書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』88


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第88回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」において、統一教会の信者が信仰を獲得していく過程として、「16 神体験と限界突破」(p.262-266)「17 信仰が生まれるとき」(p.262-274)について論じている。ここで櫻井氏は、統一教会の信者たちが販売活動における否定の体験を、悲しみの神の心情を追体験しているととらえていることを指摘する。「この世のものを神に返す(万物復帰)ために自分が必死で走っているけれども、多くの人はわかってくれない。神様の心情もこのようなものだったんだ」(p.263)というような「気づき」の体験である。これ自体は事実であるが、その直後に出てくる櫻井氏の解説はいささか常軌を逸したものであり、統一教会における信仰生活のリアリティーを反映しているとはとても言えない。
「しかし、統一教会の献身者はそのような追体験程度では甘すぎるとして叱責されるだろう。神が求めるのは実績だけで、実績を出せないものには天は居場所を与えないとはっきり言うだろう。」(p.263)

 櫻井氏はこうした記述の根拠として、「完全投入の誓い」という文章を挙げている。これをすべて引用するのは長いので控えるが、知りたい方は以下のサイトを参照していただきたい:https://blogs.yahoo.co.jp/sadatsugu/58565940.html

 「青春を返せ」裁判の原告である元信者たちが、この「完全投入」のみ言葉を出発式などの場において唱和していたというのは事実であろう。私も原理研究会にいた学生時代には同じようなことをやった記憶がある。一番初めにこれを聞いたのは、1983年夏の新人研修会の時であったと記憶している。これは確かに激しいみ言葉であるけれども、出発の時に決意を促すためのスローガンやセレモニーのように用いられていたのであって、「み旨のため死んだ覚悟でとび込め!」と叫んだとしても、実際に死ぬまでやるわけではない。これはスポーツや営業の世界で語られる勇ましいスローガンと似たようなものであり、それが宗教的な言語で表現されているだけである。櫻井氏は現役信者の活動を参与観察したり、インタビューをしたことがないので、このテキストだけを根拠にして、「神が求めるのは実績だけ」であるとか、「実績を出せないものに天は居場所を与えない」などというリアリティーのない描写ができるのであろう。

 こうした宗教的な言語と信徒の現実の信仰生活の間にギャップがあることは、宗教学の世界では常識であり、テキストだけを根拠に実際にそのような生活が行われているという櫻井氏の主張はあまりに軽率に過ぎる。こうした間違いは、統一教会のみならず、宗教全般に生じるものである。

 たとえば、旧約聖書の中には動物の供え物を捧げる方法が事細かに記載されているので、いまでも敬虔なユダヤ教徒はこれを厳格に守って動物を供え物として捧げていると思う人もいるかもしれないが、都市に暮らす現代のユダヤ教徒にそんなことができるわけがない。私がアメリカの神学校時代にユダヤ教のシナゴーグを訪問したときに、そこのラビが説明してくれた。現代のユダヤ教徒は動物を供え物にすることはなく、それは「祈り」によって代替されているとのことである。

 また、コーランの9章5節を引用して、イスラム教では多神教徒を殺すことが奨励されていると主張するのも同じような間違いである。確かにそこには、「聖月が過ぎたならば、多神教徒を見付け次第殺し、またはこれを捕虜にし、拘禁し、また凡ての計略(を準備して)これを待ち伏せよ。だがかれらが悔悟して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をするならば、かれらのために道を開け。本当にアッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。」と書いてある。これを文字通り実行すれば、イスラム教に改宗することを拒む異教徒は殺さなければならないはずだが、これはある時代の特定の状況に対して語られた言葉であり、この聖句を根拠に殺人を繰り返すテロリストたちの解釈は誤りであると大部分のイスラム教徒たちは考えているのである。このように、宗教的テキストだけを根拠にその信仰の実態を判断することはできないのである。

 そもそも、統一教会信者の信仰生活において「神が求めるのは実績だけ」であるとか、「実績を出せないものに天は居場所を与えない」などということが堂々と明言されることはあり得ず、もしあったとしたらそれは個人における信仰の歪みや逸脱でしかありえない。信仰生活における実績とは、常に「内的実績」と「外的実績」として捉えられ、それらは性相と形状、主体と対象の関係にあるため、内的実績の方がより重要であると教えるのが正統的な信仰指導であるからだ。

