アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳84


第10章 結論(6)

ムーニーの選択肢
 対照的に、統一教会の提示する選択肢は、現在の世界の悪を認識していると同時に、その悪に対する説明をも提示している。過去の意味を理解することによって、未来に対する希望を提供している。それは明確な方向性と、何をどのようになすべきかを知っている明確なリーダシップを提供している。それは、逆説的にではあるが、方向性のない選択肢からの解放を提供する運動なのである。

 それは日々の生活の中心に神が存在する宗教的共同体を提供する。神は、各個人が個人的な関係を持つことができる生きた存在である。それは各個人が愛なる神の慰めを感じることができる共同体であるだけでなく、各個人に神を慰める機会を与えている共同体でもある。それは会員たちに温かみや愛情を与えるだけでなく、他の人々のために愛し犠牲になるチャンスをも与える、愛と思いやりに満ちた環境を提供する。逆説的ではあるが、それは取ることによって与える共同体なのである。

 統一教会は新会員候補に、世界の状態について心配し、高い道徳水準を受け入れてそれに従って生き、神の天国を地上に復帰することに献身している、同じ志を持ったファミリーの一員となるチャンスを提供する。それは「帰属」する機会を提供する。それは価値あることを「行う」機会を提供し、それによって価値ある「存在」となる機会を提供するのである。

 これは、「何か」に対するうずくような真空を経験している人々の一部にとっては、極めて興奮させる内容である。私がすでに示唆したように、ムーニー候補者とは何でも受け入れるような人々ではなく、以下のような人々に対して統一教会がいかにアピールするかを見るのは困難ではない。理想主義的で、保護された家庭生活の安全を享受した人々。彼のために大きな決断は下されているかもしれないが、にも関わらず、達成者であるような者——自分の達成すべきものは何であるかについて彼に明確な考えがある限りにおいてであるが。奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献したいという欲望のはけ口を見つけられない人々。世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を、子供の頃に幻想を打ち砕かれてひねくれてしまった友達よりも長く持ち続け、彼らと共通点を見つけることが難しい人々。宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。

 同時に、宗教問題や社会問題にあきあきしていたり、関心がない人々は、統一教会に魅力を感じそうにない。神が存在するという考えを全面的に否定する人々、あるいは(欧州では)聖書を神の啓示の源泉とみなすことを拒否する人々に対しては、統一教会は(長くは)アピールしないであろう。また、既に特定の信仰や世俗的なイデオロギーを堅く信奉している人々、あるいはすでに人生に明確な目的——例えば、自分の選んだ職業で成功を収めること——を持っている人々にも、統一教会はアピールしそうにない。しかし、定職がなくぶらぶらしていて、他に何もすることがないのでこの運動に流れてきた人々は、極めて早く、再び流れ出していく傾向にある。また、貢献するよりも受けることのできる安易な人生を探している人々も同様である。一方では物質的な成功を収めることに関心のある人々、他方では高尚なことを瞑想したり、自分自身の内的意識に集中するために世俗的な追求から身を引くことに関心のある人々は、ともに統一教会にあまり魅力を感じることはなさそうだ。そして愛と配慮に満ちた共同体の約束に対する最大の「防御」の一つとしては、幸福な結婚、あるいはボーイフレンドやガールフレンドとの安定した満足な関係があるであろう。

