シリーズ「霊感商法とは何だったのか?」12


霊感商法(8)

3.シンクレティズムに対する教会の対応

教会は信者の経済活動については各自の自主性に委ね、関与する立場にないので、霊感商法の経済活動としての側面については、基本的にこれに干渉することはできない。しかし信者の信仰内容については、これをチェックし指導する責任がある。したがって霊感商法において生じたシンクレティズムの問題については、教会は看過することはできず、何らかの判断を示さなければならない。しかし現代においては、この問題は非常に複雑であり、非常に慎重な対応を迫られる問題となっている。

歴史的に見れば、キリスト教会がシンクレティズムに対して取った態度は、個々の事象によって異なっており、一概に「こうである」と言うことはできない。たとえばグノーシス主義のようにはっきりと「異端」であると宣告され、「間違った信仰である」という判断をくだされたものもあれば、クリスマスの日付のように教会に公認されたものもある。また民衆の聖人崇拝のように、異教の臭いを感じながらも黙認されたものもあった。中国における典礼問題では、カトリックの内部で意見が分かれ、論争になった。あえて一般化すれば、それが当時の正統信仰にとって、どれほど危険な影響を与えるものであるかを基準として判断されたと言っていいであろう。

とはいえ、キリスト教が民衆の宗教に対してとった態度は、それが教会の権威に対するあからさまな反抗でない限りは、かなり寛大なものであったと言うことができる。それは圧倒的な多数を占める大衆の支持がなければ、キリスト教の支配自体も成り立たなかったからである。したがってキリスト教会は、民衆の中に受け継がれている異教的な習慣をいちいち調査し、徹底的にその撲滅を図るなどということはしなかった。それは民衆の生きた宗教性を抹殺することになるし、逆にキリスト教に対する反発を強めるだけであったからである。

また「キリスト教」対「異教」、「正統」対「異端」といった二元論的なものの見方も近代以降は見直されるようになり、逆に他宗教に対する理解と寛容が叫ばれる時代になると、シンクレティズムに対する見解も変化せざるを得なくなった。すなわち、優れた白人の宗教であるキリスト教を、異教の迷信にとらわれている未開人に教えてやり、彼らを無知から救ってやることが「宣教」なのだとする考え方は、19世紀的な植民地主義の遺物であると考えられるようになったのである。むしろキリスト教は西洋的な衣を脱ぎ捨てて、福音の本質のみを宣教地に土着化させ、その地の固有な文化の中で花を咲かせなければならないという考えが受け入れられるようになってきているのである。

現代はエキュメニズムの時代である。自己の宗教伝統のみを唯一絶対の真理と主張し、他の宗教伝統を「異教」とか「外道」といって蔑む態度はもはや時代遅れである。したがって自己の宗教伝統の中に他のものが混ざったからといって、それを非難する理由はどこにもない、むしろ結構なことではないかという考え方もできる。

しかし他の宗教からの影響を無条件に受け入れていたのでは、自己の宗教の教義体系は脅かされ、その宗教のアイデンティティー自体が崩壊してしまうことにもなりかねない。そこで現代の宗教は、自己の教義のアイデンティティーをしっかりと保ちながらも、他の宗教伝統に対する理解を深め、その価値を認めながら、自己の教義との共通性を発見していくという難しい作業をこなさなければならない。このことがシンクレティズムに対して教会がとる態度を難しくさせているのである。

このような事情を考慮して、霊感商法の際に使用された宗教的なトークに対して、統一教会が示すべき見解は、「それは統一教会の教義ではないし、また教義として公認することもできない」である、と私自身は考える。その最大の理由は、それらが統一教会の聖典である聖書からも、また教理解説書である『原理講論』からも直接導きだし得る内容ではないためである。このことは統一教会の正統的な教義を守るという責任を持つ教会の使命からすれば、譲れない問題であろう。

しかし、これはその宗教的トークが非真理であったとか、詐欺であったとかいうことを主張するものではない。なぜなら宗教的真理は多分に体験的・実存的なものであり、文字化された特定の教義に還元できるものではないからである。私は霊感商法において用いられた宗教的トークの動機が真摯なものであったことは疑わない。大理石の壷や多宝塔などを購入し、霊的な恩恵を受けたと証しする人々は、恐らく実際にそのような体験をしたのであろう。教会としてはそのような霊的恩恵を頭から否定するような独善的な態度は取るべきでない。それはその人の宗教的人格を否定することにつながるし、その背後にある日本の土着の宗教性に対しても排他的な挑戦を挑むことになるからである。

要するに、統一教会が霊感商法に対して取る態度は、仏教や日本の民俗宗教を含めた、他宗教に対して取る態度と同じものでなければならない、と私は考える。これらの宗教の教義や世界観は、統一原理と何らかの共通性はあるかもしれないが、同一ではない。それらの宗教的儀礼は統一教会のものとは異なっている。しかし、だからといって統一教会はそれらの宗教の教義や世界観が間違っているとか、それらの宗教儀礼には何の恩恵もない、というような独善的な発言をすべきではない。むしろエキュメニズムの観点に立ち、それらの宗教伝統の中に含まれている普遍的な真理性を積極的に評価し、人類の救済と福祉という共通の目的のために協力し合おうとすべきである。これはすべての宗教に対して統一教会が取る普遍的な態度であるべきだ。

実際には、信徒たちによる「先祖の因縁話」や「霊能力」を用いた献金勧誘活動は2000年代後半まで継続し、それが民法上の不法行為と認定されたり、警察の捜査の対象となったりした。そこで2009年3月25日に徳野英治会長による教会員に対するコンプライアンスの指導が出され、「献金と先祖の因縁等を殊更に結びつけた献金奨励・勧誘行為をしない。また、霊能力に長けていると言われる人物をして、その霊能力を用いた献金の奨励・勧誘行為をさせない」(注1)ことを遵守するように通達が出された。これは「霊感商法」的なものに対する教会責任者の公式で明確な否定であると言えるが、私の個人的な印象としては、こうした通達を出す時期があまりにも遅すぎたということと、神学的な関心と検討の結果というよりも、法務対策上の必要性に迫られた結果と見ざるを得ない、ということを指摘しておきたい。

 

徳野会長記者会見

2009年7月13日に行われた記者会見で自らの辞任を発表する徳野英治会長(左)

(注1)http://www.ucjp.org/?p=2924

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