北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ12


 北村サヨと天照皇大神宮教に関する研究シリーズの補足の投稿であり、天照皇大神宮教と家庭連合の「来世観」の比較の第二回目である。

<「前世の業」か「先祖の因縁」か?>

 春加奈織希(本名ではなくウェブ上の匿名)による「遥かな沖と時を超えて広がる 天照皇大神宮教」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~harukanaoki/index.html)と題するサイトを見ると、天照皇大神宮教では人の人生には「前世」と「先祖」の両方の因縁が関わっていると理解することができる。以下、同サイトからの引用である。
「人間は、自分の前世、先祖の行跡、生まれてから以後の自身の半生、という三つの原因によって、様々な出来事に遭遇します。これを因縁というそうです。

良いことは、決して単なる偶然や自分の努力の結果ではなく、まず神様からの恩寵であり、先祖の徳であり、自分の前世によるものと感謝して、増上慢(ぞうじょうまん。すなわち慢心)にならず、謙虚に感謝の気持ちを持つことが大切です。
「前世、先祖、自身の半生、これらの因縁因果によって、人は様々な出来事に遭遇するが、それらは、自分の魂を磨く行(ぎょう)の糧(かて)である。すなわち、己の心を鍛え、成長させるとともに、悪癖(わるぐせ)・欠点を反省懺悔して直してゆくためのものと捉えるべきである。」
「『恨みが感謝に変わったとき、初めて神行の道に入っている』の神言どおり、『これも自分に与えられた行』『前世の行か、または、先祖からの因縁か』と受け止めて行じ抜くと、相手に対する憎しみや恨みは消えていきます。」

 天照皇大神宮教においては何の矛盾も感じていないようであるが、そもそも「前世の業」と「先祖の因縁」は互いに異なる宗教伝統に由来するものであり、世界観としては互いに矛盾するものである。しかし、それが日本の宗教伝統においては混然一体となっているのである。

 「前世」という考え方は「輪廻転生」の世界観に基づき、前世の業が現世に影響を与えるという思想は仏教を通して日本に輸入されたものである。「業」は行為を意味するサンスクリットの「カルマン」の漢訳語であり、仏教以前にまでさかのぼる思想である。「輪廻」はサンスクリットの「サンサーラ」の漢訳であり、車輪が廻転してとどまることのないように、次の世にむけて無限に生死を繰り返すことを意味する。その際、生前の行為と転生後の運命は因果的に結び付いており、生前の行為(業)によって、その人の主体が何に生まれ変わるかが決定する。

 その転生のあり方は善因善果、悪因悪果の応報説に基づいているとされた。すなわち人間あるいは天人として生まれるという善の結果は、前世の善業が原因となっており、地獄・餓鬼・畜生として生まれるという悪の結果は、前世の悪業が原因となっているというものである。これは、生前の行為(業)はその場かぎりで消えるのではなく、功徳や罪障として行為の主体につきまとい、やがて時がいたればそれが順次に果報として結実し、同じ主体によって享受されて消滅する、という考え方である。自分の行為の結果は自分で享受することが原則で、これを「自業自得」という。

 この輪廻の考え方は仏教に受け継がれ、無明と愛執によって輪廻が生じ、それを絶ち切ることによって涅槃や解脱が得られると説かれた。仏教ではこの輪廻のことをとくに「六道輪廻」と呼び、死後の迷いの世界を地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの生き方(転生)に分けて整理した。

 日本では、輪廻説は仏教とともに受け入れられたのであるが、それはオリジナルの仏教思想とは異なる、日本化された思想として受容された。日本では仏教における「因縁」や「因果応報」の考え方が、先祖との関わりの中でとらえられるようになったのである。現世における業が自分自身の来世において報われるという輪廻の考え方は、多分に個人主義的であると同時に、現世の一時的な人間関係には何らの永続的な価値を見いださないものであるために、血統的なつながりを重要視する日本人にとっては魅力のないものだった。そこで、祖先の業が子々孫々に受け継がれていくことを「因縁」や「因果応報」であると再解釈したのである。

 日本の宗教の最大の特徴は、日本固有のものと外来のものが混ざり合った「習合」状態にあると言える。歴史を通してさまざまな伝統を便宜的に組み合わせた結果として出来上がった死生観であるため、そこには首尾一貫した明確な世界観がないのである。例えば、もし「輪廻転生」であるなら、自分の前世の因果を受けるという自業自得のはずなのだが、同時に血統的な「先祖の罪」が子孫に降りかかってくることも認め、両者を折衷案的に組み合わせているので、矛盾性を内包しているのである。

 日本の新宗教は、伝統宗教である神道もしくは仏教を背景として、教祖が新しい解釈や天啓を得て創設される場合が多い。よってそれらは神道系と仏教系に大別されるのだが、そもそも日本の宗教伝統自体がそれらが混じりあった「神仏習合」の状態にあったので、神道と仏教の両方から影響を受けている新宗教も多い。天照皇大神宮教もその一つである。天照皇大神宮教における来世観の「神仏習合」状態は、日本の宗教伝統が抱える矛盾をそのまま受け継いだと言ってよいであろう。

