書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』197


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第197回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の続き

 第194回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入った。この章の二番目の目的は、『本郷人』が信者教化に果たしている役割を分析することにあった。「五 統一教会的思考の枠組みの維持・強化に果たす『本郷人』の役割」は、まさにこの目的のために設けられた説である。中西氏によれば、『本郷人』の役割には以下の三つがある。

「①行事や儀式開催の記事は理想世界実現のための復帰摂理が実際に進行していることを伝える。
 ②行事や儀式で語られた文鮮明の御言葉から信者は家事育児に追われる中にあっても統一教会の教えを再確認できる。
 ③証しは同じような境遇にある信者を勇気づけ、家庭生活や夫婦生活についてのアドバイスの記事は悩みの解決や生活指針となる。」(p.530)

 宗教団体の発行する新聞に教団主催の行事に関する記事、教祖の言葉、信者の証しなどが掲載されるのは当たり前のことなのだが、中西氏はここであえて日本と韓国の違いを強調して『本郷人』の役割を分析している。すなわち、日本では信徒たちは管理された状態にあったが、韓国では「非原理世界に放り出された状態」になっているので、信仰の意味を見失いかねないから、こうした出版物が必要だというわけだ。「教団にとって『本郷人』は在韓日本人信者の思考の枠組みを強化し、日本で培った信仰を維持させる役割を持っている」というわけだ。

 宗教団体が信徒の信仰を維持させようとするのは当然である。統一教会の場合、青年期に入教した者は集団生活を通して信仰を強化していく場合があるが、やがて家庭を持てば家族単位の生活に移っていく。これは日本にいても韓国にいても同じである。その際に信仰を維持するための代表的な手段が日曜日ごとの礼拝の参加と出版物の購読である。日本には光言社という教団の出版社があり、そこから発行される新聞、雑誌、映像ニュースなどを通して、信徒たちは最新情報を入手して信仰を強化している。信仰生活の基本は礼拝に参加することだが、日本にも仕事の都合や地理的な要因で礼拝に出られない信者はいる。そうした場合には出版物を通して信仰を維持強化することはある。韓国にも成和社という出版社があり、同様の機能を果たしているが、『本郷人』の特徴は日本人コミュニティーのために日本語で出版されているということだ。

 したがって、『本郷人』の役割は基本的に日本で光言社が信徒向けに出版している媒体と同じであり、在韓日本人信者だから特別に出版物を必要としているわけではない。韓国教会における『本郷人』の特徴をあえて挙げるとすれば、母国語で書かれているために日本人信者には読みやすく、編集の観点も日本人に合わせているため、成和社の出版物よりも親しみやすい点にあると言える。こうした媒体は、英語圏やその他の言語圏の外国の統一教会の日本人コミュニティーも存在するかもしれないが、在韓日本人は数の上で圧倒的に多いので最も充実した内容になっているのであろう。中西氏は『本郷人』の役割について、「統一教会的思考の枠組みの維持・強化」といった「マインド・コントロール」を匂わせる表現をあえて用いているが、要するにごく普通の教団の出版物に過ぎないのである。

 中西氏が復帰摂理の進行を表している記事として紹介しているものは、2003年から2008年にかけて行われた統一運動の行事に関するものであり、その時代を信者としてリアルタイムで生きた私としては、どれも懐かしいものである。特に私はUPFの事務次長だった時代にこれらの行事の多くに参加しており、復帰摂理の進行をこうした新聞記事ではなく現場で直接感じる側に立っていた。

 中西氏が『本郷人』の第二の役割として挙げている「2 原理の再確認」という部分では、「『本郷人』を読む信者は『原理講論』を開かなくても、礼拝に参加できなくても、『本郷人』を読むことで教説を復習し、韓国に嫁いだ意味を再確認することできる。」(p.532)としている。これも教団の出版物の当たり前の機能である。中西氏は文鮮明師が2003年に語った「真のご父母様誕辰記念式」の講演、さらには2005年に語った「天宙平和連合創設大会基調演説文」を抜粋して紹介している。後者はUPFの創設大会でのメッセージであり、私はこれをニューヨークのリンカーンセンターで直接聞いている。「天宙平和連合」は世界の紛争解決と平和実現には機能不全に陥っている国連に代わって、神の創造理想である平和世界の実現のために「新しい次元でアベル的国連の機能を発揮できる新しい国際機構」とされる、という中西氏の解説は正確な表記だと評価できる。

