北村サヨと天照皇大神宮教シリーズ02


 先回より、北村サヨと天照皇大神宮教に関する研究を短期シリーズで開始した。今回はその2回目である。天照皇大神宮教の教祖である北村サヨと、世界平和統一家庭連合の創設者である文鮮明師を比較することからこの研究を開始したが、両者に共通している興味深い人間関係は、岸信介首相との因縁である。

<北村サヨと岸信介首相>

 北村サヨと岸信介首相との因縁は、北村家と岸家が共に山口県の田布施にあったことに起因する。岸信介は東條英機内閣の太平洋戦争開戦時の重要閣僚だったことが原因で、終戦後に田布施に帰郷していたところを、日本を占領下に置いたGHQからA級戦犯被疑者として逮捕され、東京の巣鴨プリズンに拘置された。岸は後日、生涯で三度死を覚悟をしたことがあると語っている。一度目は東条内閣時代に閣僚として東条首相と対立して閣僚辞表提出を拒否したとき、二度目はA級戦犯被疑で捕まったとき、三度目は安保改定の際に首相官邸でデモに取り囲まれたときであるというから、この時も悲壮な決意で故郷を後にしたに違いない。岸が家族に別れを告げてこれから東京の巣鴨へと向かおうとするとき、すでに教祖への道を歩みはじめていた北村サヨは岸の家を訪ね、「三年ほど行ってこい。魂を磨いたら、総理大臣として使ってやるわい」と言い放ち、今生の別れと思って意気消沈していた周囲の人々を仰天させたという逸話が残されている。

 その予言通り、岸は極東国際軍事裁判でA級戦犯被疑者として三年半巣鴨プリズンに拘留されたが、不起訴のまま無罪放免された。これは開戦当時、岸が即時停戦講和を求めて東条首相と対立したことが評価されたためだとされる。ただし、多くの戦争指導者同様、岸もしばらくは公職追放の身にあり、表立って政治活動をすることはできなかった。しかし、蒋介石が台湾に逃亡し、中華人民共和国が成立し、朝鮮戦争が勃発するなど、日本周辺で東西冷戦が激化すると、米国の対日政策は日本をアジアにおける「反共の砦」とする方向に大きく転換されることとなる。そうした流れの中で、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を機に、岸信介をはじめとする旧体制側の人物たちが公職追放を解除され、復権していくことになったのである。

北村サヨと岸首相

 1957年に岸が総理大臣になった時には、北村サヨは上京して官邸に岸を訪ね、「どうだ、岸、オレが言うたとおりになっちゃろうがア」と語ると、岸首相のほうも「お蔭を持ちまして」と答えたという。総理大臣就任後に岸信介が「お国入り」した時のニュース映像がYoutubeの「昭和宰相列伝6 岸信介、池田勇人(1957-1964)」という動画(https://www.youtube.com/watch?v=doiVu6kLpkw)の中で紹介されているが、歓迎する人々の中にオートバイの後ろにまたがった北村サヨが登場し、「そうするうちに、踊る神様もオートバイで駆けつけてきました。そしてお祝いの言葉を述べた後、『あんたは日本を治めなさい。ワシは世界を治める』というご託宣に、総理大臣も神妙です」というアナウンスが流れている。ニュース映像が北村サヨを非常に好意的に扱っているのが印象的である。

 サヨは総理大臣に向かって「オイ、岸!」と呼び捨てにしたと伝えられる。それは自らを総理大臣よりも上に置き、そのことを微塵も疑っていなかったからである。自らの肚には神が宿っていて、自分の語る言葉は神の言葉であると確信していたためであろう。「あんたは日本を治めなさい。ワシは世界を治める」という言葉にも、そうしたサヨの自覚が表れている。こうした「上から目線」の発言を岸首相が素直に聞いていたのも、巣鴨プリズンに拘留される前のサヨの予言があったためであり、彼女に一目置いていたからであろう。

<文鮮明師と岸信介首相>

 文鮮明師と岸信介首相の因縁は、東京都渋谷区南平台の岸邸の隣に当時の統一教会の本部教会があったことに起因する。教団の歴史書である『日本統一運動史』(光言社、2000年)によると、岸が初めて本部教会を訪れ、集まった300名の教会員たちに国際情勢を含めた内容の話をしたのは1970年4月9日のことであったという。岸が首相を退任したのは1960年のことであるから、それから10年後のことであったが、首相退陣後も岸は政界に強い影響力を保持していた。

