『生書』を読む11


第四章 神の御指導の続き:正神と邪神

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第11回目である。第九回から「第四章 神の御指導」の内容に入ったが、今回は突然語りだした「肚の神様」を大神様がどのようにとらえ、どのように関わっていったのかという、葛藤のプロセスについて深く考察したい。

 既に述べたように、大神様は最初「肚の神様」を邪神か狐か狸の類だと思い、それを落とそうとした。これは周囲の人々が邪神と疑ったばかりではなく、教祖自身もはたして自分に語り掛けてくる神がいかなる神なのか判断がつかず、疑ったということである。教祖とて生身の人間である。突然自分に降りかかってきた人生を変えるような出来事に当惑するであろうし、自分が出会った神が本物が偽物か見極めようとするのは当然である。さらに、修行に伴う精神的な覚醒状態や高揚は、教祖を精神的に不安定にさせる可能性がある。霊的なものに完全に憑依されて自我を失ってしまえば、人格の崩壊をもたらすかも知れない。こうした試練を乗り越えて、霊的なものと地上の常識的なもののバランスをうまくとれるようになってこそ、教祖として人々を導いていくことができるのである。大神様は、啓示の初期におけるこうした葛藤について、松本千枝という国民学校の教師に対して以下のように語っている。
「千枝、わしにゃあどうも行の邪魔をするものがおっていけない。じゃが間もなく、正神邪神の戦いを通り越して、正神のみに使われるようになるからのう、そうしたら地上に天国、神の国を、一緒につくろうのう。」(『生書』p.70)

 大神様は北村サヨという一人の人間として、「肚のもの」に支配されるのではなく、それと必死に戦いながら対峙していたことが分かる。自分には正神と邪神の両方が働いていると自覚し、行によって正神のみが働く存在になることを目指していたということだ。一方で「肚の神様」の方は、人間北村サヨを手懐けようとして必死に働いたようである。
「肚の中で五月の四日から急にものを言い出したものは、あらゆる手段を尽くして、性格の強い教祖を、言うとおりにさせずにはおかなかった。」(p.71)

 大神様は肚の中のものを邪神だと思って戦うプロセスもまた、行の一環としてとらえていたようである。そのことの意味については以下のように語っている。
「世の行をする者は、その行の途中、少しでも霊能があり出すと、すぐ増上慢を起こして生き神様になって、邪道に落ちてゆくが、わしの場合は、みんなとは確かな神様がついちょったから、世の中の邪神つきみたようにぼけて、人間の道に外れたようなことはさせなかった。」(p.72)

 ある意味で、北村サヨという個人の自我がしっかりしていたので、啓示を下す霊的存在にただ飲み込まれるのではなく、それとうまく対峙しながらバランスをとることができたがゆえに、教祖たることができたのではないかと思われる。このような修行における試練、葛藤、そして陥りがちな霊的な過ちは、宗教の世界には普遍的に見られる現象であり、代表的なものとしては禅宗の瞑想修行における「魔境」があり、キリスト教における「悪霊の業」がある。『原理講論』では「善神の業と悪神の業」「終末に起こる霊的現象」という項目の中で、こうしたことが説明されている。

 仏教における修行の一環として行わる瞑想は、「止観(しかん)」と呼ばれる。これは「止」の字が示す如く、なにか特定の対象を定めてそこに精神を集中し、心の動きを極力止めんとする瞑想法のことである。この瞑想法に熟達すると、人は強力な集中力を得ることができるようになり、「三昧(さんまい)」と呼ばれる精神状態に至るとされる。修行者はそのプロセスにおいて尋常ならざる恍惚感、多幸感、覚醒感を覚えることがある。こうした現象は瞑想修行者に多く見られることなのだが、一つの落とし穴として、そこで体験した尋常ならざる感覚、経験などに舞い上がり、この体験に執着し、瞑想に異常なまでに固執するようになる者がいるという。瞑想中に経験した恍惚感あるいは覚醒感などが強烈であればルほど、それをもって自身が行っている瞑想法の正しいことの証明とし、異常にのめり込んでいくのである。

