韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ12


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 韓国が解放された直後に、お父様と李承晩政権を結ぶ使命を持っていたもう一人の人物が金百文牧師でした。お父様は金百文牧師について以下のように語っています。
「そして、当時、金百文は李承晩博士と近い立場にあったので、彼を洗礼ヨハネの立場に立ててみ旨をなすことができたのに、そのようにできませんでした。」(『真の御父母様の生涯路程2』p.73)
「もし、金氏の集団が先生と一つになっていたならば、正にそれが完成段階の集団になったでしょう。先生はその集団と既成教会の牧師を連結させなければなりませんでした。そののちに連結すべきものが政府です。」(『真の御父母様の生涯路程2』p.77)

 お父様が金百文の下に入っていったのは、彼を屈服させて、それにつながっている「獄中派」のアベル教団を収拾して、さらにより広いキリスト教会を収拾して、それが丸ごと李承晩政権の基盤になっていかなければならなかったからなのです。ところが、この金百文がお父様を受け入れないことにより、この摂理は失敗していくことになります。

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 神社参拝を巡る内容について、客観的な韓国キリスト教史の本を読むとどんなことが書いてあるかをご紹介しましょう。これは、閔庚培という人が書いて、沢正彦という人が訳した『韓国キリスト教史』(日本基督教団出版局)という本で、1974年に初版が出版されています。韓国キリスト教に関する日本語で読める本としては一番初期に出た本になります。

 これによると、カトリックと監理教(メソジスト教会)は、神社参拝が単純な政治的行動に過ぎないという立場を受け入れて妥協してしまいました。ですから、この系列の学校は閉鎖されることなく解放前まで存続したということですから、この教派にいたクリスチャンたちはみんな日帝に妥協した人々だということになります。

 一方、長老教会はこれに抵抗し続け、日本政府の激しい迫害を受けました。しかし、1938年の第27回総会で、神社参拝がキリスト教信仰に背馳しないことを決議したということですから、ずーっと抵抗はしたんですが、1938年の時点で長老教までも妥協して、神社参拝をするようになってしまいます。ですから、教派として最後まで日帝と戦ったキリスト教というのはなくて、その中のごく一部の人々が戦ったということになります。

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 その戦った代表的な人が、朱基徹という牧師です。彼は朝鮮長老派教会の牧師であり、神社参拝は偶像崇拝であるとして拒否し、4度投獄され、5年間獄中にあったということですから、激しく神社参拝に抵抗した人でした。日本による凄まじい拷問の末、彼は1944年4月21日に平壌刑務所で死亡しました。49歳でした。その後、平壌神学校は閉鎖され、200余りの教会が閉鎖され、2000余名の信徒が投獄され、50余名の殉教者が出ました。このように、日本の神社参拝に抵抗したクリスチャンたちは徹底的に弾圧され、多くの人々が殉教したのです。

 そして、黄海道で神社参拝を拒否して投獄された70余名のうち、50名が監獄で殉教し、残りの20名が解放後に出獄しました。彼らは、日本の迫害を耐えぬいたということで、「出獄聖徒」と自称しました。彼らは出獄した後に平壌の章台峴(장대현)教会に集まり、韓国教会再建運動を展開したということなのですが、これがお父様のみ言葉の中に出てくる「再建教会」のことです。実は、崔先吉女史とその母親は、再建教会を信じていたということですから、第一の奥様とその母親は、キリスト教の中でも「獄中派」の教会に属し、その信仰を篤く持っていたことになります。そしてこの崔先吉女史自身も、牢獄を体験するくらい、激しく戦ったということです。

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 実は、お父様は1946年に北朝鮮にわたり、この章台峴教会から十数名を復帰しているのです。このときに入教したのが玉世賢ハルモニとか、池承道ハルモニとか、金元弼先生の叔母さんに当たる金仁珠先生などです。この方々は「獄中派」のクリスチャンの伝統の中から復帰された人々です。ですから、こうしてみると本来ならば、「獄中派」の信仰を持っていた崔先吉夫人とその親族がお父様の基盤にならなければならなかったし、再臨主を信じた初期の信徒たちは、この「獄中派」のクリスチャンの中から出てきたと言えるわけです。

 こうしたお父様のみ言葉や歴史的事実を総合するとどういう結論になるのでしょうか。まず、再臨摂理を出発するためには韓国を日本の支配から独立させなければならず、韓国独立運動と再臨主は連結されなければならなかったということです。これが大前提です。ですからお父様は金九とも連絡を取ったし、独立運動をしているキリスト教の地下教会とも関係を持ち、神霊集団とも関係を持っていたのです。

 李承晩はキリスト教徒であり、強烈な反共主義者であり、摂理的な天使長国家となるべきアメリカと人脈があったので、解放直後の摂理の中心人物としてまさに天が選んだ人であったとが分かります。これは彼の経歴を見ても明らかです。

 しかし、李承晩は韓国に自らの基盤を持たなかったため、結局は親日派が彼の政治基盤になってしまいました。これは彼の政権が出発したときの大きな不幸でありました。現実にはそのようになってしまったのですが、本来はどうあらねばならなかったかといえば、日本の神社参拝に屈服しなかった信仰的なクリスチャンが李承晩の基盤になるのが、天の願いであったということになります。

 李承晩と信仰的なキリスト教徒と再臨主を連結するために、天はいくつかの準備をされたことが分かります。お父様の親戚の中で準備された人物は従祖父の文潤國牧師でした。彼は李承晩と友達だったわけですし、入閣の要請まで受けていました。しかし、彼はそれを断ってしまったのです。

 次に準備されていたのが、最初の奥様である崔先吉夫人です。彼女は再建教会の信徒であったわけですから、この方と結婚して、その再建教会の信徒たちが全員再臨主を受け入れて基盤となっていれば、まったく状況は違っていたことになります。

 さらに、金百文牧師をお父様は伝道しようとしました。この人は神霊集団の指導者であったわけですから、彼の下にあって日帝と戦ってきたキリスト教徒の群が基盤となり、これら三つが一体化していれば、韓国のキリスト教および韓国の政権につながる道がどこかにあったに違いないということです。

 しかし、1945年の解放直後にこれらの準備された人々が自らの使命を悟ることができなかったため、お父様は北朝鮮に渡って、自分の基盤を求めざるを得なかったということになります。ですから最初に章台峴教会に行って獄中派のクリスチャンたちを復帰し、それから獄中で許孝彬の教団とその幹部達を復帰しようと試み、さらに朴老婆の所にも行ったわけです。しかし、これらの人々はお父様をメシヤとして受け入れようとはしませんでした。

 南で準備された基盤がすべて崩れ、さらに北朝鮮での基台も崩れてしまったために、最終的にはすべての基盤を失ったお父様は興南監獄へ行かざるをえなかったということになります。すなわち、地獄の底から出発しなければならなかったということです。準備された基盤がすべて崩れたことによって、十字架の道を行かなければならなかったのが、興南監獄の路程だったということになります。

 このように整理してみますと、韓国の独立運動の長い歴史を背景として、お父様が摂理の中心人物として登場する1945年に、もしそこで標準がピタッと合って、天の準備した人々がすべて連結されていれば、いまの歴史とは全く違った様相になっていた可能性があります。にもかかわらず、これらの中心人物がすべて失敗することによって、その摂理が流れてしまったということが分かります。

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