国連を舞台とする米中の動向と日本03


 「国連を舞台とする米中の動向と日本」と題するシリーズの第3回目です。私が事務総長を務めるUPFは、国連経済社会理事会の総合協議資格を持つNGOであるため、国連の動向に対しては関心を持たざるを得ません。最近の国連において最も懸念すべき問題は、中国の影響力の増大と米国の国連離れです。このシリーズでは、国連の成り立ちから始まって、米中が国連を舞台にどのような抗争を繰り広げているのかを解説します。その中で日本の立ち位置も考えてみたいと思います。

 前回は、第二次世界大戦後に中国国内で起きた内戦により、毛沢東率いる中国共産党と蒋介石率いる政府軍が戦い、敗れた蒋介石が海を渡って台湾に逃げ、台湾に「中華民国」の政府を移したところまで説明しました。一方で大陸では中国共産党が1949年に「中華人民共和国」を建国することにより、「2つの中国」が生じます。現在、中国は「台湾は国ではない。国ではないのに国であると勝手に言っているだけだ」と主張しており、これを「One China Policy」と言います。しかし、もともとは国連安保理の常任理事国は蒋介石の中華民国であったので、この「2つの中国」が国連で大問題になるわけです。

 これが国連における「中国の代表権問題」と呼ばれるものです。1949年に中華人民共和国が成立すると国連の代表権が問題となり始めます。安全保障理事会の常任理事国に台湾のみを支配する中華民国政府がついているという事態はおかしいじゃないかと、ソ連が主張し始めるわけです。ソ連は中国代表権を直ちに新政権に変更すべきであると安保理で強硬に主張しました。しかしアメリカは中国共産党を認めたくないので、強硬に台湾支持を続けます。これに対してソ連は安保理をボイコットするという戦術をとったわけですが、その間に朝鮮戦争が勃発します。1953年に休戦協定が結ばれましたが、停戦後もソ連は代表権変更を主張し続けるわけです。

 このように1950年代に東西冷戦が深刻化する中で、中国代表権問題は国連内部における激しい対立点となりました。1956年には平和共存の状況となって、日本その他の諸国がどんどん国連に加盟します。この代表権の変更は総会で議論されることになり、アメリカは日本などと結んで、なんとか台湾追放を阻止しようとしました。しかし、1960年代に新たに独立したアフリカ諸国などの加盟により、アメリカと日本は国連の中で少数派に転落し、ついに1971年の総会で代表権の変更と台湾の追放が決定されることになったのです。

 これを「アルバニア決議」といいます。なぜアルバニア決議かというと、アルバニアが20カ国を超える国々とともに共同議案国として決議を提案したからです。これは表向きはアルバニアが提案したことになっていますが、実際には周恩来が書いたと言われています。なぜアルバニアなのでしょうか? 現在はそうではないのですが、当時のアルバニアは1967年に無神論国家を宣言した共産主義国家でした。これが総会で決議されることになると、総会では中華民国もアメリカも拒否権を使えませんから、1971年10月25日に国連総会で賛成多数で採択されてしまいました。これにより、中華人民共和国が国連に加盟すると同時に、安保理の常任理事国ともなって、世界の大国の一つとして位置づけられることとなったのです。

 安保理の常任理事国については、国連憲章の「第5章 安全保障理事会」の第23条で規定されています。この国連憲章をウェブサイトで見てみると、いまでもこう書いてあります。「安全保障理事会は、15の国際連合加盟国で構成する。中華民国、フランス、ソビエト社会主義共和国連邦、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国は安全保障理事会の常任理事国となる。」この部分は今でも改定されていないのです。しかし解釈によって、この「中華民国」の部分は「中華人民共和国」が継承したことになっており、ソビエト連邦の部分はロシアが継承したことになっているのです。

 安全保障理事会の常任理事国になったということの意味は、中華人民共和国が世界の平和と安全を守る5人の警察官の1人として選ばれて、その役割を果たすことが期待されるようになったということです。ではこの中国という国は、世界の警察官としてふさわしい国なのかといえば、警察官というよりは、どちらかというと泥棒か強盗みたいなことをやってきた国なのです。

挿入画像08=国連を舞台とする米中の動向と日本

 というのは、第二次世界大戦後も中国は武力による領土拡大を繰り返し行ってきたからです。これを地図に表示すると上のようになります。オレンジ色に見える部分が中華人民共和国のもともとの領土だったのですが、ここから武力によって領土を増やしていったということになります。モンゴル自治区、いま新疆ウイグル自治区と呼ばれる所、そしてチベットです。ここではウイグルの侵攻とチベットの侵攻についてだけ、簡単に説明をさせていただきます。

 いま新疆ウイグル自治区と呼ばれるところには、実は第二次世界大戦後に東トルキスタン共和国という独立国があって、これを中国が狙ったということになります。第1段階としては1949年8月に政府間交渉をしようということで、毛沢東が東トルキスタン共和国の政府首脳を北京に招きます。しかし、この首脳陣の乗った飛行機は突然消息を絶ち、全員行方不明になってしまいました。その結果政府は混乱に陥って、中華人民共和国に対する服従を表明するようになります。そして12月には人民解放軍が新疆全域に展開して、中国が完全に制圧してしまったのです。

 次がチベット侵攻ですが、第1段階としては1950年に中共軍がチベット侵攻を開始します。「帝国主義国家から解放するんだ」と主張して、侵攻していきます。ちょうど同じ頃に朝鮮戦争が起こっておりまして、世界の耳目はほとんど朝鮮半島に集中していたので、チベットにはほとんどの人が関心を持ちませんでした。

 そして51年に中国は「17か条協定」というものを強引に締結して、チベットから外交権を奪っていきます。それは「自治権を認め、宗教、信仰の自由を保障する。ダライ・ラマの地位は変えない」という甘い言葉で誘って、強引に締結させたのです。これを根拠として1956年にチベットへの道路ができて、中国の軍がどんどん入っていくことになります。これに対して不満を抱いた民衆が1959年の3月に首都ラサで蜂起します。これを「ラサ蜂起」といいます。これを鎮圧するために中国軍は3月20日に「血塗られた金曜日」と呼ばれる大虐殺を行うわけです。

 中国軍はこの機に乗じてダライ・ラマを暗殺しようとしましたが、ダライ・ラマはチベットを脱出してインドに亡命します。そして、その地で中共の非道を訴える声明を発表したのです。この間、国連はチベットが侵略されるのを防ぐ上で、何もできませんでした。そして600万人のチベット人のうちの120万人、すなわち約5分の1が殺されたと言われています。1970年代に入りますと、米中接近により、アメリカによる支援も打ち切りになって、チベットは完全に孤立して中国に占領され、情報は統制されるようになりました。こうしたことをこれまで中国は行ってきたのです。

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