実況:キリスト教講座16


キリスト教と日本人(4)

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 これは、天正遣欧少年使節の像です。当時、ローマまで行くのは大変なことでした。往復で8年もかかっています。1582年2月に長崎港を出て、まずマカオにつくんですね。マカオを拠点としながら、ヨーロッパに渡るのに都合のよい風が吹くのを待ったわけです。1584年8月にようやくリスボンに到着します。そして1584年11月に、マドリードでスペイン国王フェリペ2世に謁見して、1585年3月にローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられます。このようにヨーロッパで本場のキリスト教を学び、ローマ教皇や国王に会っているんですね。そして1586年4月にようやくリスボンを出発して、いよいよ帰りましょうということになったわけです。

 この人たちは、このまま順調に行っていれば、日本のキリスト教を背負って立つような偉大なリーダーになることを期待されて送られた人たちだったんですが、彼らがヨーロッパに行っている間に日本の状況がどんどん変わっていきました。まず、1587年5月に大村純忠と大友宗麟が亡くなってしまいます。非常に有力なキリシタン大名が死んでいくんですね。そして1587年7月に豊臣秀吉が突如として「バテレン追放令」というのを出すわけです。それが出た後で、1590年7月になって使節団が長崎に戻ってくるわけです。行ったときにはキリスト教の未来は明るいと思っていたわけでありますが、帰って来たときには日本で迫害が始まっていたわけです。

 その後、彼らは極めて悲惨な道を歩みます。千々石ミゲルは、キリスト教に対する疑問を深め、最終的には棄教してしまいます。伊東マンショは信仰を貫きますが、領主によって追放され、1612年長崎で亡くなっています。中浦ジュリアンは二十数年にわたって地下活動を続けましたが、ついに捕まって1633年、長崎で「穴づり」の拷問を受けて殉教しています。原マルチノは江戸幕府によるキリシタン追放令を受けてマカオに逃れ、そこで1629年に亡くなっています。これが日本で最初に西洋に留学した人々のその後の歩みということになりますが、かなり悲惨な結果になっています。

 さて、キリシタンに対する迫害を始めた人は豊臣秀吉でありましたので、秀吉とキリスト教の関係について、基本的なことを抑えておきたいと思います。豊臣秀吉という人は、基本的に政治的で、極めて策略的な人です。ですから彼の基本姿勢は、いかなる宗教でも、天下統一の野望に役立つ限りは最大限に利用するけれども、天下統一を妨げるようなものであれば、それを叩き潰すというものです。彼は早くからキリスト教に対する警戒心を持っていたと分析されています。ですから信長に対して、キリスト教を信じてはいけません、警戒してくださいと警告していたようです。

 秀吉は、キリシタンが多い九州を平定するまでは彼らを手なずけておいて、九州を平定した後には手のひらを返したように弾圧を開始しました。天下統一の過程で最後に残ったのは九州であり、キリシタン大名が九州には多いですから、これを手なずけて降伏させた後に初めて、キリスト教の弾圧を開始するわけです。これが1587年のことでした。秀吉がキリスト教を見るとき、長崎には既に教会領が存在していましたし、ポルトガル船の威容を見ることによって、宣教師たちが日本を侵略しようとしているのではないかとの疑念を強くしたわけです。キリスト教の背後にはポルトガルなどの西洋の勢力があるので、これが日本の天下統一を妨げる勢力になるのではないかと危惧したわけです。

 その他にもいろいろな動機でキリスト教を迫害したんではないかと言われています。そのうちの一つが、キリシタンの多い有馬領で「美女狩り」が拒否されたということがあります。豊臣秀吉は非常に好色だったと言われています。ですから各地の家臣たちにどんどん美女を提供させたわけですが、有馬では美女たちがキリシタンだったので、それを拒否したというのであります。すると秀吉からすれば、女の分際でありながら太閤様の寵愛を拒絶するとは何事かと、怒りに触れたというのであります。それがキリシタンに対する秀吉の反感につながったというわけです。イエズス会の宣教師たちはこのような解釈をしていたようです。

 そして何よりも、高山右近という豊臣秀吉の側近が、キリスト教の信仰を棄てるように秀吉から説得されたにもかかわらず、棄教を拒否したという事件も、秀吉のキリスト教に対する反感を強めたのではないかと言われています。

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 この高山右近という人物でありますが、1552年から1615年まで生きた人で、最も優秀で、かつ模範的なキリシタン大名であったと言われる人物です。この人は摂津高山に飛騨守の長子として生まれたのでありますが、父親がまずキリスト教に改宗します。そして12歳のときに彼も洗礼を受けます。いわゆる信仰二世みたいな立場ですね。そして22歳のときに大阪・高槻の城主になったということですから、非常に優秀だったんですね。信仰においても、武士としての実力においても、非常に優れた模範的なキリシタン大名と言われただけあって、彼は戦争でも活躍して、秀吉に信頼されて、もともと2万石の城主であったのが、明石6万石の城主に抜擢されるほどの出世をしたわけです。

 ところが、秀吉が途中からキリスト教に対する態度を変えて、バテレン追放令を出しました。すると側近である高山右近がキリスト教を信じているのは都合が悪いということで、1587年に秀吉から右近に棄教命令が出されます。これを彼は拒否いたしまして、信仰は棄てませんということで、武士としてのすべてを捨てて前田利家の客人になるわけであります。そして1614年の家康の禁教令によって国内にいられなくなり、国外追放となってマニラに渡り、最後はマニラで死んでいくことになります。こういう人生を歩んだ人です。

 この高山右近という人はキリシタン大名の中でも類稀なる信仰を示した人の一人です。彼は棄教を促す秀吉の使者に対して、以下のように答えたと言われております。これはフロイスの『日本史』という著作からの引用です。「キリシタンをやめることに関しては、たとえ全世界を与えられようとも致さぬし、自分の(霊魂の)救済と引き替えることはしない。よって、私の身柄、封禄、領地については、殿が気に召す様取り計らわれたい。」すごいですよね。自分の魂の救済が第一であって、それを貫くことによって、たとえ私の大名としての身柄、封禄、領地を失ったとしても構わない。これらは普通なら大名にとっては命よりも大切なものですよね。それをすべて殿がお気に召すようにしてください。奪われても構わない。そのかわり、自分の信仰は棄てないと答えたわけです。

 これはまさに、マタイによる福音書の16章26節の「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」というイエス様のみ言葉を実践したものですし、イエスの第三試練、すなわち全世界を与えるから私を拝みなさいというサタンの誘惑を退けたのと同じ意味になります。この世の栄耀栄華を取るのか、それとも神にある魂の救済を取るのかを問われたときに、「私は魂の救済を選びます」と言った、そういう類稀なる信仰を見せた人が高山右近だったわけです。

 これは大変立派ですね。しかし、個人としては立派なんだけれども、この高山右近の態度というものが、豊臣秀吉を逆上させたわけです。キリシタンと呼ばれる者はこんなにも頑固なのか。これは徹底的につぶさなければならない、という認識を強くしたため、キリシタン迫害が始まったということになります。

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