 これが非常に単純化しすぎた像であることを、ここで再び協調しておかなければならない。運動に出会ったときに幸福な結婚をしていた、あるいは神を信じていなかった、世界の状況については考えたこともなかった、という事実にも関わらずに入会したという人々もいる。しかしながら、幸福な結婚をし、「かつ」無神論者で、「かつ」世界に対して関心のない人がムーニーになる可能性は極めて低いだろう。さらに、第2章で示唆したように、異なる選択肢が提示されることによって、異なる人々が入会するのであり、これらは場所と時代によって異なっているのである。初期の時代に運動に入会した人々は、「社会不適応者」(注16)の傾向があったと思われる。そして1970年代後半に、カリフォルニアで入会した人々は、社会の世俗性というよりも、世界が陥っていた社会的混乱について心配していたようである。そしてもちろん、私が列挙したような理由以外で入会した人々もいる。私が話をしたムーニーの中には、入会する前に政治に積極的関心を持っていた者たちがいるし、共産主義と闘う唯一の現実的な手段だと考えたので入会したと主張する者たちもいた。また別の者と話したときには、特に黒人の場合、主に多国籍の雰囲気と、異文化の人々が結婚することによって人種を統一するという考え方に魅力を感じるという者がいた。さらに私は、(コリンのように)ムーニーになった主な理由は、運動が彼らに耐え難い状況からの逃げ道を提供したからだという者に1〜2名出会った。しかし、これらは例外である。

 それはもちろん、一般化を危険な作業にする例外であり、社会科学においては、規則に例外を見つけることは常に可能である。しかし、このことは、規則(あるいはむしろ識別可能な規則性)が発見できないということを意味しない。その制限は、個人はそれぞれ異なって生まれ、異なった環境で育ち、同じ経験にも異なった反応するという事実からくる必然的な結果である。しかし、これらの異なる反応はそれ自体があるパターンを作るので、われわれは(新宗教のような)新しい変数が、異なる社会の異なる種類の人々に生じさせる違いを発見することができるのである。パターンを観察し分析することによって、ある特定の個人の行動を完全に説明することはできないかもしれないが、しかし、ある一般化がその他の一般化よりも「より真実ではない」ということは発見することができる。またわれわれは、その運動が享受する成功や失敗についてよりよく理解することができる。そうすることで、われわれはより広範な社会のある側面が鋭く浮き彫りにされていることも発見できるかもしれない(注17)。その分析は、例えば、作られてそのまま残っている「ギャップ」を指摘するかもしれない。

 さらに、ある特別な現象がその中でいかに「機能する」かをより深く理解する上での逆説的な側面は、この理解そのものが状況の変化を導き、その結果として、その効果が強まったり弱まったりするということである。(注18)。われわれが承認する冒険的企てがなぜ過去に失敗したのかを理解することにより、結果としてわれわれは、それが将来より効果的に機能すると確信するようになるかもしれない。反対に、われわれが承認しない冒険的企てがなぜ過去に成功したのかを理解することにより、われわれはそれを成功に導いた状況を変えるようになるかも知れないのである。統一教会はこの運動に入会した人々に理想的な生活様式を提供しないと信じる人々は、ムーニーにすべての非難を負わせるよりもむしろ、完璧に知的なあるタイプの人々が、社会では見つけられそうにないけれども統一教会によって彼らに提供されたと信じるある種の生き方をするよう、実際に社会が「準備した」経路を理解するように努めた方がよいだろう。

10章246ページ

1975年2月、最初に白人と黒人のマッチングが行なわれたカップル(10章246ページ)

10章247ページ

1979年に最初の子供と一緒に撮った同じカップルの写真(10章247ページ)

(注16)J・ロフランド『終末論を説くカルト:回心と改宗と信仰維持の研究』改訂版、ニューヨーク、アービントン、1977年。
(注17)次のものを参照せよ。E・バーカー(編)『新宗教運動:社会理解のための視点』ニューヨーク、エドゥイン・メレン・プレス、1982年、とくにB・ウイルソン、Z・ウェルブロウスキー、R・ウスナウ、N・スマート、W・ルイス、R・ワリス、C・キャンベル、D・アンソニーとT・ロビンズ、B・ハーディンとG・ケーラー,J・ベックフォード、D・ブロムリー、B・ブッシング、A・シュウプらの論文を見よ。
(注18)これは、自然科学と社会科学が扱う主題の最も基本的な相違の一つに関連している。社会では、人々がなんらかの「知識」または現実の見方を共有するがゆえに、規則性が生じる。その知識を知ることによって、規則性が起こらなくなることがある。一般的にいうと、これは例えば金属の「行動」を調査するときには、問題(あるいは利点)とはならない。

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