 中西氏は、こうした講演は信者向けに語られたものではないが、その内容は統一教会の教説そのものであると指摘する。そして信者はこうした内容を『本郷人』で復習することを通して、教祖に対する感謝の念を強くし、統一教会の世界観を強化しているというのである。UPFの創設大会の講演文についても、「現在の国連を『カイン的』、天宙平和連合を『アベル的』と表現し、現実の世界を統一教会の世界観に取り込んで解釈しているが、これは統一教会の世界観の強化として捉えられる。信者は同じ世界に生きながらも、この世はサタンの支配にあると見ているように、同一のものを見ても解釈は教団固有の枠組みでなされる」(p.535)と分析して、あたかもそれが特別なことであるかのように表現している。

 しかし、そもそも「世界観」とはそのようなものではないだろうか? われわれはみな同じ世界に生きながらも、それぞれが独自の世界観を通して世界を見つめており、個人において世界観が異なるのと同様に、集団間の世界観の違いというものが存在する。同じニューヨークに住んでいても、根本主義者のクリスチャンと、無神論者のビジネスマンと、移民のイスラム教徒では全く違った世界の見つめ方をしているであろう。彼らは同一のものを見てもそれぞれ固有の枠組みでそれを解釈し、行動するのである。日本人とアメリカ人と韓国人では同じニュースを聞いても解釈や反応は異なるであろうし、中東や南米の人々はそれとはまた違った見方をするであろう。こうした多様な世界観が存在する中で、統一教会の信徒たちが自らの教説に従って世界を見つめることは至極当然なことであり、教団がその世界観を維持・強化しようとするのも何ら特別なことではない。

 このことはあまりにも当然なので、中西氏はあえて「フォーデーズセミナーでは『お父様の詩』が朗読され、信者は真の父母に対する負債を感じ献身を決意したが、この記事も『お父様の詩』と同じような役割を果たす。」(p.535)と解説して、その特異性を強調しようと試みている。実は、中西氏自身は日本の統一教会に対する調査を行っていないので、この「お父様の詩」に関する知識は受け売りである。これは統一教会信者が伝道されるプロセスについての櫻井氏の記述に登場し、修練会の最中にこの詩を朗読する儀礼が行われると、受講生の感情が揺さぶられ、正常な判断力を失ってしまうと主張されているものだ。実はこれと同じことを札幌「青春を返せ」裁判の原告たちも主張しており、この詩が朗読されると、内容に感動して号泣する受講生が続出し、情緒に訴えられた結果として文師をメシヤと受け入れてしまうようになるのだという。はたしてこの詩にそれほどの魔法のような効果があるのかどうかははなはだ疑問だが、中西氏の主張にはかなりの無理がある。

 櫻井氏の記述によれば、この「お父様の詩」はフォーデーズセミナーにおいて「イエス路程」の講義が終了した後に、セミナー室の明かりが消され、ろうそくを持った班長達が並ぶ厳粛な雰囲気の中で、荘厳に朗読されるものであるという。修練会という特殊な環境の中で、感情が盛り上がってきたところで演出効果を伴って読まれるので、感情が揺さぶられるというのが櫻井氏の主張である。そして詩の内容は情緒的なものだ。

 一方で、中西氏が引用している「真のご父母様誕辰記念式」(2003年)の講演と「天宙平和連合創設大会基調演説文」(2005年)は、対外的に開かれた場で非信者の聴衆に向かって語られた講演である。私は後者の講演が行われたニューヨークのリンカーンセンターにいたが、参加者は世界各国の政界、宗教界、学界、言論界、およびNGOなどの指導者たちであった。日本からもこうした人々を連れて行き、彼らのケアーをするのが私の役割であった。つまり、この講演文は文鮮明師の信念や世界観を表明したものであるとはいえ、信者に対してではなく広く一般社会に向けて発信した内容なのである。このようにまったく状況の異なる場で語られたスピーチを、「お父様の詩」と呼ばれる出典不明の文章と同じ役割であると強弁するのは、あまりにも無理がある。あえてそうしなければならなかった理由は、出版物の購読というどこの教団でもやっているごく一般的な宗教実践に、「洗脳」や「マインドコントロール」の匂いを吹きかけるための装飾が必要だったということだろう。姑息で稚拙な小細工としか言いようがない。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』196


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第196回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の続き

