書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』110


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第110回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 前々回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入り、櫻井氏が紹介する順番に従い、元信者A(女性)の事例から始めた。

 Aは脱会後に自らを振り返り、「今冷静に当時の自分を考え直してみると、統一教会にすっぽりはまってしまったわけもわかるような気がする。統一教会は、自分の中にある依存的な部分に合っていた。両親、特に母に何でも聞いてもらって、いいよ、と言われてからやる習慣が子供のうちに身につき、働き始めてもその性格が変わらなかったので、上司に何でも報告、相談する統一教会の仕組みがしっくりきたのかなとも思う。就職も親の敷いたレールの上に乗っかった。本当は別のことをやろうと思っていたのだが。統一教会に入信したときは、ここで初めて親から自立できると思ったのかもしれない。しかし、自分の性格は変わらず、命令に素直に従ったままだった。統一教会の生活は苦しかったが、それでも何でも相談できて指示に従ってさえいれば上から褒められる。そのような統一教会は居心地がよかったのだと思う」(p.328)と分析している。

 この部分は、「宗教と依存」という興味深いテーマを扱っているので、少し掘り下げて分析してみたい。宗教とは親の庇護を求める幼児の依存的体質の変形であると言ったのはフロイトだが、自分の中の依存的な部分と統一教会が「合っていた」というAの自己分析も、フロイトの宗教論とどこか通じるところがある。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(ペテロの第一の手紙5章7節)という新約聖書の言葉に典型的に示されているように、宗教を信じる者は自分の人生に対して主体的に判断するのではなく、神に判断を依存して生きていると思われるふしがある。

 統一教会に関する社会学的な研究で有名なアイリーン・バーカー博士も、統一教会はある意味で依存的な人々には居心地の良いところであると述べている。多くの宗教団体と同じように、統一教会の内部には唯一の支配的な世界観しかなく、信徒たちは比較的閉ざされた共同体を形成して生活している。多くの選択肢と不確実性に満ちた広い世界で孤独に生きるよりは、安定した狭い世界で隣人との絆を感じながら生きることを好むような性格の人にとっては、統一教会は居心地の良い場所なのである。それを「依存的性格」と呼ぶのであれば、そうした性格の持主は、ある意味で自分の特性にしたがって合理的な選択をしているとさえ言えるのである。

 たとえそうした性格を持たない人であったとしても、人間関係に魅力を感じるか、友情を動機として共同体の一員になるということはあり得る。しかし、そのことの故に自分自身の自由や選択肢が制限されるという代償を払わなければならない。その代償を払う価値があると思えるほど統一教会内での生活や人間関係に魅力を感じ続ければ教会に残るであろうし、魅力を感じなくなってしまえば、自由を求めてそこから離脱することになる。

 依存的な人とは確固たる自分の意志を持たず、人に言われるままに何でも従ってしまうような人であると思われるが、それでは統一教会に残る人は全員が依存的な性格を持った人なのであろうか? このことに関してバーカー博士は次のように述べている。
「神に服従しようとする人々はあまり強い意志を持っていないのだと思われているけれども、神のみ旨と信じるものに従う男女が極めて強靱な意志を持っていたと考えらるケースは歴史的に数多く挙げることができるだろう。そして私は非常に強靱な意志を持っているムーニーに何人か出会っている。」

 バーカー博士の言う強靭な意志を持った歴史上の信仰者とは、パウロやルターのような人物を指すと思われる。「神はわがやぐら」はマルティン・ルターが作詞した最も有名な讃美歌であるが、これは「宗教改革の戦いの讃美歌」と呼ばれ、宗教改革者たちをよく助けた。このように、信仰と強靭な意志が両立することは多くの歴史的人物たちが実証しているのであり、信仰を持っている人は必ずしも依存的で意志薄弱な人とは言えないのである。統一教会の信仰を持っていたAの場合も、三年間の過酷なマイクロ生活を歩み切ったという点に着目すれば、かなり強靭な意志の持ち主であったとも言える。ただ甘えたいだけの依存的な性格の持ち主であれば、とっくに途中で逃げ出していたことであろう。彼女もまた、信仰によって強靭な意志を発揮した人であった。そのときには、まさに「神はわがやぐら」であったのだ。自分は依存的であったというAの自己分析にもかかわらず、Aは何でも言われるがままに受動的に信じていたのではなく、さまざまな苦難や試練を乗り越えるほどの主体的な意志をもって、自ら信じる価値観に従って生きていたのである。

