韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ13


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 佐々木春隆の著作である『韓国独立運動の研究』(国書刊行会、新装版2012年)では、韓国の独立運動を大きく6つに分類しています。これまで、この分類でいえば最初の3つ、すなわち①国内における民族運動、②中国における臨時政府を中心とする運動(上海臨時政府の金九を中心とする運動)、③米州における李承晩らの運動(外交努力を中心とする運動)を取り上げてきました。この3つはどちらかと言えば、直接再臨主の基盤になるような「アベル型の運動」であったと言えます。

 一方で、これから扱う④東満における民族派の武闘、⑤共産主義運動、⑥東満における中共党下のパルチザン(最終的には金日成の運動になっていきます)は、特に5番と6番に関しては「カイン型の運動」であり、最終的には北朝鮮に結実して行きます。4番は一時期ソ連とも共闘しますので、アベルとカインが入り混じった運動であると言えるでしょう。こうした運動の事実がどうであったかを調べた上で、これらの運動と再臨摂理がどう関わるかについて分析してみたいと思います。

 それでは、東満における民族派の武闘がどのようにして始まったかと言えば、抗日義兵の満州への移動から始まります。時間がどこまで遡るかと言えば、日韓併合の直前くらいまでです。完全に日韓併合がなされたのは1910年ですが、日本政府はそれまでに段階的に条約を結ばせて韓国の実権を奪っていきます。「第三次日韓協約」と呼ばれるものが1907年に結ばれますが、これにより国政の実権を掌握した日本は、韓国軍の解体を決定し、皇帝に「軍隊解散の詔」を出させました。それまで、韓国にもちゃんと軍隊があって、国王を守っていました。しかし、そのような軍隊を残しておけば反乱がおこるかもしれないので、日本の政府としてはそうした憂いを取り除くために、皇帝に解散命令を出させたのです。

 それまで軍人たちは国王に忠誠を誓っていたわけですから、当然怒るわけです。憤激収まらない軍人らは、個人や部隊で各地の義兵に合流して武器と戦法を提供しました。これらの義兵は、初めは国内で抵抗を試みたわけですが、国内で志ならずと見るや、東満に移駐して再挙を計りました。国内は完全に日本軍が抑えているので、国境を越えて満州に渡って反乱の準備をしようとしたのです。武装闘争を志向した闘士は、例外なく「東辺道」と呼ばれる地域を根拠に抗日運動に従事しました。この東辺道は豆満江北岸の「間島」と、鴨緑江北岸の吉林省及び遼寧省の総称でありまして、地図で示すと下のようになります。

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 吉林省延辺朝鮮族自治区は通称「間島」と呼ばれる地域で、この地図上で赤く塗った所のことです。さらに、吉林省及び遼寧省を合わせて、この辺一帯を「東辺道」と呼んでいました。ここは昔から韓国人がたくさん移り住んでいた地域で、間島においては人口の8割が韓国人でした。独立運動で武装闘争をした人は、国境を越えてこの辺に集まることによって身を守り、ここから再び国境を越えて国内を襲撃したりしていました。

 間島は李氏朝鮮の時代からしばしば朝鮮族の農民が越境して移住していた場所で、1920年頃には50万人程度が集まって住んでいました。ここは陸の孤島のようなところで深い森林が多く、身を潜めるには好都合でした。独立運動家たちは、そこに住んでいた同胞たちから経済援助を受けながら、武装して国を取り戻すための活動を始めたのです。

 そのようにして立てられたのが、「新興武官学校」と呼ばれるものでした。日韓併合がなされた1910年に、李東寧、李始栄、金昌煥らが柳河県三源堡に「新興講習所」を創設して武官の養成を開始したのがその始まりです。校長は李始栄(이시영)という人で、この人は「臨政」の閣僚を歴任して、韓国初代副大統領にまでなった人です。ですから、こういう所で武装闘争をした人が後の大韓民国建国の際に幹部になっていくわけです。教成隊長が李青天(이청천)という人でありますが、この人は日本陸士26期生でありますから、もともとは日本で軍人としての訓練を受けた人が、独立のために戦うようになったということです。この人は、後に光復軍総司令官になっています。それから教官に李範奭(이범석)という人がいましたが、この人も後に光復軍参謀長となり、韓国初代国務総理兼国防部長官になった人です。

 こうして見ると、「新興武官学校」から始まって武装闘争をしていた人たちは、後にその武勲が認められて、大韓民国が建国されたときに国の中枢に入って行ったという流れがあります。「新興武官学校」の教官の一人に、金光瑞(김광서)という人がいます。この人も日本陸士23期生で、日本で訓練を受けた人でありますが、後にシベリアで募兵して日本軍と交戦し、武闘を続けたことで有名です。実は、この人については後ほど金日成との関係で詳しくお話しすることになると思います。

 さて、満州における抗日武装闘争がどのように始まったのかをお話ししましょう。1919年に三・一運動が始まりますと、それは間をおかず満州にも波及し、各地で万歳デモが激しく繰り広げられました。これにより、それまで細々とやっていた「新興講習所」に約600人の青年が入校し、「新興武官学校」と改称しました。そして、数万とも数十万とも言われる国内の青年が武闘を志して入満し、相次いで義兵将や指導層が乗り込んできました。独立運動が始まったので、国を建てるために国境を渡って、志を持った青年がたくさん集まってきたのです。その結果、満州事変前後までは民族主義の武装団体が、後に共産主義が入ってからはパルチザンが、1941年春ごろまで粘り強く抗日武闘を続けることとなりました。韓国人はただおとなしく日本の支配に服していたのではなく、国外に出て武装闘争をする人がたくさんいたということなのです。

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 その人たちは、国境線沿いの「東辺道」という地域に居を構えて、隙あらば国内に入ってこようとしていたわけです。たくさんの武装集団が生まれたわけですが、代表的なものの一つが「大韓独立軍」です。洪範図(홍범도)という人が指揮していました。「北路軍政署軍」という集団は金佐鎮(김좌진)という人が指導していました。それから、「韓国独立軍」があり、「朝鮮革命軍」という集団もありました。この朝鮮革命軍は、共産主義思想の入った赤軍でした。このように、東辺道地域に武装集団が組織されていったのです。

 それでは、抗日武装闘争の実際はどうだったのでしょうか? 1919年の時点で主な独立武装団体は20あまりあったのですが、それらを統一する機関はありませんでした。これらの武装組織は、居留朝鮮人から金品や食料を調達したり、中国官憲やロシア過激派との協調を通じてその武力を蓄えていました。この人たちは韓国側から見れば「独立運動の勇士」だったんですが、日本側から彼らがどう見えたかと言えば、「不逞鮮人(ふていせんじん)」と呼ばれていたのです。要するに、反乱をもくろむけしからん朝鮮人だということです。日本政府は中国側に対してこれを討伐してほしいと要請したんですが、ほとんど成果が現れなかったということです。

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