書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』97


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第97回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 第93回から、第六章「四‐二 清平の修練会」に関する櫻井氏の記述に関連する内容として、「霊感商法」と「天地正教」と「清平役事」の関係について、相違点と共通点、連続性と非連続性の両面から4回にわたって考察を行ってきた。これは櫻井氏のテキストの逐語的な批判という本来の「書評」の目的からすれば「寄り道」や「逸脱」であったかも知れないが、寄り道ついでにもう一つの櫻井氏の批判の観点について掘り下げて考察してみたいと思う。その観点とは、清平修練会の特異な環境と一種の異常心理状態である。

 櫻井氏のこうした批判の観点は、以下のような記述の中に見いだすことができる。
「夜中までの説教や役事、粗食、シャワー・雑魚寝で長期間を過ごす清平修練会は体力的にきついものと思われる」(p.288)
「壇上には興奮した(霊に憑かれた)若手の信者が上がって踊りだしたり、精神的に不安定な人が泣き叫んだり、まさに悪霊が飛び交ってでもいるような情景が現出する。従軍慰安婦の霊がよく女性信者に憑いたという。」(p.297)
「夜中の二時三時まで数時間にわたって語り続け、信者はその言葉に感情を揺さぶられながら聞き続けるのだ」(p.298)
「筆者がインタビューを行った高齢の元信者は、2001年には4回、2002年にも4回の修練会に参加し、役事を受けている。彼女の思考の枠組みが、清平の修練会に参加する信者同様、霊界における先祖の苦しみ、悪霊の障り、役事による霊界への働きかけ、そのための献金、信仰生活という具合に固定化され、ここから逃れることは困難だったろうことが推測される。清平での生活は、滞在期間中を通して儀礼に参加しているのも同然であり、その儀礼においては悪霊や霊界の働きが、極めてビジュアルな形で統一教会によって現出され、それを信じ切る同信の信者数千名の集団的感応が元信者達にも及んでいた。統一教会における実践的な信仰とは、霊界への恐怖に動機づけられて、教団本部の指示に従うことである。」(p.300)

 櫻井氏がこうした批判の中で言いたいことは、清平の修練会は統一教会が人工的に作り出した特殊な環境であり、それは信者の中に一種の異常心理状態を作り出すことによって信仰を強化したり維持したりする装置なのだということだ。こうした主張は、統一教会を元信者らが訴えた民事訴訟の中でもなされたことがある。その主張においては、清平の修練会は「人為的に『霊体験』を参加者に引き起こすためのものであり、そのことによって、参加者の統一協会的人格をあと戻りが不可能なものに深化させるためのものである」とか、「変性意識状態(ASC)を意図的に作り出し、禅に言う『魔境』=一種の幻覚体験を意図的に作り出すための装置なのである」といったことが述べられ、心理学の権威を借りて清平の修練会の異常性を立証しようという試みがなされた。こうした「えせ心理学」の主張が裁判において功を奏することはなかったが、一種特殊な宗教的修行の環境やそこで起こる現象に対して違和感や嫌悪感を感じる人々にとっては、こうした主張は一定の説得力を持つ可能性がある。そこでこれからしばらく、宗教的修行と「異常心理」の問題について掘り下げて考えてみたい。

 本題である宗教的修行と「異常心理」の問題に入る前に、大前提としての清平修練会の環境について、客観的な事実を押さえておきたい。そもそも宗教的修行というものは、それが自発的に行われるものである限り、いかに肉体的に過酷なものであっても非難されるいわれはない。しかし、これは私自身も参加したことがあるので自信を持って言えるのだが、清平の修練会は客観的に見て、それほど肉体的に過酷なものであるとは言えない。

 裁判において過酷さの根拠としてよく主張されるのが「睡眠時間の短さ」だが、櫻井氏が掲載している修練会のスケジュール表でも、睡眠時間は6時間が取られている。これは裁判に提出された証拠資料でも同様である。はたして一日6時間という睡眠時間はそれほど短いと言えるのであろうか。NHKが2015年に行った国民生活時間調査によると、日本人の平均睡眠時間は平日で7時間15分であり、年代別では30代男性が6時間59分、40代男性が6時間50分、40代女性が6時間41分、50代女性が6時間31分と、働き盛りの男性と中年の女性は特に睡眠時間が短いという結果が得られた。これらの平均睡眠時間と6時間の間にはそれほど大きな開きはない。