 第194回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入った。この章において中西氏は、韓国家庭連合が発行する新聞『本郷人』に掲載されている信者の証しを分析することを通して在韓日本人信者の全体像を把握し、それを自身のフィールドワークによる調査結果と比較している。その中で中西氏は、「3 本郷人互助会の援助対象者」という項目を設けて、祝福家庭の中でも特に困難な状況にある家庭の状況を一覧表にして掲載している。互助会の援助を受ける者たちは、病気、事故、災害、詐欺などで緊急支援を要する祝福家庭である。中西氏が出会った在韓日本人信者の中にはこれほど困難な状況にある祝福家庭はいなかったため、これらは特殊事情と言える。

 実は中西氏は本章と同じ内容を「韓国に渡った統一教会日本人女性信者の実態」と題して『宗教と現代がわかる本2011』(平凡社)に掲載しているが、これに対して統一教会広報局が2011年6月13日付で「抗議及び謝罪要求」を出している。抗議の趣旨は、中西氏が『本郷人』の証しの中から「過去の困難な状況」の部分だけを抜き出し、みんなで助け合った結果「今は幸せになりました」という、事実伝達で最も重要な結論部分を意図的に省いている点だ。これは「韓日祝福家庭は困難な状況にある」という印象を読者に与えようとする悪質な情報操作であり、侮辱であるというわけだ。しかし私は、本章を全体として見るとき、問題点は個々のデータよりもむしろ「4 調査事例との比較」と題した価値判断の部分にあると思ったので、今回はこの点について分析を行いたい。

 中西氏が『本郷人』に掲載された信者の証しを分析した目的は、彼女の調査対象が「はずれ値」ではなく、在韓日本人信者の平均的な姿であるかどうかを確認するためであった。この問いに対する中西氏の結論は、「調査事例は、ソウル中心部での事例を除けば、在韓の韓日祝福家庭のほぼ平均的な姿と見て差し支えないだろう。」(p.528)というものである。社会学的な調査結果の報告であれば、これで目的を達成したはずであり、それ以上の記述は必要ないはずである。ところが中西氏はまたしてもここで主観的な価値判断が込められた評価を行っている。調査の結論は、大多数の在韓祝福家庭婦人は経済的には楽でなかったとしても何とか平穏無事に暮らしており、一部に特別な支援を受けなければならない困難な家庭が存在するが、彼らは信徒の互助組織から援助を受けているというものであった。しかし、これでは「統一教会に対する批判的な研究書」であるという本書の目的が果たせないと感じたのか、いきなり以下のような記述が始まるのである。
「調査事例や『本郷人』の事例から浮かび上がってくる韓日祝福の家庭の様子は、日本人女性達が生まれ育った家庭よりも経済的・社会階層的に下降移動した暮らしである。もし彼女達が統一教会に入信せずに日本で一般の結婚をしていたならば、おそらく経験せずに済んだ暮らしぶり、生活水準であろう。経済的安定や都市部に暮らすことだけが幸福の基準になりえないにしても、彼女達の韓国での暮らしは信仰のもとに強いられたものである。統一教会では、韓日祝福は怨讐を超えた理想の結婚であり、自分で望んでできるものではなく神の召命であると教える。韓日祝福は最も理想の結婚と強調しながら、現実はその逆である。それでも困難を乗り越えてこそ神に嘉される理想家庭となると説き、日本人女性達に忍耐と努力を求める。」(p.529)

 農村に嫁いだ日本人女性達の結婚が「下降婚」であったことが客観的な事実であったとしても、それが信仰のもとに強いられたものであるという彼女の主張には全く根拠がない。以前にも紹介したが、中西氏が最初に書いた論文である「『地上天国』建設のための結婚一ある新宗教教団における集団結婚式参加者への聞き取り調査から一」(「宗教と社会」Religion and Society 2004, Vol.10: 47-70)においては、「統一教会の結婚は、男女が好意をよせ合った結果の結婚とは異なるが、彼女たちにとって自己実現となり得るものであった。…。彼女たちの語りから構成してみると、合同結婚式を受け入れ、韓国での結婚生活を継続できるのは、彼女たちが元来もっていた欲求と統一教会の結婚観が一致した結果であると解釈できるものとなった。…筆者は、欲求と統一教会の結婚観とに一致がなければ、彼女たちがA郡に暮らすまでに至らなかったのではないかと感じる。」(上記論文のp.64-65)と書いてあるように、調査直後の記述においては、この結婚が強いられたものであるとはひとことも言っておらず、むしろ肯定的な評価をしているのである。それが本書においては「信仰のもとに強いられた」という真逆の評価に差し替えられているのだ。このような主張の「ブレ」を見ても、彼女のこの記述はをそのまま信じることはできない。そもそも、「信仰のもとに強いられた」という表現自体が矛盾をはらんでいて意味不明である。信仰に基づく行為であれば、それは本人の主体的意思であるはずだ。強いられるとは本人の意思に反して強制されることだが、中西氏の記述する日本人信者たちの生活の様子には、強制の要素は一切見当たらない。中西氏は「自分で望んでできるものではなく神の召命である」という教えをその根拠にしていると思われるが、神の召命は個人の内面における宗教体験によって主観的に感じられるものであり、他者が強制できるものではない。こうした発言は中西氏が「宗教音痴」であり、宗教的な事柄に対しては専門的な発言をする資格がないことを示している。