<輪廻転生を否定する統一原理>

 一方で、統一原理は「輪廻転生」を明確に否定し、人間が来世において他の存在に生まれ変わることはないとする。『原理講論』においては、復活論の「再臨復活から見た輪廻説」という個所で輪廻説を否定しており、霊人が地上人に再臨協助する際に、同じ使命を持った地上人を通して働くので、あたかも同一人物であるかのように見えるだけであると説明している。そして、「仏教で輪廻転生を主張するようになったのは、このような再臨復活の原理を知らないで、ただ、その現れる結果だけを見て判断したために生まれてきたのである。」とまで言っているのである。
 ここで統一原理に基づいて、「輪廻転生」の考え方の限界を指摘しておきたい。
 まず、次に生まれ変わるまでの一時的な待機所という以上の積極的な意味を「あの世」に見出すことができない、という点が挙げられる。「来世」とは、霊界での永遠の生を指すのではなく、生まれ変わった次の生を指すのである。なぜ霊界が存在するのかという根本的な理由も説かれていない。

 また仏教には、人間は「天上天下唯我独尊」としての尊厳性をもつという教えが一方にあるのだが、「私は前世のAさんの生まれ変わり」「私は来世ではBさんという別人格になる」とした場合に、現世の私と、前世のAさんと、来世のBさんは個性が異なるにもかかわらず同一存在ということになり、「輪廻の主体とは何か」という疑問が生じる。現在の個性を持った「私」には、究極的な価値がないことになってしまうのである。

 もう一つが、家族や血統の軽視である。そもそも、釈迦の説いたオリジナルの仏教は徹底した個人主義の教えであり、その究極的な目的は輪廻転生を繰り返す迷いの状態から解脱することにあった。したがって、本来の仏教には、家制度やそれを維持するための祭祀である祖先崇拝を支持する要素は全くないのである。仏教が本来理想とした共同体は家庭でも氏族でもなく、出家した求道者の集団である僧伽(サンガ)であったのであり、むしろ家庭は愛欲煩悩の場として、相対的に否定されるべきものだった。したがって、家族を重要視し血統を重んずる日本の伝統文化とは相容れないだけでなく、統一原理の家庭観・霊界観とも異なっているのである。

<葬式とお墓について>

 前述のサイトには、天照皇大神宮教の葬式では、遺族に対して「おめでとうございます」と同志が言う習慣があることについて説明がなされている。これは、葬儀(告別式)に際して「おめでとう」と言ってよいという大神様(北村サヨ教祖)の説法に基づくそうで、死をすべての終わりととらえるのではなく、魂が肉体から離れてあの世に生まれ変わることであるという考えに基づいている。実際の同志たちの葬儀において文字通りこうした言葉が交わされているわけではない、というのが同サイトの説明であるが、これは一般社会からの世俗的な批判に対する回答であろう。家庭連合の葬儀は「聖和式」と呼ばれるが、一般の葬儀に比べて雰囲気は明るいものであり、地上での生活を終えた故人を喜びをもって霊界に送り出す儀式であるという点では、天照皇大神宮教の葬儀と相通じるものがある。こうした天照皇大神宮教の来世観や葬儀のあり方は、尊重されるべきである。

 また、天照皇大神宮教では収骨をせずお墓もないということだが、これは人の死は魂が肉体から離れてあの世に行くことであり、魂が遺骨や位牌や仏壇や墓地にとどまっているわけではないという教えに基づいている。故人を偲ぶときには、自宅に写真を置いておいて、折に触れて祈ったり合正するのだという。

 家庭連合でも遺骨や墓石や位牌に故人の霊が宿っていると考えているわけではなく、故人の霊は肉体を離れて霊界に住んでいるととらえている。また、人の死はすべての終わりであり、悲しみの極致であると考えているわけでもないので、天照皇大神宮教に似た死生観を持っているといえるであろう。しかし、家庭連合では遺骨の収集やお墓を否定しているわけではなく、故人の霊が宿る所として、「善霊堂」と呼ばれる仏壇や位牌のような役割をするものもある。そこに文字通り故人が宿っているととらえるかどうかは信徒個々人の考え方の違いであり、家庭連合はこうした「象徴物」に対してより寛容で柔軟な宗教であると言えるだろう。家庭連合の葬儀の最大の特徴は、尾瀬霊園においてはいまでも土葬が行われていることである。この点では、現代日本においては稀有な伝統を守っている宗教団体であると言ってよいだろう。だからと言って、キリスト教根本主義のように肉体の復活を信じているわけでもなく、遺体に霊がとどまっていると信じているわけでもないことは付け加えておきたい。

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