Moonism寄稿シリーズ06:2020年3-4月号


 私がこれまでに「UPFのビジョンと平和運動」と題してWorld CARP-Japanの機関誌『Moonism』に寄稿した文章をアップする「Moonism寄稿シリーズ」の第6回目です。World CARP-Japanは、私自身もかつて所属していた大学生の組織です。私が未来を担う大学生たちに伝えたい内容が表現されていると同時に、そのときに関心を持っていた事柄が現れており、時代の息吹を感じさせるものでもあります。今回は、2020年3-4月号に寄稿した文章です。

第6講:現代の朝鮮通信使としてのPeace Road

 日本と韓国は一衣帯水の隣国であり、北朝鮮による核の脅威から両国の平和と安全を守るためにも、戦略的な協力関係を結ばなければなりません。しかし昨年は日韓基本条約を結んだ1965年以降、両国の関係が最も悪化した年として記憶されることとなりました。統一運動は日韓関係がどんなに厳しいときでも両国の友好親善を促進してきましたが、今回はそうした運動の一つであるPeace Roadを紹介します。

<Peace BikeからPeace Roadへ>
 2013年の夏、日本最北端の稚内から日本と韓国の友好を願って、両国の数名の若者が「Peace Bike」の名の下に、自転車で走り始めました。日本縦走を目指したこの試みは、和解と平和の心を人から人へと繋いで行く活動として多くの反響を呼びました。その様子はSNSを通して全国から支援を受けるようになり、リレー形式で日本の縦走を成功させ、さらに玄界灘を越えて韓国の釜山から臨津閣まで連結されました。この運動は日韓友好、朝鮮半島の緊張緩和と平和統一のみならず、多文化社会における相互理解と共存を希求するものに発展しました。

 このプロジェクトが成功した後、文鮮明総裁聖和一周年記念大会において韓鶴子総裁が「日韓が一つになって臨津閣までの22日間自転車縦走は、祖国統一・南北統一を念願する実践でした。私たちの誠意は臨津閣で終わるのではなく、白頭山を過ぎアジアを経て、全世界に天が望まれる自由・平和・統一の幸せな地上天国を成すまで前進、前進していきます」と語られ、この運動にさらに多くの国が参加するようになりました。

 Peace Bike 2014には日本側で延べ1200名が参加、北海道納沙布岬から九州まで縦走すると共に、韓国でも大統領官邸前広場から釜山まで、両国で計6000キロを超える距離を縦走しました。日本では通過した各都市で、自治体首長や地域社会リーダーに「平和メッセージ」を届け、駐日韓国大使館や各地の領事館から暖かい支援を受けました。縦走の様子はYouTubeにアップされ、それを見て共感した世界14カ国の若者も現地で縦走を実施。Peace Bike運動は世界的な広がりを持つに至りました。

 2015年にはその名称を「Peace Road」と発展的に改称し、世界120カ国を巻き込んでの運動となりました。この年は日韓国交正常化50周年の節目の年でもあったので、両国の親善友好のための行事が日本各地で開催されました。

 ピースロード2019は、7月11日に日本最北端の地である北海道稚内市の宗谷岬で、文妍娥UPF韓国会長を迎えて日本縦走を開始しました。北海道のピースロードは全長720キロに及ぶ長距離コースでしたが、その全行程を韓国から派遣された青年ライダーたちが共に走りました。また、8月7日から15日にかけて行われた韓国縦走にも、日本からライダーが派遣されました。

<21世紀の朝鮮通信使として>
 こうして日韓がお互いにライダーを送りあい、共に走ることで両国の友好親善を推進しようというピースロードは、「21世紀の朝鮮通信使」の役割を果たそうとしています。事実、これまでのピースロードの記録をひも解けば、各地で朝鮮通信使ゆかりの地をルートに入れて、その歴史を学ぶプログラムが組まれています。

 昨年来、日韓関係は厳しい状態にありますが、このような時期だからこそ、民間レベルにおける友好親善の努力が大切です。これまでも日韓関係は厳しいときもあり良好なときもありましたが、国が引越しをすることはできないので、両国が隣国としてお付き合いをしなければならないという事実は変わりません。

 過去の歴史において、日本と朝鮮の関係を非常に悪化させた事件の一つが、豊臣秀吉の朝鮮出兵です。これによって一時期両国は国交断絶状態になったわけですが、それを回復させる役割を果たしたのが朝鮮通信使です。通信使自体は室町時代に始まりましたが、秀吉の朝鮮出兵によって中断されていました。それが徳川の時代になって再開され、200年間に合計で12回も派遣されています。江戸幕府は西洋諸国に対しては国を閉ざしていましたが、朝鮮とは国書を交換し、正式な国交を結んでいたのです。

 通信費を迎えるために幕府が使った費用は、18世紀の初めごろで約100万両でした。当時の幕府の年間予算が78万両ですから、それ以上の莫大な費用をかけて朝鮮のお客様を迎えたことになります。そればかりでなく、幕府は通信使の経路にあたる各藩に対してリレー形式で接待役を命じ、各藩は威信をかけて地元の名産品でもてなしたのです。

 朝鮮通信使には、詩文や書を書く人、絵を描く人、音楽を奏でる人、医者などが同行しており、一種の文化使節としての役割を果たしていました。外国との接触が限られていた当時の日本人にとっては物珍しく、行く先々で多くの人々が詩や書画を求めて集まったという記録が残っています。このように、お客様をもてなし、その返礼として文化を受容するという関係を継続することを通して、200年間にわたる平和な時代を築いたのです。

 もちろん朝鮮通信使と日本人の間には、過去の恨みや文化の違いに起因するさまざまなトラブルや行き違いもありました。しかし、共に旅をしながらお互いに本音で話すことを通して、それらを一つ一つ乗り越えていったのです。朝鮮通信使の意義は、不幸な歴史を乗り越えて相互交流によって平和な時代を築き上げていったことにあります。いまこそ私たちはその歴史から貴重な教訓を学ばなければならないのではないでしょうか。

<次世代育成に貢献するPeace Road>
 Peace Roadに参加した若者たちは、「平和のために自分に何ができるか分からなかったが、とにかく参加して汗を流すことで、平和を自分の問題として感じることができるようになった」と感想を述べています。この運動は、新しい日韓関係を切り拓いていく平和の担い手としての若者たちを育成していくうえでも重要な役割果たしているのです。

 このPeace Road運動には、文鮮明・韓鶴子総裁御夫妻が30年間にわたって推進してきた「日韓交叉祝福」で誕生した日韓家庭の子女たちが多数参加し、父の国と母の国を和解させるために汗を流しています。この運動は次世代を担う若者たちが両国の平和を築くPeace Makerとなることにも貢献しているのです。

日本から派遣された韓国縦走チーム

日本から派遣された韓国縦走チーム

九州と釜山を結ぶPeace Road

九州と釜山を結ぶPeace Road

Peace Road 2019中央実行委員会発足式

Peace Road 2019中央実行委員会発足式

東京都庁前でのPeace Road出発式

東京都庁前でのPeace Road出発式

朝鮮通信使ゆかりの地である日光東照宮でのPeace Road

朝鮮通信使ゆかりの地である日光東照宮でのPeace Road

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