実況:キリスト教講座46


自然神学と啓示神学(9)

 自然神学はルネッサンスと啓蒙思想を経てヨーロッパのキリスト教の主流となり、19世紀に全盛期を迎えました。これは科学と宗教は基本的に矛盾しないという立場をとり、人間の理性を高く評価する楽観的な神学であると言えます。この自然神学は、いまでもカトリックと自由主義のプロテスタントにおいて支持されています。その特徴として、人間の罪深さや悪魔性については強調しないので、危機の時代においては無力な神学であると批判されることもあります。

 自然神学というのは、「人間の理性万歳!」という神学であります。ですから人間は理性的な存在であり、合理的に考えれば人間はどんどん良くなっていくという楽観的な前提があります。人間は右肩上がりに成長し、進歩していくんだという「進歩の思想」です。ところが、19世紀までずーっと発展してきたこの自然神学、すなわち理性を賛美した神学が、突如として挫折する大きな事件が起きます。それが何かというと、実は第一次世界大戦です。第一次世界大戦は、人間の科学技術が大きく発展した時代に起こったものでした。人間の理性を発達させ、科学を発達させた結果として何が起こったかというと、その科学力で大量の人殺しをしたということでした。それをもって、「理性がもたらす結果というものは、こんなものなのか! 理性だけでは人間は幸福になれない。人間の心の中には悪魔が住んでいる!」ということになって、理性礼賛の時代に終焉が来るわけです。すなわち、第一次世界大戦によって人間が持っている罪深さや悪魔性がヨーロッパの人々の前に絶望的な形で示されることによって、合理的に発展しさえすれば理想世界が来るというような甘い考えが吹っ飛んでしまったわけです。そして、あらためて人間は罪深い存在だということが認識されるようになりました。そこに登場したのがカール・バルトという人であったわけです。

 バルトはもともと自然神学を支持する自由主義神学の教育を受けました。この神学は、神の内在性を強調し、歴史に働く神を強調したので、ナショナリズムと結び付き易かったのです。1914年にドイツ皇帝ウィルヘルム・カイゼルが戦争を推進する政策を掲げたとき、バルトの周囲にいた当時の知識階級、すなわち哲学者や神学者たちはこれに同調しました。すなわち、彼らは「ドイツの拡大は神の意思である」と解釈したのです。このとき、バルトは簡単に戦争に同調してしまう自由主義の薄っぺらさを見抜きました。その結果が第一次世界大戦の悲惨な敗戦であったのです。

 しかし、ドイツは1930年にも同じ過ちを繰り返します。ヒトラーが権力を握ると、彼らはキリスト教をナチズムのいいなりにしてしまいました。ヒトラーのナチズムにキリスト教会は同調して、神は歴史を通し、ナチを通して働いているととらえたのです。しかし、バルトはヒトラーによるユダヤ人迫害のなかに、神に対する宣戦布告を読みとって、それがいつの日か教会の迫害にまで及ぶと予言しました。バルトはナチ政府を批判し、そのためにドイツを追放されました。こうしたキリスト教の過ちがすべて自然神学と結びついているとして、バルトは自然神学を否定し、徹底した啓示神学の立場を主張しました。人間は罪深いので、神の啓示によらなければ真理を知ることはできないんだと、徹底的に主張したのです。

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 2011年に出た本に、佐藤優という人が書いた『はじめての宗教論 左巻』(NHK出版)があります。副題が「ナショナリズムと神学」となっていますが、統一教会でこの本が注目された理由は、彼が一部のキリスト教徒による統一教会への攻撃を批判しており、拉致監禁による強制説得の問題にも触れているためです。33~34ページでそのことに触れています。この人は非常に有名な人で、同志社大学大学院の神学研究科を出て外務省にも勤めていた人です。そういう人が拉致監禁問題に触れてくれたということで、教会でとても注目した本でありました。しかし、だいたいの食口はその場所(33~34ページ)しか読まないんですね。(笑)他の部分は読まないんです。私は神学を学んでおりますので、買って全部読みました。読んで分かったことは、この本はなかなか面白い本で、現代神学の非常に重要な問題をまじめに扱っている本だということでした。

