神学論争と統一原理の世界シリーズ24


第五章 救世主(メシヤ)について

5.救世主はなぜ迫害されるのか?

これから私が語ることを、あなたが実際に体験していることであるというイマジネーションを働かせながら聞いてほしい――。

もしイエスが現代日本に現れたら……

あなたの知人の一人が亡くなった。その人はあなたよりも年輩で、それほど個人的に親しい間柄でもなかったが、一応恩義ある人であったので、あなたは忙しい中なんとか時間をつくって葬儀に出かけることにした。幸いにも故人の菩提寺は都内にあったので行くのに時間はかからなかったが、真夏の蒸し暑い日に礼服を来て葬儀に参加するのは気が重たかった。

あなたは最近故人に関して、気にかかる噂を耳にしていた。故人は社会的な地位のある立派な人物でありながら、最近マスコミで騒がれている妙な新興宗教に関わっていたという噂だ。しかし葬儀は故人の家庭が伝統的に檀家になっていた寺で行われると聞いて、あなたは安心して葬儀に出かけて行った。あなたは少し遅れて到着し、記帳を済ませて香典を渡した。もうすでに故人のたくさんの親類縁者たちが到着しており、焼香を済ませて住職による読経を待っていた。あなたが急いで焼香を済ませると、すぐに住職による読経が始まった。

読教も半ばにさしかかった頃、あなたは背後の人々がなにやらざわめいているのを感じた。後ろを振り返ると、受付の記帳台のところで何かひともんちゃく起きているらしい。そのときあなたの視界に入ったのは、長髪に髭をたくわえ、屈強な男たちと数名の女性たちを背後に引き連れて現れた男の姿であった。受付の責任者とおぼしき男性が入場を断ろうとしているようだが、その男はそれを振り切って中に入ってきた。あなたは直感的に、彼こそは例の新興宗教の教祖ではあるまいかと悟った。

住職が読経を続ける中、その男は信者たちと一緒に席に着いた。いや応なしにあなたの視線は彼らに釘付けになった。彼らが身につけていたのは教団の衣装なのか、やけに派手な色彩で、黒一色に染まった葬儀の場では完全に浮いて見えた。教団の女性には風俗嬢だった者も多いという噂だ。彼女たちもそうなのだろうか? あなたはふとそんなことを考えていた。若い女性たちを侍らせた教祖の姿は、ハーレムでふんぞり返る暴君を連想させた。周囲の人々は、あの教団で葬式を挙げると法外なお布施を取られるそうだ、とヒソヒソ話をしていた。

葬儀の会場は一気に緊迫した雰囲気に包まれた。彼らは何をしでかすか分からないからだ。読経が終わって、住職があいさつを始めた。その教祖と信者たちは黙って住職の話を聞いているようだったので、一同はひとまずほっとした。それにしても住職の話は退屈なものだった。菩提寺の住職とはいえ、故人とはほとんど個人的な付き合いはなかったようで、話に実感がこもっていない。

その時だ。教祖は突然立ち上がって叫んだ。「やめろやめろ! こんな葬儀はやっても何の意味もない。偽善に満ちている!」。人々があっけにとられている間に、男は前に躍り出て、いきなり説教を始めた。「おまえたちの中で、この故人の死を本当に悼み、心から葬ってやろうと思ってここに来たものは一人もいない! みんな喪服に身を包み、上辺だけは神妙な顔をして参列しているが、心の中では暑いんだから早く終わってくれと思っている。どんなに高い香典を払い、どんなに盛大な葬儀をやったところで、心がこもっていなければ何の意味もない。

それからそこの坊主! きさまが一番悪い。きさまは偽善者の最たるものだ。ありがたそうにお経を読んだとしても、そこには故人の死を悼む気持ちの一片だにこめられていない。故人を生前にどれだけ愛したというのだ。それなしに、どうして故人を葬る資格などありえようか! その上、適当な戒名をつけただけで多額のお金を親族から巻き上げている。こんな偽善に満ちた葬儀では、故人はとうてい浮かばれない。彼は今極楽に行こうとしているが、だれも心から送ってくれないので成仏できずに幽界をさまよっている。だから私が彼を引き取って教団で葬儀をしなければならない。私によってしか、彼は仏様のもとへ行けない。なぜなら私こそ、仏陀の生まれ変わりであるからだ」。

