韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ10


韓国の独立運動と再臨摂理PPT10-1

 解放直後の韓国の政治状況を図示したものがこの図です。絶対的権力を持っていたのが、占領していた米軍政府でした。それに対して、右翼と左翼の両方の勢力が対立していたのです。右翼の中心人物は金九でした。これは大韓民国臨時政府系の人々によって構成されていました。彼らはそもそも、アメリカによる信託統治に反対していました。そして南北統一選挙を主張しながら、南だけで選挙をやることに反対していました。このように米軍政府に対して反発していたので、その結果として弾圧されるようになりました。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT10-2

 一方、左翼は呂運亨という人が立てた「朝鮮人民共和国」でした。これは金日成が立てた北朝鮮とは異なる政治組織です。「朝鮮建国準備委員会」から発展した「朝鮮人民共和国」という左翼系の共産主義を信奉する団体が立ちました。このころには既に朴憲永はいなくなっていました。彼は「南朝鮮労働党」を結成して一時勢力を伸ばしたのですが、1946年の夏に米軍政府から逮捕命令が出ると、朴憲永を含む同党の指導部はソ連をバックとする北朝鮮へ越境してしまったのです。そのときから事実上の左翼の中心人物は呂運亨となり、この勢力が米軍政府に反発しながら共産主義的な政治活動を続けていたのです。これは当然、米軍政府から共産主義だということで弾圧されることになります。

 そんな中で、李承晩を中心とする「独立促成中央協議会」という組織だけが、米軍政府に対して協力的だったのです。すなわち、米軍の正統性を尊重し、半島南部のみでの選挙を容認するという立場ですから、李承晩だけが米軍政府の意向を組み、それと協力することのできる政治指導者として生き残っていくということになるのです。当時はアメリカ軍が韓国を占領していたわけですから、これがいわば絶対権力だったわけです。それと一体化した李承晩だけが選挙に勝って生き残っていくことになります。最終的には、呂運亨も金九も暗殺されてしまいました。

 しかし、問題がどこにあったかといえば、李承晩には支持基盤がなかったということです。李承晩は日本統治時代に朝鮮にいたことがほとんどなく、地盤も基盤も富も持ち合わせていませんでした。そこでこれを支えたのが、韓国民主党(韓民党)でした。反日右派の金九による親日派粛清に恐れをなした日本統治時代の対日協力者が李承晩の支持基盤となったという、実に皮肉なことが起こったのです。李承晩自身は徹底した反日主義者でした。でもずーっと外国にいたので国内に基盤がなかったのです。彼は米軍政府から承認を得て位置を獲得したのですが、民主主義はやはり選挙ですから、票を集めなければなりません。そこで結局は親日派の人々が彼の政治基盤にならざるを得なかったのです。

 米軍政庁が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948年5月10日に行われた国際連合監視下での総選挙に臨みました。これが大韓民国の初代総選挙となります。この選挙は朝鮮半島の南北分断を固定化するとの理由から、各地で反対派による武装闘争が展開され、大反対の中で強行されました。つまり、右派も左派も南だけで総選挙をやることに対して暴力で反対したのです。これを米軍が抑えながら選挙を行ったということです。

 総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制しました。そこで制定された第一共和国憲法は、議会が大統領を選出すると定めていました。いまは韓国の大統領は直接選挙制で選ばれますが、この第一共和国と呼ばれる最初の政府の憲法によれば、まず議会の議員を決めて、議員が大統領を選ぶようになっていたのです。こうして1948年8月15日、朝鮮半島南部単独で大韓民国が建国され、李承晩が初代大統領に就任したのです。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT10-3

 韓国がいま、第何共和国か知っていますか? いまの韓国の憲法は第六共和国憲法です。第五共和国というのは全斗煥がクーデータ―を起こすことによって建てた政権です。韓国ではこれまでに六回憲法が変わっているということになります。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT10-4

 以上が韓国独立運動の中でも、天が準備したアベル的な立場の人々の歴史に関する客観的事実でありますが、それではこれらの歴史的人物と真のお父様はどのように出会うべきだったのでしょうか? それに関しては、お父様のみ言葉に根拠を求めていかなければなりません。そこでしばらく、真のお父様と韓国独立運動の関係について、み言葉を引用しながら考えてみたいと思います。基本的な資料として私が選んだのが『真の御父母様の生涯路程』です。特にその一巻と二巻には韓国の解放前後のお父様の歩みに関するみ言葉が多く掲載されています。

 お父様は、日本留学時代に韓国人の留学生と地下活動を行っていたと自ら述べていらっしゃいます。
「皆さんは、国を失ってしまった悲しさを経験していません。先生はそれをよく知っています。大韓民国が日帝の下で呻吟している時、先生も日帝に対抗して戦ったことがあります。私は、日帝時代に地下工作をした人なのです。その時、『何か問題があれば、全部私に罪を押しつけなさい』と言いました。私はその時、留学生を管理していました。責任者だったのです。そうして、『死の境地に行くなら、私に罪を押しつけなさい』と言ったのです。

 文先生は正義のために、首を既に投げ出してしまったのです。気の小さい男ではないのです。皆さんは知らないけれど、玄界灘を渡り、釜山から安東まで列車の下に張りついて行くようにして、上海の臨時政府に派遣する、そのようなこともしました。安東まで汽車で行くのに八時間から九時間ですが、そのようなことまでしたのです。そうして北京で金九先生の指揮下に入った者たちは、最近の情報によると、中国でも有名な人たちになりました。そのような地下運動をしたのです。」(『真の御父母様の生涯路程1』p.212-3)

 このように、お父様は学生時代に金九の「臨政」と連絡を取り合って、独立運動に加担していたのです。

 それからお父様の路程と独立運動の関係でもう一つ重要なことは、第一の奥様である崔先吉夫人の背景にもやはり独立運動があったということです。この場合にはキリスト教を背景とする独立運動で、日本による神社参拝の強要に屈することなく信仰を貫いた人々でした。
「先生がみ旨を知ってから、聖進のお母さんと結婚したのも、私の好きなようにしたのではありません。霊界から指示があってしたことです。霊界の指示のもとで会ったのです。その人の名前が崔先吉です。・・・彼女は、キリスト教信仰が篤くて、信仰的代表だというのです。そのような観点から見れば、全世界を代表すると同時に国家を代表して、男の洗礼ヨハネの立場でなく、女として洗礼ヨハネの使命を果たさなければならない立場にいた人が、聖進のお母さんでした。キリスト教の使命とは何かというと、新婦を提示して、新婦を天の前に連結させることですから、そのような観点から見る時、そのような意義があるというのです。その時、聖進のお母さんは、神社参拝の問題を中心として監獄暮らしまでした経歴をもっていました。そのような女性を探したのです。そのような乙女を探したのです。」(『真の御父母様の生涯路程1』p.256-7)

 このみ言葉から何が言えるかというと、再臨主は日本の神社参拝強要に屈服しない「獄中派」のキリスト教の基盤を必要としたということです。すなわち、再臨主の基盤となる人は、基本的に「愛国反日」の立場を植民地時代に貫いた人でなければならなかったという原則があったのです。ですから、最初の奥様が選ばれるときもそういう家系、背景の中から選んだということなのです。

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