 もう一つの中西氏の問題は、「韓日祝福は最も理想の結婚」であるという統一教会の宗教的観念と、韓日祝福家庭の現実の貧しさをごっちゃにして「逆である」という価値判断をしていることである。日本人女性達は経済的な豊かさを求めて韓日祝福を受けたのではないし、韓国の田舎の現実を知らないわけでもなかったにもかかわらず、そこに宗教的な意義を見出して韓国に嫁いできたのである。彼女たちが思い描いていた「理想の結婚」は、経済的な豊かさを求めるという世俗的な「理想」とは全く関係がない。それを「逆」であると同一次元で対比させる中西氏の論法は、統一教会の宗教的価値観に対して世俗的な価値観を押し付けて批判していると言える。中西氏は続けて以下のように書いている。
「証しに綴られている内容も舅姑に仕えた、問題ある夫だが夫に感謝し立てるようにした、自分に問題があったと改心した、夫が失業したときは働いて生活を支えたなど、現状をそのまま受けとめ、耐えて頑張ったという話が中心である。よく耐えて暮らしているものだと思うが、統一教会では人類始祖の堕落によって世界はサタンの支配となったのだから苦労するのは当然と考える。堕落で人間が背負った原罪、自犯罪、遺伝罪、連帯罪は、苦労することで清算、すなわち蕩減になるとされる。苦労は意味づけされることによって宗教実践となる。在韓の日本人信者は、苦労を地上天国のため、霊界で幸せに暮らすためには必要な宗教実践と受けとめて暮らしているわけである。人間だれしも苦労したくはないが、同じ苦労であっても意味がある苦労なら耐えられるのと同じで、彼女達も蕩減という意味づけによって苦労を甘受している。」(p.529)

 自分の身の回りに起こる苦労が罪の清算であるとか、先祖の因縁であると捉えるのは、統一教会に限らず多くの宗教の教えに共通している。苦労が意味づけされることによって宗教実践となるというのも同じである。中西氏はそもそもそういう考え方一般をどう評価しているのだろうか。記述を見る限りでは、彼女の主張には一貫性がなく、ブレまくっていると言えるだろう。彼女は、そうした生活をしている女性に直接インタビューをしたわけであるから、ある意味で同じ女性として、苦難に立ち向かう彼女たちのたくましい姿に敬意を抱いた面もあったのだろう。その一方で、「日本人女性信者達だけが地上天国を目指して孤軍奮闘しているように思えてならない」(p.529)という批判も忘れない。日本人女性そのものを責める気持ちにはなれないので、その周辺にいる夫や舅姑、統一教会、韓国社会の構造などターゲットにせざるを得ないのであろう。しかし、犠牲者たる日本人女性たちが感謝してたくましく生きているのであれば、この主張も説得力がない。

 この項目の最後の記述もまた、中途半端な内容になっている。
「結婚難にある地方の男性やその家族にとっては、嫁いで来てくれて、経済的に貧しくても不平不満を言わずに尽くしてくれる日本人の妻はありがたい存在である。また証しにあるように、周囲の人々との交流を通して日韓の不幸な歴史のわだかまりが解消されるならば、それに越したことはない。この点は認めるにしても日本人女性達が払っている代償(彼女達は代償とは思わないだろうが)もまた大きい。」(p.529)

 中西氏の主張は、一言でいえば「アンビバレント(ambivalent)」ということになるであろう。これは同じ物事に対して、相反する感情を同時に抱くことであるが、中西氏が研究の最初の段階で日本人女性たちに抱いた感情は、最初は驚きと好奇心であり、それが次第に共感と感服に変わっていった。信仰を共有しないまでも、こうした人生もあるのだといったんは受け入れたのである。にもかかわらず、その後の統一教会反対派からの批判を受けて、彼女は韓日祝福を批判しなければならない立場に追い込まれ、そうした義務感から取ってつけたような批判を展開しなければならなくなったのである。これは彼女自身の保身のためでもある。中西氏の客観的な調査研究に比べて、主観的な評価の論理が破綻したり矛盾したりしているのはそのためである。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』195


