書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』113


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第113回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 第108回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入り、元信者AとBの事例を扱ったが、今回から「三 学生信者 学生と統一教会」に入る。

 櫻井氏は統一教会の学生信者を「原理研究会の学生」と「地区教会の学生信者」に分け、両者の待遇や性格の違いを強調する。これは私にとって個人的に興味深いテーマである。私は「原理研究会の学生」の出身者であり、地区教会の学生信者という立場を経験したわけではないが、櫻井氏によって強いコントラストを施されて描かれたこの二つの立場は、いささか極端で、ステレオタオプ化されたものであると感じる。これが櫻井氏による意図的な差別化なのか、それともたまたまインタビューした学生信者の性格が極端だったのかは定かでないが、私は前者の可能性が高いと思っている。原理研究会と地区の学生部の間に文化の違いがあるのは事実であろう。しかし、原理研究会の学生と地区教会の学生信者の性格や待遇が、櫻井氏が強調するほど大きく異なっているわけではない。

 原理研究会の紹介の冒頭に、櫻井氏は文顕進氏の掲げる「核心的価値」(Core Values)の中身を紹介している。これは私が学生だった時代にはなかったものだが、2008年ごろには原理研究会の中で強調されていた価値観である。いまやその文顕進氏は統一教会(家庭連合)本体とは袂を分かっているので、一種の「隔世の感」を禁じ得ない。櫻井氏はこの内容に関して、「アメリカ流のポジティブシンキングをまとめたもので、特に統一教会の活動に即して語っているわけではない。ここだけ見れば青年にとっては非常に有益な心構えを教えているということになる」(p.336)と評論している。

 櫻井氏はファンダメンタリスト的なものよりもリベラルなものを好む傾向にあるので、文顕進氏のアプローチは肌に合うのかもしれない。もとより宗教の教えには普遍的な部分と個別的な部分があるが、リベラルな宗教の特徴は、個別的な部分を極力削ぎ落として普遍的な部分を強調するところにある。例えばキリスト教においては隣人愛などは普遍的な部分だが、十字架による贖罪などは極めて個別的な部分であろう。同じく統一教会の教えにも、「為に生きる」とか「家庭の価値」といったような普遍的な部分もあれば、「真の父母による血統転換」というような極めて個別的な部分もある。もし櫻井氏が統一教会の教えの普遍的な部分を正確にキャッチできたならば、同じように「ここだけ見れば人間にとって非常に有益な心構えを教えているということになる」というような評価を得ることも可能であろう。しかし、櫻井氏には統一教会の教えの個別的な部分があまりにも鼻について、普遍的な部分が見えなくなっているようだ。

 それに対して、文顕進氏の掲げる「核心的価値」(Core Values)の中身は普遍的な部分を前面に押し出しているため、櫻井氏から「青年にとっては非常に有益な心構え」という評価を得るに至った。今になって思うと、文顕進氏の抱えていた問題というのは、統一教会の教えの中から普遍的な部分のみを抽出して強調するあまり、個別的な部分を軽視し、アイデンティティーが希薄になってしまったことにあるのではないかと思われる。

 この「コアバリュー運動」について櫻井氏は、「正体を隠した勧誘だからサークルへの誘い込みには成功するし、ボランティア活動等への動員も一定程度の効果を上げている。しかし、文科系サークルから原理研究会への移行が必ずしもうまく進まず、サークルのメンバーは多いが、原理研究会は少数という状態が生じているらしい」(p.338)と評論している。これは原理研究会の元メンバーの証言に基づいたものであるから、客観的な状況分析として信用してよいかどうかは疑問だが、この「コアバリュー運動」が現在は継続されていないことから判断して、それほど成功した運動であるとも評価できない。

 これはリベラルなキリスト教の教派が社会に迎合するあまりキリスト教の本質を見失いやすい傾向にあるのとよく似ている。現代社会においては、概してリベラルな教派は教勢を伸ばしておらず、逆に個別性を強烈に主張する福音派や根本主義の教団の方が成長する傾向にある。リベラルな教団の方が一般社会に迎合しているから人気が出てもおかしくなさそうだが、実際はその逆なのである。宗教の中にある一般常識に通じるような普遍的価値観に共鳴したからといって、その人が宗教的回心に至るとは限らないのである。

