韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ21


 先回は「金日成4人説」とそれに対する反論を紹介し、徐大粛の著書『金日成』に基いて彼の略歴を紹介し始めました。彼は1930年ごろから中国で共産主義のゲリラ運動に関わるようになり、一兵士として闘争の中で共産主義思想を体得していきます。金日成の思想形成にもっとも大きな影響を与えた人物が魏拯民であり、金日成は彼から共産主義思想を教わったと言われています。

 さて、徐大粛は著書『金日成』の中で、北朝鮮の国家主席である金日成は、まごうことなく満州において抗日遊撃闘争で活躍した金日成その人であると言い切り、「別人説を唱える韓国の学者がいまなお何人かいるが、それは根も葉もない空論である」と切り捨てています。その根拠として、彼は以下の点を挙げています。
①抗日パルチザンの頭目である「金日成」なる人物に懸賞金が賭けられていた
②今日の北朝鮮は、朝鮮革命の伝統は金日成のパルチザンの闘いがその起源であるとの考えで一色に塗られている
③北朝鮮の政治指導者の中核をなしていたのは、パルチザンに加わった人々ないしはその関係であった。

 したがって、このパルチザン活動と金日成が無関係であったということはあり得ないとしています。このパルチザン活動で有名になり、賞金を懸けられた金日成という頭目が、北朝鮮の指導者になったのだということです。この人の主張と、李命英博士の主張を比べてみたとしても、果たして金日成が何人いたのかということに関しては、真相は分かりません。

 そのことはさておき、金日成の抗日武装闘争についてまとめてみましょう。金成柱は、1930年代前半から「日成」という変名を使い始めます。1932年から41年にかけて朝鮮人パルチザンが展開した抗日武装闘争は、中国共産党の指揮下にあった東北抗日連軍の中で戦われました。朝鮮人は東満を拠点とする第二軍に特に多く、金日成もこの第二軍において闘った兵士の一人でした。金日成は比較的名の知られた指揮官の一人であったのですが、そうした指揮官の中には、金日成程度の名の知れた者は他にも数多くいたのであり、たくさんいる部隊のリーダーの中の一人に過ぎなかったのです。

 金日成は第二軍の中でその実績を認められて序列を高め、最終的には第六独立師の師長に就きました。金日成が最も活発に活動していた時期は1937年から40年であり、このころ彼が掌握していた兵力は中国人および韓国人を含めて300名程度でした。

 日満側は抗日連軍に的を絞って追討に次ぐ追討を強行し、北満の第二、第三路軍は1939年春ごろまでには壊滅状態となりました。第一路軍は間島の山岳地帯や密林地帯を根拠としていたため討伐が難しく、壊滅は免れてきたのですが、少人数の部隊ごとに分散して生き延びるより外に方法がなく、自然にその活動は停止することとなりました。このように中国共産党下にあった韓国人のパルチザン部隊も次第に追い詰められていったのです。

 そうすると日満側は「帰順工作」によって切り崩しを図っていきます。日満側の討伐作戦と「帰順工作」により、東北抗日連軍はガタガタになっていきました。「帰順工作」というのは、遊撃隊を離れて投降するものには金品の授与と刑の免除を約束するという「誘惑」だったのです。この作戦はてきめんに効果を上げ、投降した遊撃隊戦士は、共産主義思想を棄てるばかりか、率先して討伐軍に協力したと言われております。金日成の上官であった呉成崙(全光)でさえ投降し、金日成を追う討伐隊に協力する側にまわったということですから、上官さえ投降して裏切っていくという、非常に苦しい状況にこのパルチザン部隊は追い込まれていったのです。

