書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』05


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第五回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第1章 統一教会研究の方法」のつづき
 櫻井氏は本章の中で「本研究が最終的に問いたいのは、程度問題であるにせよ、統一教会における信仰は自律的か否かということである」(p.6)と述べている。これは基本的にアイリーン・バーカー博士の著書『ムーニーの成り立ち』と同じ問題意識である。しかし、バーカー博士が「強制」と「選択」の間に存在するすべての可能性に対して開かれた姿勢を持ちながら、一つ一つの可能性をデータに基づいて検証した上で最終的な結論を出しているのに対して、櫻井氏の場合は早くも方法論の解説の段階で、結論を先取りするかのように、統一教会信者の自律性に関してかなり一方的な断定を繰り返している。例えば次のような調子だ。

「統一教会信者は自主的・自律的な信仰なのだと対外的アピールする。しかし、彼らが班レベルであっても長の権限に異議を申し立てることは難しい。幹部クラスを除き、献身者(専従者)の人事に当事者の意向はほとんど反映されない。合同結婚式において決められた配偶者を拒否する自由はほとんどないといってよい。」(p.6)

 これらはすべて私の経験に反する。私はまだ大学生だったころから班長に逆らっていたし、下の班員から異議を申し立てられることはいくらでもあった。自由なディスカッションや言論の自由が組織の中で抑圧されていると感じたことはなく、結構自由にものを言ってきた。それは現在も同じである。だからといって上司に疎まれたことはなく、結構信頼されてきた。私は統一教会信者の運営する組織で専従的に働いていた時期があったが、その時の責任者に直訴して、責任者の意に反して統一神学校(UTS)への留学を決定した。それを阻止する権限は責任者にはなかった。そしてその後の進路に関しても、基本的に自分の意思で決定してきた。もちろん、自分の意思がすべて通るわけではない。しかし、それはどんな組織でも同じことだ。すべては交渉によって決定する。私は合同結婚式において決められた配偶者を拒否しなかったが、それはできなかったからではなく、拒否したいと思わなかったからに過ぎない。そして、私の周囲には拒否した人は多数存在している。最近はますます配偶者決定において本人の意思が尊重されるようになってきている。

 櫻井氏はこうも言っている。「統一教会信者のなすことで教説や信仰によって意義づけされない行為はないし、そのような意義なしにはやれない程度に違法性が高く、精神的にもきつい資金集めや伝道を宗教行為としてなしているのである。」(p.6)

 これもかなり極端な表現である。宗教団体の奨励する宗教行為が教説や信仰によって意義づけされているのは当然であり、それはなにも統一教会に限ったことではない。しかし、信者のなすことのすべてが教説や信仰によって意義づけされているというのは明らかに言い過ぎである。統一教会の信者は、呼吸も、食事も、排泄も、睡眠も、道を歩くことも、テレビや映画を見ることも、趣味の音楽を聴くことも、すべて教説や信仰に基いて行っているとでも言いたいのであろうか? これは実際に統一教会信者の信仰生活を身近に見たことがないからこそ言えるファンタジーであって、恐らくは「青春を返せ」裁判の原告である元信者の陳述書や証言の中で作り上げられた、歪められた人間像に過ぎない。当たり前のことだが、統一教会信者は生身の人間であり、普通の人間が感じるありとあらゆる感情を感じながら生きているし、教説や信仰だけに従って生きているわけではない。

 こうした、教説や信仰のみによって行動するある種「ロボット」のような統一教会員像は、「洗脳」や「マインド・コントロール」の主唱者たちが繰り返し描いてきたものであった。しかし、実際に現役の統一教会信者と生活を共にすれば、まともな感受性を持った人であれば、彼らが普通の人間とほんとど変わらないことに気付くであろう。そして彼らの体験は、外界から想像されているほどに悲壮なものではないことにも気づくはずである。実際に統一脅威のセンターに寝泊まりしてメンバーを観察し、多くの現役メンバーにインタビューを行ったバーカー博士は以下のように述べている。

