韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ15


 先回は抗日武装組織としての「大韓独立軍」と「北路軍政署軍」を紹介し、その代表的な戦闘としての「鳳梧洞戦闘」と「青山里戦闘」を紹介しました。このように韓国人の武装集団が日本に対してかなり激しく抵抗したことは事実なんですが、その後に一つの不幸な事件が起こります。それが「自由市事件」と呼ばれるものです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT15-1

 「自由市」とは何であるかというと、ロシア語で「スヴォボードヌイ」という市がありそれは「自由な」という意味なので、朝鮮人はスヴォボードヌイを「自由市」と呼んでいました。そこで1921年にロシアの赤軍と朝鮮の独立軍が衝突して、朝鮮の独立軍が壊滅するという非常に悲劇的な事件が起きるわけです。この事件の経緯について説明しましょう。

 1920年10月の青山里戦闘の後、間島地域の朝鮮人武装組織は日本軍による掃討作戦に追われ、ロシアのスヴォボードヌイに移動しました。そこでロシアの赤軍とも連携して、体制を立て直そうと考えたということです。このロシアの「赤軍」とは何であるかというと、共産勢力のことです。当時はロシア革命の直後であり、共産主義の軍隊と、革命に反対して旧体制を守ろうとする軍隊が両方あったんです。旧体制を守ろうとする勢力を「白軍」と呼んで、共産主義側の軍隊を「赤軍」と呼んでいました。この赤軍と連携して、体制の立て直しと巻き返しを図ろうと、韓国の独立運動家たちは考えたわけです。

 しかし、主導権争いを巡って権力闘争が起こってしまい、朝鮮人武装勢力同士で対立するようになりました。そしてロシアの赤軍は朝鮮人武装勢力を武装解除しようとしましたが、朝鮮人武装勢力はこれに応じず抵抗しました。こうした中、1921年6月28日に赤軍と朝鮮人武装勢力の間で戦闘が起こりました。これによって朝鮮人武装勢力は多数の死者を出して、軍隊は壊滅してしまいました。これが概略ですが、なぜこうした不幸な事件が起こったのか、その背景を説明します。

 もともとレーニンの側には、韓国の独立軍を利用しようという意図がありました。これが「遠東革命軍の編成構想」と言われるものです。レーニンの世界革命構想は非常に雄大でした。レーニンは当時、上海臨政の国務総理で高麗共産党上海派を創党した李東輝に独立資金200万ルーブルの供与を密約して、一次金として60万ルーブルを渡していました。レーニン政府は近い将来、日本と戦争することを確信していたので、日・中・韓・蒙古等の革命青年、すなわち共産主義思想を吹き込まれた青年たちによる「国際遠東革命軍」の編成を計画していました。そして韓人部隊をその軍隊の主導勢力とするために、1920年7月に上海臨政の駐モスクワ代表であった韓馨権と以下のような要旨の協定を締結していたのです。
1.労農政府(ソビエト政府のこと)は、韓国独立運動を積極的に支援する。
2.韓国臨時政府は、暫定的に共産主義を採択する。
3.労農政府は、沿海州と満州各地の韓国独立軍がシベリアに結集して整訓することを歓迎し、必要な装備の供与と補給を負担する。
4.韓国独立軍は露領内においては赤軍司令官の指揮を受ける。

 これは、韓国独立運動がソビエトの参加に入るということを意味します。しかしこのとき、日本軍の間島出兵によって苦境に陥っていた抗日武装組織は、上海臨政から遠東革命軍の編成計画を通知されると、これに応じて北上することを決意するのです。

 金弘壹は後の光復軍総司令部参謀長を務めた人物でありますが、彼は「独立を成就するためには、一時的でもロシアの支援を受けるのはやむを得ないという説明を聞いて、シベリア行きを決心した」と回想しています。これにより、それまでバラバラであった民族主義の団体が統合され、「大韓国民軍団」と称し、兵力3500人で三個大隊に編成しました。そこに、高麗共産党イルクーツク派の軍隊「自由大隊」(1000余名)と、韓人パルチザンの「サハリン部隊」(約1000名)などが加わって、総人数が7000名以上に膨れ上がりました。抗日武装勢力が一つにまとまったのは良かったのですが、問題はこれらの部隊をいかに統合するかということでした。

 最大の勢力を持つ大韓独立軍は他団体を解散して軍団に吸収することを考えましたが、共産主義派はその逆を考えたのです。レーニンは韓国の独立のために遠東革命軍を構想したわけではなく、対日戦争のための革命軍の創設を期待していたので、イルクーツク派の将軍を長とする三人軍政委員会を組織させ、革命軍の編成を調整するために自由市に派遣しました。こうして三人軍政委員会による革命軍への改編が始まったのですが、各団体の主張は真っ向から対立しました。やがて主導権争いは血を見る激しさになっていきます。

 レーニンの指示を受けた三人軍政委員会は、最終的に諸団体の現幹部は放逐して、自由大隊(赤軍)に吸収する決定をくだしました。これに「サハリン部隊」が怒りだし、大韓独立軍を誘って自由市からの脱出を計画し始めました。そうした中で、1921年6月28日に自由市で赤軍と朝鮮人武装勢力の間で武力衝突が起こり、大韓独立軍の死者700名、負傷者数百名、伐採労働に連行されたもの1000余人を越える大惨事が発生したのです。民族派が初めて統合して創設した大韓独立軍団は、これによって壊滅的な打撃を受けたのです。これはあまりにも悲劇的な出来事でした。

 佐々木春隆氏は著書『韓国独立運動の研究』において、以下のように述べています。
「革命の歴史は、同床異夢で始まる。革命という大義のために小異を捨てて大同し、既成政権を打倒する。そして政権を握れば小異が吹き出して権力争いになり、粛清が始まる。最後に残ったものが革命の英雄である。フランス革命、ロシア革命、明治維新、中共革命などみなその軌を一にする。すなわち革命成功のポイントは、まず反体制派の大同団結にあることだけは疑いがなく、大同なくして革命が成功した例はないのである。けれども韓国の解放運動では、成功する前に排他運動や内輪の粛清が始まり、果ては同士討ちさえ演ぜられた。」(p.528)

 こうして、念願した抗日大武力育成の夢は水泡に帰す結果となります。すなわち、日本と戦う前に内紛によって大打撃を受け、バラバラになってしまったのです。この「自由市事件」の後にどうなったかと言えば、大韓独立軍団の各代表15人は自由市を離れ、公然と李東輝と決別し、「共産主義者はボルシェヴィキの傀儡であり、ボルシェヴィキは朝鮮独立軍を内乱に利用しているのであって、目的を達成すればお払い箱にするのが目に見えている」と非難しました。これはソ連の本音を鋭く見抜いていたと言えるでしょう。

 結局、独立運動に共産主義者が加入したことによって、運動の戦線は却って四分五裂してしまい、悲惨な状況となりました。「自由市事件」の生き残りは再び満州に移動して、活動を再開することになります。

カテゴリー: 韓国の独立運動と再臨摂理 パーマリンク