 「外的実績」とは、例えば何名伝道したとか、マイクロの一日の売り上げがいくらであったかというような目に見える形での実績である。一方で「内的実績」というのは、そうした活動を通じて神の心情を復帰することである。「心情を復帰する」というのは統一教会の独特な言い回しであり、特殊な日本語であるが、これは神が感じた心情の世界を追体験することにより、自分のものとして感じること、それを通して神の心情に対する理解を深めることを意味する。私が信仰指導を受けていた若いころは、いくら外的な実績を出したとしても、それを通して内的な実績を積み上げていかなければ、やがて傲慢になって自分の力でやるようになったり、霊的に枯渇するようになるから、外的な実績に振り回されることなく、常に内的な実績に集中するように指導されたものである。

 櫻井氏が掲載している元信者の「マイクロ隊の活動記録」(p.267-271)の中にも、外的な実績に相当する日々の販売実績額と共に、「隊のスローガン」「個人のスローガン」「就寝前の所感」などが記載されている。その内容は極めて宗教的なものであり、マイクロ隊で歩んでいる信者たちが単に外的実績だけを追求していたのではなく、その中に宗教的な「気づき」や「悟り」の体験を求めていたことがよく分かる。その中の代表的な言葉を拾ってみれば、以下のようになる。
「私はみ旨を愛します」「神の子として神の悲しみを担当しよう」「主と共に苦労できる時を」「天の祝福を周辺に集結させよう」「神様の御父母様を代身し、天運を動かそう」「真の愛を中心として苦労しよう。犠牲になろう」「まず、神の立場を考えよう」「真の愛を中心として神様とご父母様に侍ろう」「真の愛を中心として判断し、行動しよう」「神様に委ねて歩む」「神様の心情をたずねてみます」「真を尽くす」「サタン分別をする歩みをします」「神様を慰める歩みをします」「神様を慕い求めて歩みます」「苦労を感謝して歩みます」「低いからといって悲しんじゃいけない。高いからといって喜んじゃいけないと言われた」「実績をあげる人を自分のごとく喜べたら神様は与えざるを得ない。心情をチェック」「神様の悲しみを知った。二度と離れませんと誓った。少しでも負債を清算する歩み」「愛したいのに否定される忍耐の神様」「否定されても愛していく神様」「愛する実践。マイクロは自分を育ててくれている」

 マイクロで歩んでいたこの元信者は日々このようなことを考えながら歩んでいたのである。これは単なる経済活動というよりは、宗教的な修行と考えた方が良いであろう。

 さて、櫻井氏はマイクロにおける歩みの記録や反省文などを掲載した上で、統一教会信者の信仰の特徴について以下の3点を指摘している。
[#太字]「(1)マゾヒスティックな信仰である。」[#太字終わり](p.273)櫻井氏のこの指摘は誤りである。一般的にマゾヒズムとは、「肉体的精神的苦痛を与えられたり、羞恥心や屈辱感を誘導されることによって性的快感を味わったり、そのような状況に自分が立たされることを想像することで性的興奮を得る性的嗜好の一つのタイプである」(Wikipediaより)とされる。マイクロで歩んでいた統一教会の信者たちは、性的快感や性的興奮を得るためにやっていたわけではなく、むしろマイクロはそのような感情とは無縁の活動であった。もし櫻井氏が罪責観を常に感じながら生活することを「マゾヒズム」と呼ぶのであれば、敬虔なクリスチャンの信仰生活はまさしくそのようなものであろう。自分の罪深さや不足を深く自覚して悔い改めることはキリスト教信仰の基本である。それを櫻井氏は「マゾヒスティックな信仰」として批判するのであろうか。
[#太字]「(2)体験主義的な信仰である。」[#太字終わり](p.273)およそ体験を伴わない信仰というものはあり得ないのであるから、この分析自体にあまり意味はない。櫻井氏はビデオセンターから新トレまでの過程に関しては、ひたすら教説の学習を繰り返した後で初めて実践内容を教えられると批判してきたが、それがいよいよ実践の段階に入ると「体験主義的だ」と批判する。これは全体を通してみれば、座学で学んだことを体験しているに過ぎないのであって、極めて一般的な学習法であると言える。
[#太字]「(3)途中で離脱するものに計り知れない後ろめたさを残す信仰である。」([#太字終わり]p.274)もし離脱者が後ろめたさを感じるとすれば、それはまだ信じているからに他ならない。もはや信じられなくなった者は後ろめたさを感じないであろう。離教者の心理に関しては、アイリーン・バーカーの「ムーニーの成り立ち」で実証的な研究がなされている。彼女によれば、離教者の中には教会に対して恨みや敵意を抱いている者も存在するが、離教者の大多数が依然として、運動が自分たちの人生にもたらした変化を肯定的に見ていることを発見したと述べている。離れた後も教会での経験を自分なりに整理して、人生における成長のための一つのプロセスであったとみなしている者も多いのである。こうした事実は、裁判のテキストに頼り、実証的な調査を行っていない櫻井氏にはキャッチできなかったのであろう。

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