『生書』を読む29


第七章 道場の発足の続き

 天照皇大神宮教の経典である『生書』を読み進めながら、それに対する所感を綴るシリーズの第29回目である。第24回から「第七章 道場の発足」の内容に入った。第七章は、初期の布教活動がどのように行われたのかを臨場感をもって伝える記述になっている。それは一言でいえば、大神様のカリスマに惹きつけられて田布施周辺の人々が教えを請いに集まってきたということだ。このころの大神様と同志たちの関係は、家族的で美しいものであった。こうした関係は、新宗教運動の初期段階においては典型的なものであると言えるであろう。特に荒廃した終戦直後の日本においては、砂漠の中のオアシスのような、一つのユートピアを形成していたと思われる。

 しかし、大神様と同志たち、さらには同志たちの間の結束が強まっていく一方で、教団と世間一般との間には軋轢が生じることもあったことが『生書』には記されている。その原因は、同志たちが大神様と同じように人々の悪口をその面前で言ったり、世間の悪を痛烈に批判したりしたことにある。天照皇大神宮教にはどこか唯我独尊的なところがあり、それが世間の人々の反発を買ったということだ。

 その唯我独尊的な態度は、既存の神社仏閣に対する態度にも現れていた。昭和20年10月1日に大神様は同志とともに八和田の八幡宮に行かれたのだが、神殿に上がっていつものようにお祈りをされると、これまでは神眼にいつも出てきた氏神がその日は出てこなかった。そのときに肚の神様はこう言ったという。
「今日から秋(空)の宮に、秋(空)の寺、十月は神無月というて、昔から神々が出雲に集まると言うたが、出雲にも集まらぬようになった。これからはわれ(お前)方の屋敷に、みな集まるのじゃ。賽銭櫃や鳥居のある所には、神も仏もおらなくなるぞ。神の出店をみんな引き揚げるのじゃ。」(p.192-3)

 この日から大神様は、すべての宮にも寺にも参られなくなり、同志にも参るのは無駄だと説かれるようになったという。これは既存の神道や仏教との決別宣言であり、その効力を否定しているということである。このシリーズの第16回でも既に述べたことであるが、大神様はあまりエキュメニカルなタイプではなかったようである。自分の信仰に対する強い確信のゆえに、どこか唯我独尊的なところがあり、他の宗教と対話をしたり、そこから何かを学ぼうという姿勢は感じられない。他の宗教と協力したり連携したりするという発想もないようだ。

 もともと大神様は大変信心深い人であった。大神様の実家は浴本家であるが、両親は熱心な浄土真宗の門徒であり、大神様も子供のころには両親に連れられて寺参りをした。しかし教祖となられてからは、大神様はこの浄土真宗の信仰を容赦なく切って捨てたのである。大神様から見れば、「悪人正客」や「他力本願」を説く浄土真宗の教えは、人々に行の努力を怠らせて堕落させる無責任なものであり、真宗の宗教者たちの姿は腐敗したものに映ったのであろう。

 大神様は伝統宗教だけでなく、新宗教に対しても批判的であった。その中でもおもしろいのが「成長の家」の谷口雅春氏に関する部分である。大神様は当時、知人であった岩国市の弁護士吉武三六氏から招待されて、谷口雅春氏の講習会に参加したことがあった。ところが、その講習会に出ると、肚の神様は谷口氏に対して、下級の神が降りているだけだとか、短冊売りや本売りになり下がって邪神のおもちゃになっているとか、手厳しい批判を始めたのである。

 しかし、教団と世間一般との間には軋轢が生じるようになったより本質的な理由は、同志たちの態度にあった。それについて『生書』は以下のように記している。
「その頃から、同志の中には、かつて大神様がなさったように、街頭において、常会において、または家庭において、突如として人の悪口をその面前で言うたり、神行の道を説いたりする者が出てきた。平生思いもせぬことが、口をついて出るのである。」(p.194)

 ある同志は常会に行って、それまでの配給物分配の不公平をいちいち暴き立て、「おれは北村へ参るようになって、神様を背負うておるのだ。これから後、ごまかしをやりやがったら、このおれがただじゃおかんぞ。」(p.195)と啖呵を切ったという。

