韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ05


韓国の独立運動と再臨摂理PPT05-1
韓国の独立運動と再臨摂理PPT05-2

 臨時政府の中で活躍したもう一人の在米運動家が安昌浩という人でありました。1919年6月、安昌浩が在米国民会の代表として上海に到着し、内務総長に着任し、政府と国内の連絡組織を整備し、機関紙『独立新聞』を発行して宣伝活動を展開しました。この「独立新聞」は、韓国語と中国語で発行され、国内と中国の両方で宣伝活動が行われました。彼は各国代表を歴訪して韓国独立の援助を要請する「請願運動」を展開しました。しかし、当時の日本は5大強国の一つであったので、各国代表は個人的には同情を示しましたが、日本を敵に回してまで、この弱小民族を助けようとする者はいませんでした。それが当時の現実であったのです。

 さてここで、当時の上海臨時政府が抱えていた問題を整理してみましょう。一つは財政問題です。当時の上海在住の韓国人は約700人です。そのうち200人が職業的独立運動家でした。したがって、上海は「臨政」の財政基盤たり得なかったのです。500人で200人を養い、かつ資金を提供することは不可能です。われわれで言えば、500人の教会員が200名の献身者を支えているようなものです。そこで韓国内、満州、米州からの献金に頼ったわけですが、間もなく財源を失い、それが運動の衰微と内紛につながっていきました。これが財政問題です。

 もう一つの問題が派閥抗争です。上海臨政に集まった人々は、あらゆる思想と抱負をもった運動家たちで、それぞれ一家を自負していた人たちであったので、派を立て、党をなして自己を主張しました。これによって臨政は分裂していくわけです。それでは上海臨政の中にどのような主義主張があったのでしょうか。それを整理すると以下のようになります。
①委任統治論:李承晩が唱えたもので、即時独立を叫んでも結果は出ないし、出来ても自立する能力がない。そこで国際連盟に一時の統治を委任し、その間に実力を涵養して独立を果たす。李承晩はこのようにリアリスティックな戦略を主張しました。
②文治派:安昌浩が唱えたもので、過激な行動を避け、心から日本の統治を嫌い独立を熱望している旨を列強とくに米国の同情に訴え、その後援を得て徐々に独立を果たす。
③武断派:李東輝派の主張で、日中、または日米、または日露を戦わせ、その機に独立を図る。特にロシアの過激派と結び、日本と開戦し、その戦争を機に韓国が独立するという考え方です。

 このような思想的戦いがあったわけですが、財政的にも、李承晩らはアメリカに頼ろうとし、李東輝らはソ連に頼ろうとしました。このとき既に李東輝は熱心な共産主義者でした。上海の臨政においては、各派が他の主張を認めあって止揚された統一方策を創造し、団結して事に当たろうとする努力の跡がみられません。これでは最初から分裂する運命にあったと言っても過言ではないでしょう。

 李承晩は公認の大統領に推戴されましたが、上海に赴任することなく、アメリカで財政固めに専念していました。彼は総額500万ドルの公債を発行して一挙に資金を集める案を立てました。公債は、韓国が独立した暁に高利で償還するという計画でした。一方、李東輝はボルシェヴィキから受けた激しい革命的情熱を朝鮮民族主義運動に吹き込むためにアジテーションと宣伝のための出版活動を要求しましたが、李承晩は穏健な手段、例えば民族自決権を諸国、国際機関に訴える外交的手段で日本に対抗することを主張しました。ここでも、武力によって独立を勝ち取るのか、外交によって勝ち取るのかで意見が分かれたわけです。

 武断派の李東輝にとっては、李承晩のやり方は臆病で卑屈なものに過ぎず、彼のことを 「第二の李完用」だと非難しました。この「李完用」というのは、乙巳保護条約の調印に賛成し、これを推進したので国賊と呼ばれた人です。既にレーニン政府と紐帯があった李東輝は、臨政国務総理の名で得たレーニンの援助金40万ルーブル(当時の日本円で40万円に相当)を1920年に入手すると、金立という部下に密かに持ち込ませ、それを資金として「高麗共産党」を組織して、「臨政」を度外視するようになったのです。つまり、「臨政」の名で借りた資金を政府には一円も入れず、勝手に私物化したわけです。そこで激怒した金九の刑務局員が金立を殺す事件が起こり、内紛が極に達しました。

