『生書』を読む10


第四章 神の御指導の続き:大神様と戦争

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第10回目である。前回から「第四章 神の御指導」の内容に入ったが、今回は当時日本が戦っていた戦争について大神様がどのように考えていたかについて考察を深めたいと思う。既に述べたように、大神様は「肚の神様」から啓示を受けるまでは、何か特別な思想的傾向を持っていたわけではなく、当時としてはごく普通の愛国的な婦人であった。大神様は反戦運動や左翼思想とは無縁だったようであり、日本が突き進んでいった軍国主義への道に対して、疑問を抱いたりすることはことはなかった。そして「肚の神様」が入った後も、戦争や当時の日本政府のあり方に対する批判的なことは語っておらず、お国のために熱心に働く献身的な国民であることに変わりはなかった。大神様が戦争について語っている言葉を取り上げてみても、戦争そのものやお国に対する批判は一切なく、むしろ戦時下にあって利己心を満たそうとする人々を批判した言葉が多い。

「真人間におなりなさい。神行して真人間になりなさい。日本中の人が真人間になったら、戦争は必ず勝つ。利己を捨て、本当にお国のお役に立つ真人間になりなさい。自分は戦争に負けるようなお手伝いばかりをしていて、神様の前になんぼう神風が吹きますようにと拝んでも、そんな利己の願いを聞いてくれるような神や仏はおりゃしない。」(p.57)

 これは日本が戦争に勝つか負けるかは日本の国力や戦略戦術によって決まるのではなく、一人ひとりの日本人が神の前に正しい真人間であれば戦争に勝つのだという論理であり、人々に対しては利己心を捨ててお国のために働くことを勧めていることになる。戦争そのものが悪であるとか、日本の戦争目的が間違っているというような発想はしていないことが分かる。我々はいまでこそ歴史を振り返ってそのような発想をするかもしれないが、当時の日本人の大多数は大神様のような考え方をしていたと思われる。その意味で、大神様の説かれた内容は当時の日本政府から見て決して「危険思想」ではなかった。

 大神様が昭和19年7月28日に、松本千枝という国民学校の教師に宛てた手紙には、そのころのもののとらえ方や考え方がよく表れているが、『生書』自身も「当時、教祖は肚がものを言い、その命令するままに行動しておられても、教祖自身の意識には何の変化もなく、またいかに強い正義感と国家観念を持った主婦であったか」(p.63)がよく分かると記している。

 大神様は単に愛国的な主婦であっただけでなく、一人息子の義人氏を出征させた「軍人の母」でもあった。一人息子の身を案じるのが母としての人情であろうと思うのだが、この点に関しても大神様は驚くほど模範的な「軍人の母」であったのである。
「義人も二十三歳の身をもって、骨を埋めるところを得たと、喜んでよこしています故、たといどこで骨になるとも、本人としてはそれが本望でしょう。
また私共も覚悟を決めて御国に差し上げたあの子です。この大戦争の中に生きて帰れるなど夢にも思っていません。一人の子供を御国に差し上げ、私らはもう家も財産もなにも惜しいとは思いません。
ただ欲しいものは、三千年の歴史を踏んだこの尊い皇国日本を、永久に世に輝かして残したいと、それのみ神にお祈り致しています。
今こそ我を捨て、一人残らず大君のおん為に尽くす時が参りました。」(p.65)
「わずか一人にもせよ、男の子を育て上げて、お国のおん為に、差し上げることのできた私共の仕合わせ、この上もない光栄だと、心から喜んでいます」(p.66)
「二十三歳の身をもって骨を埋めるところを得た、といってよこしましたあの手紙を見て、ひとりでに心から喜び、よく覚悟して出てくれた、それでこそこの母の育てたかいがあるぞ。」(p.67)
「捧げたる我が子に未練さらになし われも尽くさん国のおんため」(p.69)

 まるで「軍国の母」(作詞:島田磐也、作曲:古賀政男)を思わせるような見事な母の決意が語られている。もともと大神様は男勝りで竹を割ったような性格の人であったようだが、一人息子に対する未練を断ち切るさまも非常に潔いものであった。