 1973年4月8日に岸が本部教会を訪れたときには、以下のように語っている。
「ただいま久保木会長から御紹介がありましたように、私はここへは今回で3度目だと思います。その前に実は、統一教会と私の奇しき因縁は、南平台で隣り合わせで住んでおりました若い青年たち、正体はよくわからないけれども、日曜日ごとに礼拝をされて、賛美歌の声が聞こえてくる。…そうしたら…笹川君が統一教会に共鳴してこの運動の強化を念願して、私に、君の隣りにこういう者が来ているんだけれども、あれは私が陰ながら発展を期待している純真な青年の諸君で、将来、日本のこの混乱の中に、それを救うべき大きな使命を持っている青年だと私は期待している。もっとも現在の数は非常に少なく、またずいぶん誤解もあり、親を泣かせるとマスコミも騒いでいる。そういう話を聞き、お隣りでもありましたので、聖日の礼拝の後に参りまして、お話したことがありました。人数もせいぜい二、三十人ではなかったかと思います。久保木君のお説教は…極めて情熱のこもったお話を聞きまして、非常に頼もしく私は考えたのです。」

 これに対して、久保木会長が以下のようなコメントを残している。
「今思えば、(岸)先生は大変懐の広い政治家でした。私たちは当時、まだ…弱小集団でありましたし、教祖が韓国人ということも一般の日本人にとってマイナスのイメージとなっていました。その上、世間からは『親泣かせ原理運動』というレッテルを貼られて、罵詈雑言を浴びせかけられていました。しかし、岸先生はそういうことには一切関心がありませんでした。世間の評価とかマスコミの情報というものがいかに薄っぺらなものであるかを自分自身がよくよく体験してこられていたのです。先生は自分の心に感じた真実を評価の基準に置いてくれました。世間が見る統一教会ではなく、先生の心に直接映る統一教会を見てくれたことが、私たち青年にとって大変ありがたいことでした。…岸先生に懇意にしていただいたことが、勝共運動を飛躍させる大きなきっかけになったことは間違いありません。国内においても国外においてもそれは言えることです。」(『日本統一運動史』、p.337)

岸信介元首相と文鮮明師

 そして1973年11月23日、本部教会において岸信介元首相は初めて文鮮明師と出会っている。その時の握手の写真が残されているが、二人は長時間にわたり意見を交換したという。

 1974年5月7日、東京の帝国ホテルで開催された文鮮明師の講演会「希望の日晩餐会」では、岸は名誉実行委員長を務めている。岸が自らの後継者として首相就任を悲願としていたのが福田赳夫であったが、この「希望の日晩餐会」では当時大蔵大臣であった福田赳夫が挨拶し、「アジアに偉大な指導者現る。その名は“文鮮明”である。私はこのことを伺いまして久しいのでありますが、今日は待ちに待ったその文鮮明先生と席を同じくし、かつ、ただいま文先生のご高邁なご教示にあずかりまして、本当に今日はいい日だなあ、いい晩だなあと、気が晴れ晴れとしたような気がいたします。」と語ったことは有名である。この岸・福田の流れを汲むのが「清和会」であり、自民党の保守派閥として国際勝共連合と長年にわたる関係を構築することとなった。

福田赳夫氏と文鮮明師

 岸元首相と文鮮明師の交流は、国際勝共連合を通じて晩年まで続いた。1984年に「世界言論人会議」開催の議長を務めた際には、米国で脱税被疑により投獄されていた文鮮明師の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送っている。

 岸と統一運動の関係を考えるうえで重要なのは、韓国との関係である。岸信介は難航していた日韓国交正常化交渉を朴正煕大統領と協力して一気に推進させた立役者の一人であった。岸は戦前に満州国総務庁次長を務めていたが、朴正煕大統領も満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫ら満州人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織した。一方、韓国の朴正熙大統領は軍人出身のリアリストで、北朝鮮の脅威から韓国を守ることを第一義と考えていた。彼の政策は「先建設・後統一」政策といい、まずは国家を再建して、あらゆる面で北朝鮮を凌駕した後に統一を図るべきという考え方であった。彼は南主導で韓半島を統一するためには韓国の経済力・技術力の近代化が必要であると考え、日韓国交正常化を通して日本からの経済協力金を受け取ることを最優先した。その結果「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を成し遂げたのである。要するに「岸・朴」の反共ラインによって日韓国交正常化が成立し、それが今日まで続く日韓関係を作り上げたといってよい。

 岸は戦後日本の防衛と発展のためには米国との関係が最重要であると考え、安保改定に力を注ぐと同時に、アジア諸国への善隣外交により、真の「大アジア主義」の理想を実現することによって日本の国際的地位を高めなければならないと考えていた。彼は明確な反共主義者であり、アジアに反共防衛体制を構築する必要性からも、日韓国交正常化は必要不可欠であると考えていたのである。

 こうした岸信介の価値観は、日韓米が一体となって共産主義の脅威から自由世界とアジアの平和を守るという統一運動の理念と一致するものであった。統一運動においては、岸信介元首相との因縁はたまたま南平台の教会本部の隣に岸が住んでいたという「偶然」ではなく、その政治理念からしてメシヤと出会うべく神が準備した人物であったと理解されているのである。

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