韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ08


 アメリカにおける独立運動家として最初の仕事に失敗した李承晩は、学生になり、苦学の時代を過ごすようになります。1905年には、ジョージ・ワシントン大学の二学年に席を置き、論理学、英語、仏語、古代語学、哲学、天文学、米国史、西洋史、経済、社会学を学びました。まさにあらゆることを学んでいます。1907年にはジョージ・ワシントン大学を卒業し、ハーバード大学の大学院に登録し、憲法、植民地政策、国際法、外交政策などを学びました。これらは韓国独立に関係する、ありとあらゆる西洋の学問を学んでいると言えます。ジョージ・ワシントンとハーバードを出て、次はプリンストンですからものすごい学歴です。1910年にはプリンストン大学で国際法、米国史、欧州史、外交学、哲学史を学び、博士号を取得しました。李承晩は、韓国人としてアメリカの大学から最初の博士号を取得した人物となりました。35歳の時でした。

 李承晩は当時の韓国人としては、儒教の精神を学び、アメリカでこれだけ勉強して博士号を取ったわけですから、最高の知性を身に付けた人物だったと言えます。佐々木春隆の著書には、「若くして東洋文明をマスターした彼は、かくして西洋文明をも体得することができた。両文明に接することができた彼の思考力はこの二つの潮流の融合から発し、政治力と指導力の源泉となったわけである」(p.385)と書いてあります。

 さて、1910年に李承晩は博士号を取得したので、韓国に帰国します。なぜ帰国したかと言えば、メソジスト教会(監理教)が彼の学費を出してくれていて、そことの約束があったのです。実はメソジスト教会としては、彼がアメリカで勉強して韓国に帰ってきてからは、伝道活動をしてほしいと願っていたのです。それが経済支援の動機でもありました。しかし、李承晩が帰国した年は日韓併合条約が調印された年でもありました。帰国後、李承晩は京城YMCAから青年部に職を与えられ、クリスチャンとして伝道活動に従事しました。

 朝鮮総督府は、李承晩がアメリカで学んだ有能な人物であったこともあり、彼を政権側に取り込もうとして、多くの要職を準備して誘いました。日帝側の役人になりなさいということです。しかし、彼はすべてを断り続けたのです。これは李承晩が日本の軍門には下らないという意思表示をしたことを意味したので、彼は「要注意人物」として監視が付くようになりました。彼はそのくらい頑固だったのです。

 1912年に寺内朝鮮総督殺害陰謀の容疑で135人の著名なキリスト教指導者が下獄するという事件が起こります。これを「キリスト教陰謀事件」と言います。本当にクリスチャンたちが陰謀を抱いていたかどうかは不明ですが、日本政府によって多くのクリスチャンたちが逮捕されたのです。李承晩も当然、有力なキリスト教徒ということで容疑を受けたのですが、危機一髪で逮捕を逃れ、再び渡米しました。このときから朝鮮総督府は、韓国の教会を日本の教会の監督下に入れる政策を打ち出しました。これは反総督府の源泉はキリスト教にあると見て、それを牛耳るための政策でした。

 この日本政府の政策に対して、アメリカの宣教師によって建てられたメソジスト教会(監理教)がどうのような態度を取ったかということが問題となったのです。監理教北東アジア監督を務めていたハリスは、「日本の韓国統治の事実を認め、その現実になれることが宣教事業を続ける道であり、生きられる方便である」と説きました。ところがそれに李承晩は納得できませんでした。彼は「民族の自主性があっての宗教であり、国民あっての布教である」と言って譲らなかったのです。アメリカのミネアポリスで開かれた監理教の会議は、「宣教事業を保護し、永続させるため、日本に密に協力する」という方針を再確認して閉幕しました。しかし、李承晩にとって韓国の独立は神の意思だったわけですから、彼は監理教の方針をどうしても受け入れられませんでした。教会には神はいないという結論にならざるを得ず、これで李承晩が故国で宣教に従事する道が閉ざされたのです。

 1913年に李承晩はハワイに渡り、以後27年間ホノルルを本拠として光復運動を展開するようになります。1919年3月1日に三・一独立運動が起こると、上海で大韓民国臨時政府が樹立されました。これを受け、李承晩によってワシントンDCに欧米委員部設立されました。1920年に彼は大韓民国臨時政府大統領に推されます。このときに李承晩は上海にわたりますが、派閥抗争によって失脚してしまい、ハワイに戻りました。