 櫻井氏は、「原理研究会の活動は、年間を通した新人開拓と夏季・春季休暇におけるキャラバン(物品販売による信仰強化・資金調達)に分けられる。地区教会との違いは、大学の学事歴に従って活動がスケジュール化されていることと、日本の統一教会に割り当てられた資金調達のノルマが原理研究会には直接課せられないということである。そのために、原理研究会における信仰生活には、ある種体育会的で濃密な共同生活の楽しみがある。地区教会信者のように通教からホーム生活、献身、そして祝福へという一直線の信仰生活を求められるのではないために、卒業後に就職して通教者となるか、統一教会を離れるか、統一教会の献身者として全国大学連合原理研究会の業務に就くか、様々な道が選択可能である。」(p.338)という分析を行っている。これはおそらく原理研究会に所属していた元信者から聞き取った内容をそのまま記述しているのすぎないと思われるが、極めて限定された知識に基く偏った分析であると言える。一つひとつ検証してみよう。

 まず、原理研究会の活動が主に新入会員の勧誘と夏季・春季休暇の経済活動によってなりなっているというのはほぼあっている。しかし、大学の学事歴に従って活動がスケジュール化されるのは学生である以上は当たり前であり、これは地区教会に所属する学生でも同じことであろう。原理研究会における信仰生活には、ある種体育会的で濃密な共同生活の楽しみがあるというのは、私自身が経験したものであり、本当である。しかし、それは志を同じくする若者たちが共同生活をすれば必然的に生じるものであり、原理研究会にあって地区教会にないものではない。櫻井氏自身が地区教会の女性信者Aについても、「東京に出て心を許せる友達がなかなか得られなかったこともあり、同じ志を持った仲間と暮らせることが嬉しくて仕方なかった。」(p.326)と記述しているがように、これはどちらの組織でも共通して感じる喜びなのであり、ましてや資金調達のノルマがあるかないかなどということとは全く無関係である。

 日本統一教会の草創期には、多くの先輩たちが御旨のために大学を中退して活動に専念した歴史があり、それ故に「親泣かせ原理運動」などと批判されたが、少なくとも1980年代以降は学生は大学をちゃんと卒業することが推奨されるようになった。私の時代の原理研究会もそうであったし、それは地区教会の学生部でも変わらないであろう。どちらの組織においても大学生は少なくとも卒業するまでは「信仰的モラトリアム」を経験するのである。したがって、卒業後に信仰を続けるか辞めるか、就職して一般社会に出て信仰を続けるか、宗教活動に専従するか、じっくり考える時間があるのは何も原理研究会の学生に限らない。

 また、地区教会の信者が通教からホーム生活、献身、そして祝福へという一直線の信仰生活を求められるというのも間違いである。み言に対する反応の良い青年がそのような一直線に見えるコースを行くことがあるかも知れないが、実際には研修生の進路は人それぞれであり、組織の専従者になる人、仕事を継続しながら通教者にとどまる人、一般社会で働きながら祝福を受ける人、信仰を辞める人など、それぞれが自分の進路を自分で決めるのである。

 櫻井氏は、「原理研究会のメンバーには統一教会の次世代における指導者層になることが求められているために、勉学のゆとりが与えられている。核心的価値の教説もそうだが、社会事業や組織活動によって世界に貢献していくという意識が説かれ、エリート意識も強い」(p.339)として、エリート集団としての原理研究会の特殊性を強調する。しかし実際には、原理研究会のメンバーに勉学のゆとりが与えられているというのは怪しい。私の時代には、天の御旨をさておいて勉学に専念してよいなどという価値観はなく、むしろ睡眠時間や個人の時間を極力削って、御旨と勉学を両立することが理想と教えられていた。そして大学の勉強をしっかりやっていれば統一運動の次世代のリーダーになれるなどと考える者はおらず、むしろそのためには信仰の訓練をしっかりやらなければならないという考え方が強かった。私の時代の原理研究会にも、活動のために勉学をおろそかにして留年する大学生はいたのであり、地区教会の学生に比べて「勉学のゆとりが与えられていた」などといえば彼らは怒り出すであろう。

 原理研究会の学生には「未来の指導者たれ」という理想が語られていたため、エリート意識が強いというのはある程度当たっているかもしれない。しかしこれは、一流大学の出身者が持つある種共通の感覚であると言えるだろう。「男性学生が多いせいもあってノリは体育会、臨戦態勢の雰囲気がある」(p.339)という記述も、一部の男子学生から聞き出したことを一般化しているに過ぎない。

 これらは、櫻井氏のインタビューした原理研究会に所属していた元信者の経験が、櫻井氏の描いた悲惨な統一教会の信仰生活とかけ離れたものであったため、「これは特殊な組織における特殊な経験に過ぎない」「楽しい信仰生活は、原理研究会の学生時代にしか存在しない」という差別化を行い、統一教会全体の信仰生活に関する自らの主張が崩壊しないように予防線を張ったものであると解釈できる。しかし現実には、「楽しい信仰生活」は原理研究会にも地区教会にも存在するのである。

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