書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』132


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第132回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 元統一教会信者の信仰史の具体的な事例分析の中で、第125回から「五 壮婦(主婦)の信者 家族との葛藤が信仰のバネに」に入った。今回は元信者Iの事例の3回目である。Iは統一教会を相手取って計5億4700万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こし、このうち2億7600万円の支払いを命じる判決が東京高裁で下された。そのため先回までは、Iに対する勧誘行為の違法性や裁判所の判決といった、法的な問題を中心に解説してきた。そして、損害賠償の額の大きさと違法性との間には直接的な相関関係は存在しないものの、捧げた献金の額の大きさが裁判官の判断に影響を与える可能性があることを指摘した。今回からは法律の問題を離れて、Iが統一教会の信仰を持つに至った動機の部分に関する分析を進めることにする。

 まず、個人としてのIの際立った特徴は、資産家であったということである。損害賠償の請求額が合計5億4700万円であるという数字は、一般庶民からはちょっと想像のつかない金額であり、それだけで統一教会は反社会的団体であり、Iは統一教会によって騙されたのではないかと常識的には思いたくなる数字である。恐らく櫻井氏が元信者Iの事例をこの本で扱ったのは、「統一教会からこれほど大きな被害に遭った人がいる」ということを読者に見せつけ、統一教会の反社会性を示す格好の例としたかったからではないかと推察される。

 一般に、財産のある人は幸福であるという社会通念がある。単純にこの図式に従えば、「統一教会に出会う前のIは多くの財産を持つ幸福な人であったにもかかわらず、統一教会に出会うことによってその財産を奪われ、不幸のどん底に叩き落された。その被害の一部を裁判を通して取り戻したのである。」というストーリーになる。裁判所の判断は客観的で世俗的な価値観に基いて行われるため、こうした目に見える客観的な「モノサシ」をもって被害というものを判断する傾向にある。しかしそれでは、なぜ幸せであったはずのIが統一教会の信仰を持つに至ったのかという動機の部分は見えてこない。

 実は、「財産のある人は幸福である」という前提自体が不確実なものであり、幻想であるかも知れないということに気付かなければ、Iの信仰の本質は見えてこないのである。これは私が苦し紛れに勝手に言っていることではなく、最新の幸福学の研究成果を基にした主張である。慶応義塾大学大学院教授の前野隆司氏の著書『幸せのメカニズム:実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)は、最新の幸福学の成果に関する易しい解説書だが、前野氏は幸福と相関関係にある様々な要素について分析を行っている。その中で特に興味深かったのが、年収や財産と幸福感の関係であった。

 調査会社カンター・ジャパンが16歳以上の男女を対象に、財産の所有と幸福感に関し、2012年に21カ国で行った調査によると、「もっと多くの財産があれば幸せなのに」と思う人は、日本人では65パーセントに達したという。この数値には国ごとに大きな差があり、日本は欧米諸国に比べてかなり高い数字になっているという。しかし前野氏は、人が「もう少し収入や財産が多ければ幸せなはずだ」と思ってしまうのは「フォーカシング・イリュージョン」であり、要するに幻想に過ぎないのだという。

 この言葉は、プリンストン大学名誉教授でノーベル経済学賞受賞者でもあるダニエル・カーネマンが編み出した言葉であり、前野氏の解説によると以下のような意味である。
「フォーカシングとは焦点をあわせること、イリュージョンは幻想。だからフォーカシング・イリュージョンとは、間違ったことに焦点を当ててしまうという意味です。つまり、『人は所得などの特定の価値を得ることが必ずしも幸福に直結しないにもかかわらず、それらを過大評価してしまう傾向がある』[Kahneman, et al., 2006]ということ。『目指す方向が間違ってるよ』です。」(前掲書、p.63)

 カーネマンらは、「感情的幸福」は年収7万5千ドルまでは収入に比例して増大するのに対し、7万5千ドルを超えると比例しなくなる、という研究結果を得ているという。これを日本円に換算し、購買力の比で補正すると、ざっと1千万円くらいになるので、日本に当てはめれば、年収が1千万円だろうと、1億円だろうと、10億円だろうと、感情的幸福とは関係がないということである。カーネマンの結果はアメリカのものだが、実際に前野氏が日本人1500名に対して行った調査の結果を見ても、年収の高い層では、年収と感情的幸福には相関がなかったという。にもかかわらず、人は更なる高収入を目指してしまうところが「フォーカシング・イリュージョン」なのだと前田氏は指摘する。