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第195回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の続き

 先回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入った。この章において中西氏は、韓国家庭連合の家庭局国際部が発行する月刊のタブロイド判新聞『本郷人』に掲載されている信者の証しを分析することを通して在韓日本人信者の全体像を把握し、それを彼女自身のフィールドワークによる調査結果と比較している。その目的は、①中西氏の調査対象が「はずれ値」ではなく、在韓日本人信者の平均的な姿であるかどうかを確認するためであり、②『本郷人』が信者教化に果たしている役割を分析するためであった。前回紹介した中西氏の結論は、①『本郷人』の掲載されている事例は「筆者が調査した事例は韓日祝福家庭のごく一部でしかないが、証しの事例と比較しても大差がない。」(p.521)というものであり、また②「『本郷人』は在韓日本人信者にとって信仰強化のテキスト」(p.516)である、というものであった。私自身はこの結論に対しては特に異論はない。

 中西氏は本章の中に「2 日韓祝福の男性信者」をいう項目を設けて、16名の在韓日本人男性信者の証しの内容を一覧表で紹介している。男性信者の特徴は高学歴でかつ社会的階層が高いことだ。中西氏によると、「日本の大学や大学院を卒業・修了しているものは二名を除き大学名が明記されていたが、有名国立・私立大学ばかりだった」(P.522)ということである。こうした男性信者の特徴は、地方の農村で暮らす女性信者とは明らかに異なっている。女性信者は結婚難にある農村男性に嫁いだことにより、夫の社会階層によって家庭の経済状況が大きく影響を受ける。しかし、男性の場合には自分自身の能力で経済基盤を築いていくことになり、日本人であることを生かした職業につければ社会的成功を収めることも可能である。

 中西氏は、「在韓の日本人男性信者は300人程度であり、証しを載せている男性はその中の一部にすぎないため、これでもって在韓日本人男性信者の平均的な姿かどうかは判断できない」(P.524)としている。社会学者としては当然の慎重な見解といえるだろうが、「『本郷人』に証しを載せている男性信者はうまくいっている事例と見る方がいいかもしれない。」というただし書き付きである。在韓の日本人男性信者の情報には、地方に嫁いだ女性信者のような苦労の匂いがしない。日本で有名大学を卒業して渡韓し、韓国でさらに高等教育を受けたり、大学で教員をしたりしている。そもそも彼らは、韓国人女性の配偶者となるべき男性が不足しているので、日本から韓国に婿に来たわけではない。基本的には信者同士の結婚であり、日韓の交叉祝福を受けた動機も、文鮮明師のビジョンに共鳴したという宗教的なものであろう。

 『本郷人』に掲載されている男性信者は6500双や3万双が多く、私とほぼ同世代である。推測に過ぎないが、有名国立・私立大学の出身者が多いのは、原理研究会を通して伝道された者が多いからではないだろうか。私の知り合いの原理研究会OBの中にも韓国で活動している者はいる。日本で有名大学を卒業していればもともと能力があり、原理研究会の活動を通して訓練を受けている。彼らが韓国語を習得すれば、韓国社会で活躍することは十分に可能であると思われる。

 実際には、日韓祝福の場合には韓国人の妻が日本にお嫁に来るパターンの方が多く、私の周辺にもこうした韓国人夫人は多くいる。夫が日本人であるにもかかわらずあえて韓国で生活するのは、夫が韓国で一定の収入を得ることができる場合に限られるであろう。その結果として、在韓日本人男性が高学歴で社会的階層が高くなるのはある意味で必然的ともいえる。私が韓国で一緒に生活した日本人男性信者の中には、私が日本に帰国した後も韓国に残った者がいた。しかし、現在に至るまで韓国に残っている者は少数であり、ある段階(3~5年後)で日本に帰国している。その意味で、韓国で生活基盤を築くことに成功した日本人男性は、選ばれた者たちであると言えるのではないだろうか。