「運動内でしばらく時間を過ごすとムーニーたちは実際に何らかの形で変化するが、それはときおり想定されているほど大きな変化ではない。たまに『燃え尽きるケース』もあるが、それは特定の任務(通常はファンドレージング)に長期間を費やした者が挫折するときである。しかし、ムーニーが心を持たないロボットのようになっているというのは、彼らと同世代の者たちが毎朝8時23分に市街地に出かけていくのと同じようなものだ。彼らは情的にも知的にもいろいろな形で成長していく。そして彼らはある一連の機会や経験を逃すかもしれないが、通常は他の多くの経験をする機会があり、それはしばしば非常に広範で挑戦的なものである。しかし、彼らはまた広範囲な問題、幻滅、失望に直面するようになるであろう。」(第10章・結論」より)

「しかしながら、『ムーニーは全知全能の主人によって現在の任務に送られる前に毎朝ネジを巻かれる、考える力も感受性もないロボットである』という理論を既に信奉している者にとっては、このことは観察することも、あるいは理解し始めることさえ期待できない現象である。」(第7章 環境支配、欺瞞、「愛の爆撃」より)

 バーカー博士の見た統一教会員の実像は、櫻井氏の目には見えていないようだ。くり返し言うが、その最大の原因は櫻井氏が「生身の統一教会員」をきちんと観察していないからである。これが彼の研究の最大の欠陥である。

 櫻井氏はまた、「統一教会において宗教者と信者という区分は適切ではない。全ての信者が献身し、祝福を受けることが期待されている。このような献身者達の組織が、既に述べた統一教会傘下のグループ組織になるわけだが、これらの組織に属する献身者達を幹部・エリート信者とするならば、祝福後に教会関連の事業組織から離れて生計を立てる教会員達がいる。彼らは祝福を受け、教義上救済に与ったもの達だから、彼らの下に救済への過程にある青年信者、既婚者であるために原罪のない子を生めない壮婦と呼ばれる中高年の信者がいる」(p.7)と述べており、あたかも祝福家庭が青年信者や壮年壮婦に対してエリート階級であるかのように説明している。

 この記述もほとんど現実を反映していない。統一教会には「教区長」「教会長」といったタイトルを持つ「牧会者」と呼ばれる指導者がおり、彼らは教会から給料をもらって宗教活動をしているという意味でプロの宗教者であると同時に、信者を指導する実質的なリーダーである。このように、統一教会には宗教者と信者の区別が明確に存在している。ただ、教会活動を熱心に行う信者が多いため、牧会者がすべてをやって信者はお客さんという関係ではないだけである。

 また、全ての信者が献身することが期待されているというのは誤りである。社会で働きながら信仰生活をする青年信者は「勤労青年」と呼ばれ、昔から存在していた。すべての信者が祝福を受けることが期待されているというのは、キリスト教会においてすべての信者が洗礼を受け、聖餐式に参加することが期待されているのと同じであり、組織のあり方とはまったく関係がない。また、祝福を受ける前の青年信者と祝福家庭の間には、先輩と後輩という関係があるだけであって、上下関係や階級的差別は存在しない。

 み言葉を聞いたときに既に既婚者であった信者は「壮年・壮婦」と呼ばれているが、櫻井氏が主張する、彼らが「原罪のない子を生めない」という理由で祝福家庭の下の階級に位置付けられているというのは間違いである。既婚者であっても、既成祝福を受けることによって祝福家庭になることは可能であるし、祝福を受けた後には原罪のない子供を生むことができる。その祝福の価値は、未婚者の受ける祝福と何ら変わりがない。

 統一教会はもともと「親泣かせ原理運動」と呼ばれたほど、大学生などの若者たちを中心とする宗教であった。そして初期において合同結婚式に参加したのが、主としてこうした若い信者たちだったことは事実である。しかし、「壮年・壮婦」の存在は、特に1980年以降の統一教会において非常に重要な存在となってきた。彼らの持つ社会的基盤や大人としての見識は、統一教会の発展にとって大きなプラスであるとして認識されており、彼らも教会の重要な構成員として尊重されている。決して「原罪のない子を生めない」存在として下の階級に位置付けられているなどということはないし、実際に彼らはただ命令を聞くだけの存在ではなく、主体的・創造的に活動する存在である。櫻井氏のこうした歪んだ統一教会員の描写は、何よりもまず、彼の情報の出所に起因することは明らかである。

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