 なぜ、ある年収までは収入と感情的幸福が比例し、それ以上になると相関しないのかに関しては複数の理由が考えられるが、最も大きな理由は以下のものである。年収が低いときに住居や食事や身の安全といった最低限の欲求が危険にさらされる可能性があるので、年収を上げることによってそれらの危険を回避することができて幸福度が上昇するが、ある程度の収入を得ると、基本的な生活には支障がなくなるので、愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求などのより高次の欲求を満たしたいと思うようになり、それは収入の上昇によっては得られないものだからである。

 このように考えると、5億を超える資産を持っていた元信者Iは、1千万円の資産を持っている人の50倍の幸福を感じていたかといえばそうではなく、感情的幸福度において両者にさほど差はなかったのだということがわかる。すこし乱暴な言い方をすれば、Iの基本的な生活に支障をきたさない限りは、5億円の財産が1千万円に減ったとしても感情的幸福度においてはさほど大きな変化はないのだということになる。さらに、より高次の欲求である愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすために、5億円の財産を犠牲にしたとしても、Iの感情的幸福度は低下するどころか、むしろ上昇するという結論になるのである。このように、感情的幸福度の視点から見れば、愛情・所属欲求、尊厳欲求、自己実現欲求を満たすためにその対価として5億円を支出することは合理的な判断であるとさえ言えるのである。ところが、お金の量に比例して幸福度が上がるという「フォーカシング・イリュージョン」に陥っている人には、そのことが理解できないのである。

 前野氏は、人間の幸福に関して「地位財・非地位財」というもう一つの面白い視点を紹介している。地位財とは、所得、社会的地位、物的財のように周囲との比較により満足を得るものであるのに対して、非地位財とは健康、自主性、社会への帰属意識、良質な環境、自由、愛情など、他人が持っているかどうかとは関係なく喜びが得られるものであるという。そして、地位財による幸福は長続きしないのに対して、非地位財による幸福は長続きする、という重要な特徴があると前野氏は解説する。平たく言えば、目に見えて他人と比較できるような地位財によって得られる幸福は長続きしないのに対して、目に見えないより本質的な非地位財によって得られる幸福は永続性がある。にもかかわらず、目に見えて分かりやすい地位財を人は追い求めやすいの傾向にあり、それがまさに「フォーカシング・イリュージョン」だというわけだ。

 ここまで説明すると、Iがなぜ信仰を持つようになったのか、その動機の部分がかなりはっきりしてくる。Iは資産家であったため、住居や食事や身の安全といった最低限の欲求が危険にさらされることはなかった。そこでIの幸福度は財産という「地位財」によってはそれ以上高まることはなく、Iはより高い次元の幸福を求めて、「非地位財」を探し求めていたということになる。

 一般に宗教の役割は、目に見えて他人と比較できるような地位財に対する執着を捨てさせ、目に見えないより本質的な非地位財によって得られる幸福に焦点を当てさせることによって、人間に永続的な幸福をもたらすものであると言える。一部の宗教における現世否定や物欲の否定は、地位財に対する執着を捨てろということである。それは統一教会においても同じであり、Iは統一教会と出会うことを通してより本質的で永続的な価値観に目覚めたため、地位財に対する執着を捨てて献金したと考えられるのである。

 前野氏の著作の中でも、宗教的信仰を持っている人はより幸福度が上がるという調査結果を報告している。それは宗教が人の人生観を地位財中心から非地位財中心にシフトさせる役割を果たすので、永続的な幸福度が増すからであると考えられる。このように考えると、元信者Iが統一教会に対して5億円を超す献金を行うことによって得た幸福感は、幸福学の見地からすれば5億円という金額と比較しても、十分に対価性のあるものであったという結論になる。ところが、こうした主観的な幸福感は世俗的で客観的な視点からは過小評価される傾向にあるので、Iが信仰をもつようになった動機の部分を正当に評価することができず、騙されたとか脅されたのだと推論してしまうのである。裁判所が下した判断は、まさにこのような「フォーカシング・イリュージョン」に基づくものであった。

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