 この「依存」という概念は、両親との間においても意識されており、それは入信の動機の説明にもなっている。Aは、自分は母親に対して依存的であり、統一教会に入った動機の一つは、親から自立できるかもしれないと思ったからであると述べている。これは興味深い分析である。日本における数少ない外部の学者による統一教会研究に、塩谷政憲氏の研究があるが、彼もまた若者たちが統一教会に入信する動機を「親からの自立」という観点から分析している。詳しくは、「宗教運動への献身をめぐる家族からの離反」(森山清美編『近現代における「家」の変質と宗教』に掲載)という論文の中で論じられているが、要するに子供が親の引力圏から脱出するために、心許せる若者たちの集団である統一教会に魅力を感じて飛び込んでいき、その中で親からの自立をはかろうとしているということだ。実はした傾向は、西洋の統一教会にもあるようだ。バーカー博士はこのことを以下のように表現している。
「私が示唆しているのは、幸福で安定した家庭背景を持っていた者たちの中には、初めて世の中に出て行ったときに経験する失望、痛み、幻滅などに対処する準備が十分にできていなかった者が若干おり、そのような人々は、同じ価値観を持ち、同じ基準を信じているように見える友好的な人々のグループと出会うことによって、かなりの安堵感を経験したかもしれないということである。多くのムーニーが運動と出会ったときの最初の反応は『自分は家に戻ってきたように感じた』と語ったことは、まったく驚くにはあたらない。これはムーニーが単に家に戻りたがっていたということを意味しているのではない。彼らの大部分は統一教会に出会うかなり以前から、両親から独立する必要性を感じていた。これは成長の正常パターンの一部に過ぎないが、少数ながらも認識可能な数のムーニーが、両親の世話と愛情を息苦しく感じ、両親から逃れることを切に望んでいたのである。それはときには息子(あるいは娘)に対して、自分と同じ道を歩んでほしいとか、自分以上になってほしいと期待する父親であった。そしてその『以上』とは、子供にとっては魅力的でない職業における成功として規定されることが多く、子供自身は自分が選んでもいない方向に向かって教育の生産ラインに押し出されているように感じており、その方向は彼が幼少時代に両親によって教え込まれた理想そのものを達成するのを妨げているように思われたのである。

 もう一つのタイプの窒息は、自らの人生を惜しみなく捧げて子供たちの面倒を見てきたが、子供たちが離れていくのを望まない母親によって生じた。彼らは、子供たちが母親を必要とする以上に、母親が子供の依存を必要とするという事態になっていた。子供(いまや20代前半になっているであろう)は、それに抵抗して自分自身の生き方を選ばなければならないと感じていた。しかし同時に、彼が自分は大切にされていると感じ、自分のために決定がなされるという環境で育てられたという事実により、彼が自立の決断をする時にも、もう一つの『われわれはあなたを愛しており、すべての答えを持っている』という環境の中でその決断をする傾向がより強くなる、ということもあり得るのである。」(アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』第8章「被暗示性」より)

 Aの入信の動機と、塩谷政憲氏やアイリーン・バーカー博士の分析には多くの一致点が見出される。したがって、Aの入信動機はとりたてて珍しいものではなく、むしろ典型的なものであると言えるのだろう。問題は、親から自立しようとして統一教会に入信し、それを契機として人間としての自立を果たせたかどうかということである。Aの場合にはそれがうまく行かなかったために、再び親の元に帰ってやり直すという結果になってしまった。しかし、統一教会の中で人間としての自立を果たし、やがて結婚して自分も親となり、人間として成熟していく者は多数いるのであり、「依存」というキーワードだけで統一教会の信仰を説明することはできないのである。人は、幼い時には誰しも依存的である。そこから成長して自立することができるかどうかは、ひとえにその人の努力にかかっているのである。

 櫻井氏は、「筆者なりにカルト的信仰を定義するならば、組織に依存させられた信仰である。個人を既成概念から解放し、自由にするような信仰のあり方ではない」(p.328)と主張するが、もしこの定義をそのまま受け入れれば、社会から認められている伝統教団の中にも「カルト的信仰」は存在し、社会から「カルト視」されている教団の中にも、カルト的でない信仰が存在するということになるであろう。一つの教団にあっても、信徒と教団の関係は一様ではなく、そもそも組織にまったく依存しない信仰などというものは実在しない。これは個々人の生き方や性格に関わる問題であり、Aという個人の事例をもって統一教会の信仰が「カルト的信仰」であるとは言えないのである。

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