男はそう言って、信者とともに祭壇を破壊して棺を持ち出そうとしたので、それを阻止しようとする親族ともみ合いになって、葬儀の場は一時騒然となった。親族が激しく抵抗したため、教祖とその連れの者たちはしかたなくその場を去って行ったが、なんとも不愉快で後味の悪い雰囲気だけが葬儀の会場に残された――。

あなたがもしこの葬儀の場にいたとしたら、この教祖と教団に対してどの様な思いを抱くだろうか? 多くの人が、「どんでもないやつらだ、いかがわしい教祖と教団に違いない」と思うであろう。さて、皆さんは私がどうしてこのようなストーリーを書いたと思われるだろうか? 別に私はオウム真理教の教祖のことを書いたのではない。この話は二千年前のユダヤ人たちの目にイエス・キリストがどの様に映ったのかということを、現代の日本の文化になぞらえて表現したものだ。

常識という名の先入観
イエスは貧しい大工の息子であり、名もない布教者でありながら、ユダヤ人たちが生命のごとく考えていた安息日を破った。このことは我々にとって人ごとであり、どのくらいとんでもないことだったのか実感がわかない。そこで今の日本人が最も厳粛な宗教儀式であると考えている葬式になぞらえてみれば、分かりやすいだろうと思ったのである。すなわち、ユダヤ人にとって安息日を破ることは、我々にとっては葬式に喪服や礼服を来てこないのと同じくらいの「タブー」だったということだ。

さらにイエスの周りには、当時社会的に蔑まれていた取税人や遊女などが群がっていた。ルカによる福音書には一人の女がイエスの足を涙でぬらし、自分の髪でぬぐい、その足に接吻して、高価な香油を塗ったことが記されているが、こうしたことはやはり当時のパリサイ人をして、イエスがいかがわしい人物であると思わしめた。イエスは当時の人々から「食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人(=ローマの手先)、罪人の仲間だ」(マタイ 11:19)と認識されていたのである。さらにイエスは、当時の宗教的権威であったパリサイ人や律法学者たちを偽善者といって批判し(マタイ 23:13~36)、「取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる」(マタイ 21:31)と主張したのである。またイエスは「わたしを見た者は、父(神)を見たのである」(ヨハネ14:9)と言い、「わたしによらないでは、父(神)のみもと(天国)に行くことはできない」(ヨハネ14:6)と主張した。そう、まさしく二千年前のユダヤ人の目に映ったイエスの姿は、前述したようなあのいかがわしい新興宗教の教祖の姿そのものであったのだ。

安息日に麦の穂を摘むイエスの弟子たち

安息日に麦の穂を摘むイエスの弟子たち

<姦淫の女をかばうイエス>

姦淫の女をかばうイエス

エルサレムの神殿から商人を追い出すイエス

エルサレムの神殿から商人を追い出すイエス

 

イエスが探し求めた人

しかし先ほどの教祖のストーリーの裏側に、こんな事情があったとしたらどうだろうか? 実は故人は生前教祖にいたく心服しており、自分が死んだらあの教団で葬儀を挙げて欲しいという遺言を残していた。しかし家族や親族は世間体を気にして遺言を無視し、伝統的な菩提寺で葬儀を強行した。それがそもそもの争いの原因であった。そうすると故人の霊を慰めるという葬儀の本来の目的からすれば、教祖の取った行動は正しかったことになる。そして教祖が説教している内容も、冷静になって聞いてみれば一面の真理を語っており、我々の痛いところをついている。逆に、だからこそ我々は受け入れたくないのかもしれない。マスコミの報道や人々の噂といった色眼鏡を通してしか彼らの姿を見ることができず、日常的な慣習に縛られて生きている我々の目には、宗教的真理は隠されているのだ。それはイエスの当時も本質的には同じだったし、今日でもそうだ。

もしすべての先入観を排除して、教祖が語った言葉を純粋に受け止めることができた人がいたとすれば、それは相当に素直な人か、あるいはよほど変わった人である。しかしそういう人をイエスは探し求めた。イエスは語っている。「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ 7:13ー14)
もし今、再臨のメシヤがこの地上に来たとしたら、あなたは彼を受け入れることができるだろうか?

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