 第一路軍のほとんどの幹部が投降、逮捕、射殺される中で、金日成ただ一人が生き延びて闘い続け、抗日連軍の壊滅が決定した時点で、ソ連領へ逃れたわけです。要するに金日成は事態が悪化してどうしようもなくなったときに、ソ連に避難するという最終手段を選んだということです。徐大粛は、「これだけでも金日成の実績としては、賞賛すべき実績である」と言っています。状況は絶望的で、仲間は皆が投降するか、逮捕されるか、射殺されるか、あるいは寒さの中で死んでいくかという中で、日本軍に屈服しないで戦い続けたというそのことだけで、既に英雄なんだということです。しかし、勝ち目はなかったわけですから、共産主義の聖地であるソ連に金日成は避難するわけです。そこで約4年間、終戦まで待つわけです。

 これが1941年から1945年までの金日成の歩みになります。当時、抗日パルチザンがソ連領へ逃げるのは珍しいことではなく、ソ連はそれを喜んで迎え入れていました。なぜかと言えば、自分たちの兵力にするためです。金日成はオケアンスカヤの野営学校に入りました。実はここで金正日が生まれたと言われています。ソ連がこのように抗日遊撃隊を受け入れて訓練することにしたのは、近い将来満州で日本軍と闘わなければならないことに備えてであったと思われます。

 しかし、1945年8月に原爆が落とされて、日本軍が予想外に混乱して、またたく間に降伏してしまったので、彼らは実際には日本軍と闘うことはありませんでした。日本軍が降伏したので、ソ連は韓半島の北半分になだれ込んでいきます。一方、金日成はソ連軍極東軍司令部のもとにあった第88特別旅団の少佐に任命されました。したがって、このときはソ連の軍人という立場であったのです。

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 日本軍が降伏した後、金日成はプガチョフ号というソ連軍の軍艦に乗って、ソ連軍と共に1945年9月19日に帰国しました。韓半島の北半分はソ連が占領したわけですから、そのソ連軍と共に入っていったのです。そして同年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」で、北朝鮮の指導者として、人民の前に紹介されることになるわけです。上の写真はそのときの金日成ですが、若いですね。33歳です。彼はソ連の軍人たちによって勲章をつけられて、民衆の前に出されたわけです。

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 それでは、なぜ金日成だったのでしょうか? 当時、北の指導者になる可能性のあった人は三人いたと言われています。そのうちの一人が曺晩植(조만식)という人で、この人は厳密な意味での共産主義者ではなくて、キリスト教徒でした。「朝鮮のガンジー」と呼ばれた人で、非常に尊敬されていて、名声は抜群でした。実は、初めにソ連軍が推した人物は彼だったのです。ソ連として一番良い方法は、万人の尊敬を集めているこの曺晩植を傀儡として立てて、自分たちは背後にあって政権を運営し、共産主義国家を作っていくということでした。そのためには曺晩植がソ連の言うことをよく聞くことが必要でした。しかし、この曺晩植は傀儡になるほど主体性の弱い人ではなく、ソ連軍にいろいろとものを言ったのです。信任統治の賛否に関してソ連と意見が衝突しました。すなわち、ソ連は信託統治を推進していたのですが、曺晩植は朝鮮の独立を守るべきだと言ってこれに反対したのです。このように、曺晩植は傀儡にはならないくらいに主体性があったので、結局ソ連とぶつかって、高麗ホテルに監禁された後に消息を絶ってしまいます。おそらく、消されたのではないかと思います。

 もう一人の指導者候補が、以前に紹介した朴憲永でした。この人はモスクワ大学で学んだインテリで、共産主義者としての実績もあり、「赤い星」と呼ばれていました。彼はコミンテルンと関係が深かったのですが、スターリンにとって信用できる人物ではありませんでした。彼の活動の基盤は南にあり、終戦後しばらくは南にいて、北の体制が固まった後で南から越北してきました。ですから、最終的には金日成体制の下で邪魔者として粛清されてしまいました。

 三番目が金日成でした。彼は指導者としてはあまりにも若かったのですが、ソ連のスターリンに「言いなりになる人物」と見込まれたので、彼が立てられたということなのです。ですから、指導者としての素養において、もっと人望があるとか、実績があるとか、そういうこと以上に、ソ連の言いなりになる、傀儡になる人物であるということが見込まれて、若い金日成が立てられたということになるわけです。

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