 よく、理想の睡眠時間として「1日8時間」という数字があげられるが、これは医学的根拠があるわけではなく、多くの人の睡眠時間が6~9時間の間という統計から出された平均的な睡眠時間であり、あくまでも一つの目安にすぎない。睡眠時間にはかなりの個人差があり、6時間よりもっと少ない3~4時間の睡眠で十分な人もいれば、9時間以上の睡眠が必要な人もいる。

 これらのデータから、清平で一日6時間の睡眠を40日程度続けることは、とりたてて異常なこととは言えないことが分かる。睡眠時間は個人差が大きいものであるから、6時間睡眠でまったく平気な人もいれば、寝不足と感じる人もいるであろう。清平の修練会は、起床と就寝の時間こそ決まっているものの、毎日昼食後に90分間の「自我省察」と呼ばれる自由時間があり、週に一度は午後の時間がまるまる「自我省察」の時間に当てられている。眠気を感じる者は、こうした時間を利用して仮眠を取ることができるので、睡眠不足を解消することができるのである。

 また、「役事」と呼ばれる全身を手で叩く行為も、外形的に見れば軽い有酸素運動のようなものである。また、スケジュール中の「聖地祈祷」というのは、「祝福の木」と呼ばれる木が植えられている山の頂上まで、片道15分~20分程度の軽い登山をした後にお祈りをする行為である。美しい山の景色を見ながらの登山は、気分を爽快にしてくれる。加えて、清平修練会の食事は野菜中心の粗食であり、これらの組み合わせはメタボリック症候群に代表される生活習慣病を抱えた現代人にとっては、極めて健康的な生活である。実際に、清平の40日修練会に参加して減量に成功したとか、糖尿病が治ったという信者も多数存在する。このことは、統一教会を相手取って裁判を起こした元信者の陳述書にさえその根拠を発見することができる。こうした陳述書には、「何故、清平に行くと信者は元気になるのか」という項目があり、「実際に景色がとても綺麗だ」とした上で、「(または、科学的にも体を叩いて刺激を加えることは、血流を良くする効果等が多少あるのかもしれませんが)体が軽くなったように感じるようです」と述べ、最終的には「心も身体もリフレッシュして日本に戻ってくることになるのだと思います」と述べている。

 体と叩くといっても、実際には血行が良くなる程度のマッサージのような行為であり、激しい痛みを伴うものではない。これらの描写から浮かび上がってくる清平修練会の特徴は、人工的に恐怖体験を作り出すようなグロテスクなものではなく、美しい自然の中で健康的な生活を送りながら行われる、非常にすがすがしいものであるということが分かる。清平修練会に繰り返し多くの信者たちが参加する理由の一つは、こうした「リフレッシュ効果」にもあるのであり、これは定期的に禅寺に通って座禅を組み、心の垢を落とそうとする人々の動機と似通ったものであるといえるだろう。このような清平の修練会のあり方が、全体として過酷なものでも、社会的相当性を欠く異常なものでもないことは明らかである。

 ところが、櫻井氏は自分が実際に参与観察したわけではないこの「役事」を、想像力をたくましくして、異常な強さで叩くものであるかのように描こうとしている。そこで利用されたのが、宗教的儀礼として信者と叩いた結果、死に至らしめてしまったという「例外的な事件」に関する情報である。櫻井氏が著書の中であげている以下のケースは、清平の修練会とはまったく関係のない別の宗教の事例である。
「1995年、福島県須賀川市の女性祈祷師宅で信者6名の死体が発見され、信者の筋肉を壊死させるほど太鼓のバチで信者を殴打し続けた事件があった。事件の首謀者とされる祈祷師には2008年最高裁で死刑が確定した。この祈祷師に命じられて信者を叩き続けた信者もまた被害者というべきであり、祈祷中の異常な状況の中で悟性が働かなくなったものと思われる。」(p.300)

 櫻井氏は一応「清平の祈祷室ではここまでは至らなかった」と断ってはいるものの、まったく無関係の極端な事例をわざわざ挿入するあたりは、清平の修練会の実態をできるかぎり異常でグロテスクに描写しようという「印象操作」の意図があると思われる。

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