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 彼はこの本の中で主に二人の神学者を扱っています。一人がシュライエルマッハーという人です。フリードリッヒ・シュライエルマッハー(1768-1834)は、自由主義神学(リベラル派)の祖とされ、「近代神学の父」とも評される人です。人間の理性を重視し、神の「内在性」を強調した神学者の代表と言えます。もう一人がカール・バルト(1886-1968)ですが、この二人は肖像が絵と写真であることからも分かるように、生きた時代がだいぶ違います。百年以上違っていますが、バルトは新正統主義の神学者として、自由主義神学を厳しく批判した人です。ナチスの時代に生きた神学者で、彼の神学は「危機神学」とも呼ばれています。彼は、人間の理性に対して、神の啓示を重視し、神の「超越性」を強調しました。ですから佐藤優はこの二人の神学者を対比させて描写することを通して、まさに自由主義神学と、新正統主義に代表される福音主義神学、神の啓示の神学の立場を浮き彫りにしようとしたわけです。つまり、私がこの講義の中で言おうとしていることを、彼は本の中で表現しているということになります。現代神学の二大潮流をよく理解して、面白く本を書いているということです。

 一般啓示と自然神学の利点については、以下のように整理することができます。第一に、この考え方は神の真理は聖書のみに限定されないととらえるので、聖書を信じない人にも神を説くことができるという利点があります。つまり、「聖書の啓示にしか真理はない!」と限定してしまうと、聖書が受け入れられない人はキリスト教と相対できなくなってしまうわけです。特に日本人はそうですね。「聖書に神の真理がある。これを読めば真理が分かる」というように、あまりにも真理を聖書に限定してしまうと、聖書を信じられない人は神様を受け入れられなくなってしまうわけです。逆に、神の啓示を聖書に限定しなければ、いろんな方法でキリスト教を広めることができるわけです。

 次に、聖書以外からも神についての知識を得ることができると考えるので、聖書には表現されていない自然の美や科学的知識を通して神を知る道を閉ざさないという利点があります。神に出会う道はなにも聖書だけじゃないんだよ、という考え方に立つことができるわけです。実はお父様のなさっていることを見ると、この一般啓示とか自然神学に通じる面が結構多いんですね。お父様の自叙伝を見ると、神様と出会った話は、幼い頃の自然との出会いの話に満ち満ちていて、お父様は本当に自然を通して神を感じたという話をたくさんされるわけです。

 お父様は科学者たちに対しては、自分の専門領域をとことん追求して道を究めれば、その研究を通じて神様に出会うことができるとおっしゃいます。つまり、聖書を読まなければ神様は分からないと言うんじゃなくて、科学者は宇宙の真理を探究するために一生懸命投入すれば、最先端の科学的発見を通して神様が証しされ、神様を発見することができるという発想をお父様は持っていらっしゃるのです。芸術家は芸術活動を通して、究極の美を追求するときに、その道で神様と出会うことができるということです。これが一般啓示という考え方です。要するに、聖書という書物を読まなければ神様が分からないというのは、狭い考えだということです。神様は普遍的な存在なので、人間のさまざまな活動を通して出会うことができるはずだということです。何事も極めれば神様と出会えるという考え方は、「一般啓示」という考え方に通じるものがあります。

 それからもう一つは、キリスト教以外の諸宗教との対話の道を開くという利点があります。「聖書のみ」ということを強調しませんので、他宗教にも神の啓示があると認めることができます。

 これらが一般啓示と自然神学の利点ということになりますが、利点と同時に欠点もあります。欠点は何かというと、一般啓示と自然神学というのはどちらかというと創造原理的な世界しかない神学であります。合理的で、神様が創った本来の世界だけを見つめているということは、一言でいえばとっても能天気な神学ということです。人間の罪深さとか、人間は悪を行うんだとか、サタンがいて誘惑するんだ、というようなことは説かないですね。その側面が弱いということです。

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