書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』78


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第78回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、新生トレーニングにおいて説かれる実践的な信仰規律について説明しているが、前回は「(2)カイン・アベルの教訓」に対する彼の批判に反論した。今回はその続きである。
「(3)イサク献祭の教訓。一〇〇歳のアブラハムと九〇歳のサラとの間に生まれた子がイサクで、神は彼と契約を立てるとまで言った。しかし、神はイサクを燔祭に献げるようアブラハムに言い、アブラハムはイサクに手をかけようとしたとき、神はアブラハムが神を畏れるものであることを知ったと言った。ここから、最も大切なもの、我が子すら神のものであり、神にお返しすることが信仰、義とされるという。この世のものは全て神のものであり、神は万物を主管される方であることを強調する。実践信仰としては、自分の所属するもの全てを神に捧げることが信仰の始まりとされる。」(p.248)

 ここで述べられている「イサク献祭」は、聖書の物語を題材とした宗教的言説であり、こうした言説自体は信教の自由によって保証された領域に属することは言うまでもないが、櫻井氏によるこの教説の解説は誤っている。「イサク献祭」の教訓は万物を神にお返しすることではなく、神の命令に絶対的に従う信仰の重要性を説いているのであり、その点で既存のキリスト教の聖書解釈と相通じるものである。神がアブラハムに「イサク献祭」を命じた動機に関しては、「イスラエル民族から人身御供の習慣を絶つため」といったものも含めて、複数の解釈が存在する。しかし、最も主流の解釈はアブラハムの信仰心を試すためであり、このような事態に陥っても動じなかった彼の偉大な精神を公にするためでもあったというものだ。そしてこの試練を乗り越えたことにより、アブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒から今日でも「信仰の祖」として讃えられているのである。この点に関して、原理講論は以下のように述べている。
「アブラハムはその絶対的な信仰で、神のみ言に従い、祝福の子として受けたイサクを燔祭としてささげるため殺そうとしたとき、神は彼を殺すなと命令されて『あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』(創22:12)と言われた。神のみ旨に対するアブラハムの心情や、その絶対的な信仰と従順と忠誠からなる行動は、既に、彼をしてイサクを殺した立場に立たしめたので、イサクからサタンを分離させることができた。したがって、サタンが分離されたイサクは、既に天の側に立つようになったので、神は彼を殺すなと言われたのである。『今知った』と言われた『今』という神のみ言には、アブラハムの象徴献祭の過ちに対する叱責と、イサク献祭の成功に対する神の喜びとが、共に強調されていることを、我々は知らなければならない。」(「原理講論」p.327)

 ここで強調されているのは、万物を神に帰すことでも、息子を殺すことでもなく、神に対する絶対的な信仰であり、それによってサタンを分立することにある。聖書に「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:16-17)という言葉や、「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)という言葉にあるように、神が望まれるのはいけにえを捧げることではなく、私たちの心からサタンが分立されることであると統一原理は教えているのである。

 さらに、「イサク献祭」のような聖書の物語を題材とした宗教的言説を聞いたからといって、即座に自分の一番大切なものを捧げなければならないと決意するほど人間の心理は単純なものではない、ということも抑えておく必要がある。実際には、こうした教義を聞いても自分の大切なものを捧げたりあきらめたりすることを拒否する人は数多くいるのである。「イサク献祭」のような宗教的言説を聞いて感動する人は、もともと自己犠牲的な生き方を理想とする宗教性を備えた人であると言える。

 櫻井氏は続いて以下のように述べる。
「心情解放展と呼ばれるイベントでは、イサク献祭同様に自分にとってかけがえのないものを献げることが求められる。具体的には、受講生がこれまでの人生における異性関係を告白して罪を悔い改めること、現在交際中の人とは別れること、個人の貯金などを統一教会に献金することだ。神の祝福によらない結婚は罪と頭で理解していても、この教えを徹底すれば自分が恋人と別れることになるとまでは考えてはいなかったろう。この辛い決断をしてしまうと最も親密な人間関係が失われるために、これまでの自分ではなくなってしまう。」(p.248)