 この手紙は、昭和19年6月15日から7月9日にかけて行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦闘で、日本軍が全滅してほどなく書かれたものであり、手紙の中でも「サイパン島の玉砕のあの悲報」という言葉で触れられている。このサイパンの戦いに敗れることにより、これまで距離的に九州までしか爆撃できなかった中国成都からのB-29による爆撃が、サイパンを含むマリアナ諸島を基地とすることでほぼ日本のどの都市にでも爆撃が可能となった。その意味で日本にとって戦局が大きく不利に傾く出来事であったが、大神様はこの出来事を「神の試練」であると解釈している。すなわち、それによって日本人を奮い立たせ、一億国民が本当の日本人に帰るためだというのである。そして、ここでへこたれては日本人の生きるところはなくなり、いま頑張れば日本の国は永久に栄えるのだと鼓舞している。

 一方で大神様は、このような重大な戦争が行われているときに闇取引きをしたり私腹を肥やす人間がいることを非難している。そんなことをしていては戦争に勝てるはずはなく、戦争を利用してお金儲けをするようなことは、神の国では通用しないとまで言っている。そしてこの戦争の意義は、三千年の歴史を持つ尊い神の国である日本人の精神を取り戻すことにあると言っているのである。大神様は、神国日本が戦っていた戦争は「聖戦」であり、そのために日本人が犠牲になるのは当然の義務であるというという当時のイデオロギーを疑うことなく、そのまま信じていたことが分かる。

 この当時はまだ大神様自身が「肚の神様」が正神なのか邪神なのか判断しかねている状況であったので、こうした考えがその後も一貫したものであったかどうかは不明だが、少なくとも当時の大神様の思想は「平和主義(Pacifism)」ではなかった。一般に平和主義とは戦争や暴力に反対し、恒久的な平和を志向する思想的な立場を意味するが、特に規範的な立場から戦争の廃止や暴力の抑制を主張することに特徴がある。具体的には殺生の否定、良心的兵役拒否、軍事行動に寄与するような労務の拒否といった行動となって現れるが、上記の引用からも分かるように、大神様は戦争そのものを悪と思っているわけではないし、息子をお国のために捧げたことをむしろ誇りと思っているくらいであった。皇国日本の価値を信じ、戦争の勝利を願っていることから、日本が戦争に勝つことが神の願いであると信じていたことになる。

 文鮮明師はその生涯の後半において積極的に平和運動を展開し、世界平和実現のための組織を多く設立しているが、やはりその思想の根本においては「平和主義(Pacifism)」ではなかった。もちろん戦争を礼賛しているわけではなく、神の願う理想世界においては戦争や紛争は存在しないというのが文師の立場ではあったが、現実の世界に存在する戦争は、人間が堕落することによって不可避となった戦いなのであり、それを避けることによって問題が解決することはないと考えていた。むしろ、人類史上において起こってきた数多くの戦争は、神とサタンの戦い、善悪闘争史において、神の主権を復帰するためのプロセスであったと説くのが文師の立場である。

 『原理講論』の世界大戦論では、戦争における「天の側」と「サタン側」の区別の仕方が示されている。そこでは、ある民族、国家、宗教そのものが絶対悪であるということはなく、神の復帰摂理の方向と同じ方向を取るか、あるいは間接的にでもこの方向に同調する立場をとるときこれを「天の側」といい、それと反対になる立場を「サタンの側」という、とされている。『原理講論』においては、第二次世界大戦が行われていた当時、キリスト教国家を中心とし、民主主義を信奉していた連合国側が「天の側」だったのであり、キリスト教を迫害し、全体主義を信奉していた枢軸国側が「サタンの側」だったとされている。日本はこのとき枢軸国側におり、「サタン側のエバ国家」という位置にいたので、そもそも日本の勝利は神の願いではなく、日本の敗戦こそが天の摂理を進める結果であるとされているのである。

 大神様と文鮮明師は、どちらも思想的には「平和主義者」ではなく、現実世界における戦争は必ずしも悪ではなく、「聖戦」というものがあり得るとした立場においては一致していた。しかし、第二次世界大戦における日本の国の立場については、真逆の理解をしていたと言えるであろう。このことは、日本国の敗戦という現実をどのように受け止めたかという違いにもつながっていくことになる。

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