 実は李東輝は、レーニン政府と次のような密約を交わしていました。
①韓国政府は共産主義を採択して宣伝活動を展開する
②ソビエト政府は韓国独立運動を支援する
③ソビエト政府は、シベリアにおける韓国軍の訓練及び集結を許容する。補給はソ連政府が担当する
④韓国軍は指定されたソ連軍司令官の指揮にしたがう

 この密約があったということは、李東輝は完全にレーニンの手下になっていたということを意味します。レーニンは、「東アジアを赤化するには、いつかは必ず日本と戦わなければならぬ。そのため韓国人を主体とする革命軍を編成して有事に備えなければならぬ」という遠大な構想を抱いていました。この構想は李東輝の歓迎するところであったので、二人は完全に結びついていたとうことです。

 このように「臨政」の内紛が激しくなる中で、李承晩は1920年12月に上海に密航し、正式に大統領に就任しました。彼が上海に行った目的は、派閥を調停して運動を促進するためでした。しかし、1921年1月には李承晩に反対する勢力が立ち上がり、李東輝は辞職して、レーニンからもらった資金で高麗共産党の創設に専念するようになったのです。一方、李承晩は現実的視点から「独立はアメリカの委任統治下においてのみ可能である」と主張しましたが、民族主義者が多かった「臨政」内部では、多くの者がこれに反発し、李承晩排斥運動が始まりました。

 これによって李承晩は完全に政府から浮き上がり、1920年12月8日に上海に入ったばかりでしたが、怒号と脅迫にいたたまれなくなって、1921年5月に逃げるように上海を去ったのです。こうして「臨政」は最大の実力者と資金源を失ってしまいました。このようにして李承晩を追い出した上海では、「臨政」の分裂、無政府状態、そして再建へと険しい道が続きました。特に、1923年の国民代表会議の決裂以降は、急速に「臨政」の勢力が弱まっていきます。そして1925年の李承晩大統領の弾劾以降、金九が指導者の地位に就きました。このように、初めの頃は李承晩が「臨政」の代表だったのですが、分裂と闘争の結果、金九が指導者になっていくのです。

 それでは金九が何をやったかといえば、テロをやったのです。すなわち、武力闘争によって独立を勝ち取ろうとしたのです。金九は命がけの青年80余名を集めて、「韓人愛国団」というテロ団を組織し、部下に命じて昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などを起こしました。これらのテロはすべて未遂に終わっています。

 ところがこのテロは金九を助けたのです。この事件により、中国人の対韓国人感情は一変し、中国人の支持を得て臨政の財政事情は一気に好転したというのです。中国も日本と戦っているので、韓国人が爆弾テロで日本と戦い始めれば、「敵の敵は味方」の論理によって、中国人から支持されるようになったのです。

 このようにテロによって得たものもありましたが、逆に失ったものもありました。これらの事件に衝撃を受けた上海の日本領事館警察は、「臨政」のテロとみて、フランス租界を中心に大捜査網を張りました。その捜査で安昌浩が逮捕され、京城に送られました。安昌浩という人は非常に有力な指導者で、生き残っていれば大統領になったかもしれない人物でしたが、獄中で病気が悪化して解放前に死んでしまいました。1938年のことでした。

 累が人に及ぶのを恐れた金九は、二つのテロ事件の首謀者は自分である旨をアメリカの通信社に通知しました。これで金九の名声は一朝にして世界に知れ渡り、一躍名士となって、中国要人の面会要請が相次ぎ、献金が流れ込んできました。これは良かったのですが、このテロが原因で上海を追われることになります。上海の日本領事館警察は、ついに金九の隠れ家を突き止めました。フランス租界当局は立ち退きを望み、金九は上海を脱出しました。テロ事件は「臨政」の存在と独立精神の健在を誇示し、財政難を救いましたが、運動の中心である上海を失う結果となったのです。そして、日本と中国の戦火が広がるに伴って、「臨政」も次々と移動するようになります。

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