 ここで言われている「心情解放展」なるものは、統一教会の公式の儀礼には存在しないが、札幌「青春を返せ」訴訟の原告たちはそうしたイベントがあったと主張しているようであるから、信徒たちが現場で行っていた行事をそのように呼んでいた可能性はある。問題は名称よりもその中身だが、ここでの中心ポイントは統一教会の信仰を持った結果として、交際中の恋人と別れる場合があるということである。櫻井氏は恋人と別れることによって「これまでの自分ではなくなってしまう」といういささかオーバーな表現をしているが、これを文字通りに受け取れば、人は恋人と別れるたびに違う人間になってしまうことになる。こうした大げさな表現はとても冷静な社会学者の文章とは思えない。

 信仰を持つことによって異性のとの関係に問題を来すようになるという事例は一般のキリスト教にもあるようで、以下のような問いと答えが『クリスチャン生活事典』には掲載されている。

「Q:私が教会へ行くようになったら、これまで交際していた男性が『話が合わなくなった』と遠ざかっていきました。とても寂しいことです。
 A:イエスさまは、私が来たのは、人を仲たがいさせるためだ、とさえおっしゃいました。それはだれどでもけんかをしろという意味ではなく、人を神から離したり、罪への誘惑をもたらしたりする人からは、離れてゆかなければならない、ということです。
 あなたがその男性を愛し、どうしてもイエスさまの福音を伝えたい、救われる者になってほしい、という強い願いをもつほどでしたら、追いかけていってでも交際をなさるといいでしょう。しかし、あなため神への思いや信仰の妨げになるような人なら、思いきってあきらめることがよいでしょう。
 主を信じるために寂しい思いをされるなら、神は必ずあなたにもっとすばらしい幸せと慰めを与えてくださいます。『わたしは人よりも主を愛します。』と祈ってみて下さい」

「Q:未信者の異性と交際していますが、やめるぺきでしょうか。
 A:未信者との交際が、必ずしも悪いとはいえません。その人が人間的に誠実な人であり、あなたの信仰をよく理解し、協力さえしてくれるような人であれば、むしろ、その人を信仰に導くよい機会であるかもしれません。
 しかし、その人があなたのどこに魅力を感じ、あなたの何を求める人であるかどのような性質の人であるかを、よく見抜かなければなりません。信仰的なことや精神的なことに理解する心のない人と交際を続け、ついには結婚するようなことになれば、あなたほ非常に苦労するようになります。ついにはあなた自身の信仰さえ、維持することができないようになる危険があります。
 だから今、よく祈り、考え、また信仰の先輩の助言も受けてください。自分ひとりでなく、多くの人の助けもあり、その相手の中にもよい可能性があり、自分も苦労を覚悟してのことなら、むしろ強い信仰に立って、必ず相手を信仰に導く決意で交際してみるとよいでしょう。そうすれば、相手の性質もわかってきます。」(『クリスチャン生活事典』214~215頁)

 これらの信仰指導は、基本的に異性との交際を優先して信仰をやめるべきだとは決して言わない。知恵を持って対処し、基本的には信仰を優先して判断し、できるだけ妥協しないように勧めているのである。とくに信仰に至る可能性のない交際相手に関しては、別れたほうが良いと勧めている点には注目する必要がある。こうした異性の問題に関するキリスト教の信仰指導は、新生トレーニングにおいて行われている指導と本質的に異なるものではない。このように男女の愛よりも信仰を優先させ、交際中の異性と別れるように説得を行うこと自体は、宗教の世界においては一般的なことなのである。特に統一教会においては罪の本質を「愛と性の問題」としてとらえており、祝福による結婚が救いにとって必要不可欠なものであると教えているため、異性の問題は信仰の本質として避けて通ることができないのである。恋人と別れることは、受講生にとって一時的には辛い体験であるかも知れない。にもかかわらず、彼らが信仰を優先して異性関係を断ち切るのは、祝福によってより大きな幸福が得られるに違いないという「希望」があるからである。それもまた一つの合理的な選択であると言えるだろう。

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