 こうした報告を聞いたときの大神様の反応は、それをたしなめるどころか、むしろ逆に「よく肚をつくった。肚がなくちゃ行かれない神の国じゃから、しっかり肚をつくれよ。」(p.196)と褒められたので、同志たちはますます積極的に肚練りをするようになったという。こうした態度に対して世間の人々は、「北村に参ると、みんな気違いになる。あれだけみんなを気違いにしなけりゃよいのに。」「北村のおばさんが神様なんて、ばかばかしい。あれはおれらの同じ人間じゃあないか。」(p.196)と言って白眼視するようなったという。
「一方同志たちは、自分たちは神の子で、一般人は蛆虫だ、蛆の国と神の国とは別の国だし、蛆などと交際すると自分がけがれるぐらいに思い、同志と世間の人との溝は深くなるばかりであった。」(p.197)と『生書』に記されているように、教団と世間一般との間にはかなり深刻な軋轢が生じていたようである。

 問題はこの現象をどうとらえるかということであろう。統一教会にも世間一般との間に軋轢を経験してきた歴史があるだけに、とても他人事とは思えない。私はこのシリーズの中で、カリスマ的教祖というものは特殊な存在であり、ときには神の視点からこの世を見て、常識的には暴言といえるような失礼な言葉や態度を示すことがあると述べた。大神様は人々に向かって「蛆の乞食」と呼び、イエスは律法学者やパリサイ人たちに対して「へびよ、まむしの子らよ」と言い放った。そして世の中においてどんなに偉いとされている人に対しても、常に「上から目線」で語るのが教祖なのである。通常は人の悪口を言えば嫌われるものだが、それでも人を魅了してしまうのが教祖のカリスマである。

 しかし、これを一般の信徒たちが真似したらどうなるであろうか? 恐らくそれはひどく傲岸不遜な態度に見え、社会との間に軋轢が生じるに違いない。しかし、初期の新宗教運動や根本主義的なキリスト教においては、この世から憎まれることこそが自分たちが神から選ばれ、愛されている証拠であるという発想があるのである。

 イエスはヨハネ伝15章18~19節において、「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。」と語っている。これは、「自分たちは神の子で、一般人は蛆虫だ、蛆の国と神の国とは別の国だし、蛆などと交際すると自分がけがれる」という天照皇大神宮教の同志たちの発想とほぼ同じである。この世から憎まれ、迫害されることが、逆に信徒たちの「選民意識」を高めるという精神構造になっているのである。

 アメリカの神学者H・リチャード・ニーバーは、著書『キリストと文化』(Christ and Culture)において宗教(キリスト)と文化との関連を5つに分類しているが、こうした発想は典型的な「Christ against Culture(文化に対立するキリスト)」に属するものである。宗教と世俗の文化はあくまで対立するものであり、互いに相容れないものなのだ。

 初期の統一教会にも、間違いなくこうした精神構造は存在した。そしてそれは、根本主義や福音派のクリスチャンたちの「この世」に対する態度にも通じるものがある。しかし一方で、統一教会と天照皇大神宮教には「この世」を変革して神の国を造っていくのだという信仰もあるので、「Christ the Transformer of Culture(文化の変革者としてのキリスト)」という立場をも内包している。だから山奥や修道院にこもって隠遁することを勧めているのではなく、世間に積極的に働きかけることを命じているのである。

 社会学的には、こうした一般社会との軋轢は新宗教運動の初期に見られる典型的な現象である。それは教祖と信者が一つとなり、信仰集団の核を形成することがなによりも重要視され、信仰の純粋性を高めていくことに集中しなければならない時期なので、世間と妥協してはならないのである。しかし、教団が成長するにしたがって、こうした世間との軋轢は次第に緩和されていくものである。それは教団が社会の中で一定の地位を確立した段階で訪れる一つの変化であり、教団としての成熟期に入ったことを意味する。昭和20年の天照皇大神宮教はまだそれ以前の段階であり、大神様の教えに同志たちが忠実に従い、結束を強めることが何よりも重要視されていたと言える。そのために世間の人々から嫌われることなど、何とも思っていなかったのである。

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