書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』108


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第108回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第七章 統一教会信者の信仰史」

 今回から元統一教会信者の信仰史の具体的な事例の分析に入る。櫻井氏が「第6章 統一教会信者の入信・回心・脱会」で描いてきた統一教会信者の信仰生活は、実に悲壮なものであった。彼らは統一教会に巧みに勧誘されて教育された受動的な被害者であり、常に睡眠不足や緊張感や疲労と闘いつつ、朦朧とした意識の中でただひたすら苦難に耐え続ける。そして常に実績の追求と精神的な打撃を受けながら、勝利か敗北かという二者択一を突きつけられて、決死的な決意で教団から要求される活動を行い続けるのが典型的な統一教会の信徒像だというわけだ。こうした悲壮な信徒像は、統一教会を相手取った裁判の中で、原告側が繰り返し主張してきた内容を反映している。ところが、櫻井氏の行ったインタビューの中には、こうしたイメージには当てはまらない統一教会信者の「リアル」が見え隠れしている。今回から、こうしたポイントに留意しながら櫻井氏のインタビューした元信者の「信仰史」を分析することにする。

 まず、元信者A(女性)の事例から分析してみよう。彼女は統一教会を脱会後、プロテスタントの信者となっており、元統一教会信者の夫との間に二人の子供がいるとのことである。親族から監禁された統一教会信者を脱会させるための説得を行うのはキリスト教の牧師である場合が多いが、脱会した信者の一部はその教会の信者になる。日本基督教団のリベラルな牧師は統一教会の信仰を棄てさせるだけの「棄教説得」で終わる場合が多いが、福音派の牧師は彼らの信じるキリスト教への「改宗説得」を行うことが多いようである。したがって、福音派の牧師に説得された場合の方がクリスチャンになる確率は高い。

 一方で、牧師の説得によって脱会した元信者同士が結婚する事例も多いようである。統一教会での体験が忘れてしまいたいような悲惨なものであるなら、それを思い出す可能性の高い元信者と結婚生活を共にするというのは不合理であり、避ける方が賢明であろう。しかし、脱会者の心理はそれほど単純なものではない。彼らの記憶から消えることのない「統一教会体験」は、それを経験したことがない人からは容易に理解されないものであり、実の親をはじめとする親族でさえも本当の意味で理解することはないであろう。自分がなぜ教会に入り、そしてなぜ辞めたのかを説明することは困難で骨の折れることである上に、相手に理解してくれと要求することもできない。しかし、それを理解してくれる存在が、まさに自分と同じ体験をした元信者なのである。そこに一つの安心感を感じて、元信者同士で結婚するのであろう。

 統一教会での体験が本当に悪いものであり、できれば忘れてしまいたいものであれば、脱会後の人生はそれらからできるだけ遠ざかり、統一教会に関わる人物とはなるべく関わらず、宗教そのものさえも否定する人生を選んでも不思議ではないように思われる。しかし、この元信者Aはキリスト教会に通い、元信者と結婚している。これは結果的に、統一教会の信仰そのものは棄て去ったとしても、相変わらずそれに近い世界観の中に身を置いているということになる。要するにAは本質的に宗教的な素養を持った人なのである。説得による棄教は、宗教的アイデンティティーを人工的に破壊することを意味する。それは心の中にぽっかりと穴の開いたような状況を作り出し、一種のアイデンティティー・クライシスを引き起こすことになる。Aは本質的に何らかの宗教的アイデンティティーを必要としているので、それを埋め合わせるために、プロテスタントのキリスト教という新たな信念体系を受け入れるようになったのである。Aがもともと世俗的な人であったならば、脱会後に信仰を必要とすることはなかったであろう。

 そして一度は祝福の理想を受け入れた者は、完全に世俗的な結婚に対しても抵抗感を残す場合が多い。そこで一度は祝福の理想を信じた元信者と結婚するのである。祝福の価値そのものは既に信じていなかったとしても、「不倫や離婚の心配がない結婚がしたい」とか、「夫婦円満の幸せな家庭を築きたい」という理想だけは引き続き持っている場合が多いのである。一時でも統一教会で信仰生活をした元信者とは、そういう価値観を共有しやすいのかもしれない。したがって脱会してもなお、Aが「統一教会的な」価値観を引きずっている可能性は高い。アイリーン・バーカー博士の研究によれば、こうした価値観は統一教会に来る以前から本人が持っていたもので、それが統一教会の示す価値観と一致したために信者になった可能性が高いという。