 しかし、そのような経験や感覚自体は、自身が行っている瞑想法の正しさや、悟りに近付いていることを証明するものではなく、仏教の修行においてはこれを伝統的に「魔境」と呼んできた。要するに魔境とは、修行によってもたらされた特殊な精神状態に異常なまでに執着することを意味する。瞑想修行者の中には、自らのわずかな瞑想体験に基づいて、その瞑想法が絶対無二であり、またその体験へと導いてくれた師の指導法・指導内容は至上のものである、という思考を持つ者が現れる。その結果、自分が学んだ以外の瞑想を認めない、認められないという愚を犯す者が多く認められるというのである。瞑想によって浄められた「はず」の心が、自身が知っていること、信じていること以外のものを受け入れられなくなって、ときには攻撃性すら伴う、強い排他性を持つことがよくある。

 また、瞑想に長けている、その指導方法が優れているからといって、その人の人格が優れているとは必ずしも言えない。瞑想修行の指導者や長年の修行者の中には、高慢・傲慢な性格を醸成してしまっている者がしばしば見られることが、仏教者自身によって指摘されている。これでは何のために瞑想修行をしているのか分からない、本末転倒の状態に陥ってしまうので、そうならないように戒められているのであるが、実際にはこの落とし穴に陥ってしまう修行者は多いという。大神様はある意味でこうした「魔境」と闘っていたと言えるであろう。

 大神様の言葉の中に出てくる「正神邪神の戦い」という概念に近いものが、家庭連合の教理解説書である『原理講論』の中にも登場する。それは堕落論の第四節に出てくる「善神の業と悪神の業」という内容である。その説明は以下のようになっている。
「善神というのは、神と、神の側にいる善霊人たちと、天使たちを総称する言葉であり、悪神というのは、サタンと、サタンの側にいる悪霊人たちを総称する言葉である。善と悪とがそうであるように、善神の業と悪神の業も、同一のかたちをもって出発し、ただその目的のみを異にするものなのである。

 善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし、悪神の業は、時間がたつにつれて不安と恐怖と利己心を増進せしめ、また健康をも害するようになる。それゆえに、このような霊的な業は、原理が分からない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。しかし、堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。」(三色刷『原理講論』p.120)

 大神様が誕生し、「肚の神様」から啓示を受けた時代は、まさに地上にメシヤが誕生し活動を開始する「終末時代」であった。『原理講論』では、この時代に霊通する人が多く現れるようになるとしている。天照皇大神宮教の出現は、統一原理によればまさにこのような背景のもとに説明することができるのだが、こうした啓示を受ける人々は、ある試練を受け、過ちを犯しやすい傾向にあるという。このことは、復活論第二節の「終末に起こる霊的現象」という項目の中で説明されている。それは終末には、「あなたは主である」という啓示を受ける人たちが多く現れるため、このような人たちがしばしば、自分が再臨主であると誤解してしまう場合が多いということである。『原理講論』によれば、彼らは「各自の使命分野における再臨主のための時代的代理使命者として選ばれた」者に過ぎないのであって、再臨主自身ではない。しかし神は彼らを激励するために「あなたは主である」とか「あなたが一番である」という啓示を下さるので、自分が再臨主だと思って行動すれば、偽キリストの立場に立つようになるというのである。終末になると偽キリストが多く現れると預言された理由も、多くの霊通者たちが現れ、彼らが相互に衝突と混乱を起こすようになる理由も、まさにここにあるのである。

 大神様が行のプロセスにおいて「増上慢」「邪道」「邪神つき」といったものと闘い、人間の道を外れないようにしながら神行の道を極めようとしたのは、まさにこうした修行者として受けるべき普遍的な試練や誘惑との闘いをしていたのだと理解することができる。

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