらせるための二つしかない理由のうちの一つを構成するという点において、統一運動における離婚と密接にかかわっている。もう一つの理由は「放棄」であり、自分の配偶者および自分の宗教から離れることである。常にではないにせよ、放棄はしばしば姦淫と関連しており、それが起きたときには、運動は結婚を解消して残された配偶者が再婚することを厭わない。しかしながら、統一運動においては「申し立てに応じて」の離婚はあり得ない。67名の統一神学校の学生たちに対して将来の希望について聞き取り調査を行った結果に基づき、ブロムリー、シュウプ、オリバーは以下のように書いている:
「もちろんそれを評価するのは難しいが、教会と家庭生活の緊密な統合を前提とすれば、おそらく離婚率は低くとどまっていることであろう。どちらか一方の関係を断つ決定は、もう一方に対して深い意味合いを持つであろう。実際、私たちのデータはメンバーたちは自分たちの結婚が教会の中で支援されるのを期待していることを示唆している。ほぼすべての回答者が、彼らが夫婦間の問題を経験した際には、教会内の他の既婚カップルか教会のリーダーに頼るであろうと示唆した。疑いなくそのようなカップルには、婚姻関係にとどまったままで問題を解決するよう相当な圧力があることだろう。」(注85)

 証拠がさらに示しているのは、メンバーはより大きな世界の中に説得力のある別の構造を持ちえないという状況に直面しているために、彼らは配偶者と運動のもとを去りそうもないということである。ある人が人間存在の事実上あらゆる側面を包含する共同体に数年間を完全投入し、その中で結婚と家庭を確立した場合には、その人はおそらく離れないであろう。世俗世界において離婚を経験した人は、激しい疎外感を知っている。配偶者と運動を放棄した統一教会の信者は、連れ合いと子供を残して去るだけでなく、職業、友人、信仰をも放棄して、概して未知で恐ろしい世俗社会と直面するのである。

 統一運動における結婚に関する最後の問題は、配偶者の片方が死亡した場合、特に彼または彼女が比較的若く、カップルに子供がいないか、非常に少ない数の子供しかいない場合に何がなされるかということである。この状況がどのように扱われるかに関する唯一のヒントは、文師の説教の一つに見出すことができるが、その中で彼は寡婦や寡夫は非常に寂しいという観察をした上で、「・・・そして原理的な世界においては、私たちは清められた血統の下で、できるだけ多くの子供たちを産みたいと願うことでしょう。」(注86)と語っている。そこで文は、配偶者がそれぞれ若い夫あるいは妻に対して、再婚して多くの子供を持つ自由を与える旨の遺言を残す「条件的慣習」と呼ぶものを打ち立てたのである。この子供たちがどの血統に属するのかという聖書的課題は明確にされていないが、この「条件的慣習」(注87)は、文の子孫に対する関心を反映していると共に、たとえわずか数名の寡婦や寡夫の存在であっても、グループの団結を破壊しかねないことに彼が気づいていることをも示している。

 これまでの記述は、世界の救済・復帰を原動力とする宗教共同体において婚約と結婚がどのように機能するかを説明している。我々は、この千年王国説的な指向性が婚約・結婚の構造、婚約・結婚したメンバーの役割と価値観、および配偶者間の人間関係を形成してきたことを見てきた。現時点では、統一運動における婚約と結婚がメンバーの献身とグループの結束に圧倒的に貢献しているかどうかについては、多少の疑いはあり得る。要約的な形で、データに内在している求心的な方向で機能している力を列挙してみよう。
1.共同体による神を中心とする犠牲の強調は、運動の全生活に浸透しており、結婚観にも組み込まれている。それは最初に「約婚・聖別期間」に、続いて「結婚後の別居」において、そして最終的には夫婦関係に組み込まれている。公的な祝福式の最後に行われる「神の勝利」を表す万歳は、世界の救済者としての結婚の機能をドラマティックに象徴している。そのような無我を是認する正当化は、メンバーの結婚する前の経験の上に築かれていおり、グループの思想と一貫性を持っている。
2.婚約したカップルの相互関係は彼らのそれぞれの役割を示唆しており、彼らは運動の信仰が持つ指向性を彼らの発展途上の関係になんとか統合しようと努力し、それは徐々に宗教共同体の価値観と目標を反映するようになる。事実上、彼らは世界(共同体)の中の世界(対)を作るのである。
3.ほとんどの統一教会のカップルが「約婚・聖別期間」中に「恋に落ちる」という信仰は、二人の絆を結ぶプロセスにとって強力な推進力であり、マッチメイカーとしての文師の知恵を裏付けることに貢献している。
4.三日行事は、筆者の限られた情報を前提とすれば、夫婦間の性交を神聖化する機能を持っていると思われる。セックスは私的で個人主義的な関係というよりは、聖なる愛の最高の表現方法である。
5.夫婦間の意思決定のプロセスは、家族計画、職業の方向性、居住する場所などの重要な事柄の大部分を宗教共同体が決定するという事実によって単純化されている。そうした配置がなされることによって、統一教会の結婚における潜在的な葛藤の領域は少なくなる傾向にあり、またカップルはより大きなグループに対する依存を強めるようになると思われる。
6.避妊に対する統一運動のやや一貫した見解にもまた、祝福を受けたカップルと宗教共同体の絆を強化する効果がある。彼らの合一によって生まれてくる子供たちは「地に満ちる」(創世記1:28)ほどではないが、信者の数を増加させる効果はある。アメリカのメンバーは繁殖以外(例えば、愛、喜び、その他)の目的で性交をすることは可能であると主張するが、結婚後の別居によって、多くのカップルの親密な接触が非常にまれなものとなっており、もし彼らが子供が欲しいのであれば、彼らは妻が妊娠可能なときに性的接触をスケジュールせざるを得ないという状況が作られている。したがって、原則として夫婦間のセックスは本質的に善であるが、実際には夫婦間の性交の第一の目的は繁殖になっているようである。もし祝福家庭が結婚後の別居から解放された際には、おそらく彼らはより豊かで個人的に満足のいく性関係を築くことができるであろう。加えて、大家族を持つという習慣は、カップルが運動に経済的に依存する状況を維持する傾向があるだろう。

(注85)ブロムリー、シュウプ、オリバー『完璧な家族』p.126。
(注86)文鮮明「血統転換」、(『マスター・スピークス』 (MS-319、1973年1月19日)、p. 7。
(注87)そのようは発明は、原理講論および文の以前の教えでは扱われていない問題が共同体の中に出現していることと相関しているように思われる。ほとんどの新しい啓示と同様に、条件的慣習はある程度の変化に対する柔軟性をグループに許容する。「新しい状況は新しい義務を教える・・・」レオン・フェスティンガー、ヘンリー・W・リーケン、スタンレー・シャクター『予言がはずれるとき』(ニューヨーク:ハーパー&ロス、1956年)、特に25-32ページを参照のこと。

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