 1921年にはワシントンで開催される太平洋会議に「大韓民国臨時政府大統領」の肩書で参加しようとしたましたが拒否されてししまいます。「臨政」は国際社会に認められていなかったので、代表権はないということで参加が認められなかったのです。それ以降、李承晩はアメリカでのロビー活動に専念することになりました。李承晩の基本的な考え方は、「外交によって韓国の独立を勝ち取る」というものでした。

 ロビー活動をしていた当時の李承晩の主張は以下のようなものでした。
「西欧列強が韓国の独立を承認し、かつ支持してこそ日本の大陸への侵入を阻止し、ひいては欧米との戦争を回避する最も確実な方法である。そしてそのことが、西欧自身の重要な国益である」
「日本はいずれアメリカと敵対する、その時には朝鮮を戦友とするべきだ」
「日本の侵略を容認して朝鮮を見殺しにしたアメリカも同罪である」

 最後の言葉は日本だけでなく、アメリカに対してもキレていますね。このようなことを語りながら、李承晩は強い調子でアメリカの支援を要請しましたが、アメリカの支援は得られませんでした。非常に孤独な戦いをずーっと続けたわけです。当時の日本は五大強国の一つだったわけですから、その下にある弱小民族の言うことを聞くようなアメリカ人はほとんどいなかったのです。

 李承晩は「やがて満州事変が起こる」と予言しています。1929年から1930年にかけてサンフランシスコ、シカゴ、ニューヨーク、ワシントンを周遊して、機会を作っては「日本は韓国で、満州への侵略準備を進めている」と警告しました。これは後に本当のことになったわけですから予言は当たったのですが、当時は耳を傾ける人はいなかったのです。

 1931年には満州事変が勃発します。翌年に上海事変があり、満州国が成立します。1933年には、満州事変を討議する国際連盟総会(ジュネーヴ)に李承晩が乗り込んでいき、日本の侵略を非難し、韓国の独立回復を訴えました。しかし、国際連盟は日本を非難したものの具体的な制裁を加えることはせず、最終的に日本が国際連盟を脱退したのは私たちが歴史で習った通りです。このとき、国際社会が日本に対するきちっとした制裁をすることを李承晩は期待したのですが、結果的には日本を野放しにしてしまったのです。

 このころに李承晩は結婚しますが、李承晩にとっては独立運動が行き詰っていた「暗黒の時代」に訪れた人生の春でありました。1934年に李承晩はオーストリアの鋼鉄商の娘フランチェスカ・ドナと結婚します。李承晩59歳、フランチェスカ34歳のときですから、ものすごい晩婚です。李承晩にとっては二度目の結婚でした。しかし二人の間には子供が出来なかったので、李承晩の血統は途絶えています。

 1930年代後半は、李承晩にとってはまさに「暗黒の時代」でした。李承晩の長年の支持者が「望みなき光復運動」に絶望して離れ始めました。そして「臨政」は次々に移転しながら内部抗争をくりかえし、米国の政治家や官僚たちは韓国人内部の対立や分裂を理由に韓国の独立や「臨政」を承認しませんでした。1941年に李承晩は『Japan inside out』(日本の内幕記)という本を著しました。この本の中で李承晩は日本の対米宣戦を予告しています。

 1941年には日米交渉が暗礁に乗り上げ、ABCD包囲網の構図が浮かび上がります。戦争を予測した李承晩は、6月6日に重慶臨時政府の信任状を同封した長文の書簡をルーズベルト大統領に送付し、米国の対日戦に韓国人が役割を果たせることを強調しました。「私たちはアメリカの役に立つんだから仲間にしろ」と売り込んだということです。

 1941年12月7日には真珠湾攻撃があり、日米が戦争を開始しました。いよいよアメリカと日本の戦争が始まったわけですから、アメリカは韓国のことに関して、日本に気を使う必要がなくなったわけです。そこで李承晩は韓国人を味方につけさせるための対米努力を続けます。その主張の内容は「臨政の承認」と「韓国人が対日戦に参加するための軍事援助の取り付け」でした。彼は連合軍に韓国を国として認めさせ、かつ実際に参戦することにより、韓国民の自由と独立を勝ち取ることを目標をしていたのです。

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