 Aは20歳になったばかりの1987年に、街角で誠実そうな男性に声をかけられ、手相を見てもらったことがきっかけで伝道された。仕事で行き詰っていたこともあり、人生の転換期ではないかという言葉に反応している。Aは「講座を受講したり、立て続けにセミナーに参加したりして、半年あまりで献身を決意した」(p.326)という。

図6-8

 櫻井氏自身の示しているデータによれば、図6-8に見られるように、入信から献身を決意するまでの期間は数ヶ月から一年間、複数年まで散らばりがあるという。(p.212)このグラフの中に位置づければ、確かにAが献身を決意するまでに要した期間は最も短い部類に入ると言えるだろう。櫻井氏は、統一教会への伝道・入信・献身までの期間が極めて短いことを理由に、信仰の獲得が本人の主体的な意思ではなく、プログラムや説得による受動的なものであると言いたいようである。しかし、その期間は人によって大きなばらつきがあり、Aのように半年あまりでトントン拍子に行く人もいれば、数年かかる人もいるのである。結果としての入信や献身までの期間に大きなばらつきがあることは、伝道する側の思い通りに相手をコントロールできるわけではなく、最終的には本人次第なのだということを物語っている。入信や献身までの期間が短い人は、それだけ本人が納得していたということであり、長い時間がかかった人は、納得するのに時間がかかったということである。その意味でAは「感度が良かった」ということになるだろう。

 この点に関して櫻井氏は、「これほどの短期間で献身してしまったのは、統一原理のような話を全く聞いたことがなく、真理として教え込まれたことを本当にすごい話だと思い込んでしまったこと、あなたが世界を変えていく使命を持っているのだというメッセージを受けたことがある。自分にそんな役割があったのかと。」と受動的に表現している。しかしこれは、宗教的回心をあくまでも主体的なものではなく、勧誘によって引き起こされた受動的なものとして描こうとする、裁判資料によくある表現方法である。当時の状況をより事実に近く表現すれば、「これほどの短期間で献身してしまったのは、初めて聞く統一原理の内容は新鮮で、本当にすごい話でまさに真理だと思ったこと、自分に世界を変えていく使命があるんだという話に感動したこと」となるであろう。宗教的回心の動機としては至極まっとうなものであり、Aはかなり宗教性のある感度の良い受講生だったことが分かる。

 しかし、人が伝道される理由はこうした教義の内容に対する反応だけではない。櫻井氏はAについて、「東京に出て心を許せる友達がなかなか得られなかったこともあり、同じ志を持った仲間と暮らせることが嬉しくて仕方なかった。自分をご存知の神様がいるという話にも純粋に感動した」(p.326)とも記述している。トレーニング中の仲間たちとの共同生活が楽しかったという話は、元信者の証言だけでなく、現役の信者たちの証言にも見いだすことができる。「ムーニーの成り立ち」の著者のアイリーン・バーカー博士は、統一教会の信者に「入会したとき、何が最も印象的だったと記憶しているか?」というアンケート調査を行っており、その順位は英国の場合は①結論:メシアが地上にいること(46%)、②会員自身(22%)、③統一原理のその他の内容(16%)、④ファミリーの共同生活(9%)、⑤ファミリーの政治的な立場(1%)で、アメリカの神学生の場合は①結論:メシアが地上にいること(32%)、②統一原理のその他の内容(29%)、③会員自身(26%)、④ファミリーの共同生活(6%)、⑤ファミリーの政治的な立場(0%)となっている。このデータは西洋においても、教義の知的な内容に感動したという要素と共に、心理的または情緒的な解放や慰めを入信の動機としている者も多くいることを物語っている。すなわち、多くの者が「アットホーム」な感じのする雰囲気や、統一教会のメンバーから感じた親近感や愛情表現が原因となって入会したいと感じたと答えているのである。こうした状況は日本でも同じである。教義に対する感動と、心許せる同世代の仲間たちとの触れ合いが相乗効果となって感動を引き起こし、統一教会に入信することが多いのである。そしてそれは、若者たちが新宗教に入信する際の典型的な動機であるとも言うことができ、それ自体が社会的批判に値するものではないことは言うまでもないであろう。

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