 次に中西氏は、「3 本郷人互助会の援助対象者」という項目を設けて、祝福家庭の中でも特に困難な状況にある家庭の状況を一覧表にして掲載している。中西氏がA郡、B市、ソウルで出会った信者たちは、経済的に楽ではなくても、とりあえず平穏無事に暮らしている祝福家庭であった。それに対して互助会の援助を受ける者たちは、病気、事故、災害、詐欺などで緊急支援を要する祝福家庭である。本郷互助会は2003年に発足し、困難な状況にある祝福家庭に対する経済的・物質的支援を行っているというが、その支援の内容が『本郷人』の2004年4月号から2006年7月号にかけて43例掲載されており、中西氏はそれを一覧表にまとめて紹介している。

 その一覧表には、夫の困難さの内容として、アルコール依存症、がん、精神障害、糖尿病、死亡などが列挙され、妻の困難さとしてはがんなどの病気が挙げられている。夫婦ともに病気の家庭も存在する。子供の困難さとして挙げられているのは自閉症、脳腫瘍、甲状腺水腫、聴覚障害、心臓病、がん、けいれんなどの病気がほとんどである。経済問題としては、保証人となって借金を背負った、事業がうまく行かず借金がある、夫の失業、夫がお金を貸して返ってこないなどの事情が書かれている。援助の内容は米20キログラムを数カ月から1年間にわたって支援したり、事情に応じて数十万ウォンから数百万ウォンの見舞金が送られるなど、具体的なものだ。

 中西氏が出会った在韓日本人信者の中には、これほど困難な状況にある祝福家庭はいなかったため、これらの事例は全体の中では特殊事情と言える。韓国に在住する韓日祝福家庭がすべて理想的・模範的な生活をしているわけではなく、こうした困難な事情を抱えている家庭が存在することは事実であろう。特定の宗教を信じたからといって、人生の悩みや困難がすべて消えてなくなるわけではないし、信徒たちはそう思って信仰しているわけでもない。むしろ、宗教はそうした困難に対して意味づけをし、克服するための力を与えてくれるものである。それは統一教会の場合も同様で、祝福を受けたからといって問題が消えてなくなるわけではなく、むしろ信仰によってそれらを解決していく歩みが継続するというのが現実だ。

 本郷人互助会の記事が示しているのは、第一に統一教会がこうした祝福家庭の困難を隠すことなく開示し、信徒に共有しているという事実である。教会の信仰生活を理想的なものに見せたいなら、あえてこのような情報を掲載したりしないであろう。第二にこうした具体的な問題に対して、統一教会は宗教的・精神的なサポートを与えることにとどまらず、経済的・物質的なサポートもしているということだ。統一教会信者の間には互助の精神があり、弱者に対する優しさを持った団体であることが分かる。

 櫻井氏は本書の中で、「統一教会の信者は、地上天国の実現、霊界の解放という宗教的理念のために世俗的生活を犠牲にする。一般市民にとって重要な生活の安定、家族の扶養、老後の保障といった問題を一切度外視して、文鮮明をメシヤとして信奉し、配偶者選択から家庭の将来まで含めて一切を委ねきる。」(p.167)と評したことがあった。櫻井氏の描く統一教会のイメージは、信徒がただひたすら教団のために犠牲になり、その結果として信徒が悲惨な状況に陥ったとしても、教団はそれを一切顧みることはなく、搾取し続けるというものであった。しかし実際には統一教会にも互助の精神はあり、弱者に対する優しさが存在することが、本郷人互助会の記事によって明らかになったのである。

 実は中西氏は本章と同じ内容を「韓国に渡った統一教会日本人女性信者の実態」と題して『宗教と現代がわかる本2011』(平凡社)に掲載しているが、これに対して統一教会広報局が2011年6月13日付で「抗議及び謝罪要求」を出している。
https://www.ucjp.org/archives/8443

 抗議の趣旨は、中西氏が『本郷人』の証しの中から「過去の困難な状況」の部分だけを抜き出し、みんなで助け合った結果「今は幸せになりました」という、事実伝達で最も重要な結論部分を意図的に省いている点だ。これは「韓日祝福家庭は困難な状況にある」という印象を読者に与えようとする悪質な情報操作であり、侮辱であるというわけだ。本書においても、一覧表でまとめられているのは困難さの内容と援助内容だけであり、それを受けた祝福家庭の感謝の思いは表現されていない。確かにそれは情報伝達における瑕疵であると言えるかもしれないが、本章を全体として見るとき、問題点は個々のデータよりもむしろ「4 調査事例との比較」と題した価値判断の部分にあると言える。次回はこの点について分析を行いたい。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』194


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第194回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第一〇章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」

 先回で「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」の内容に対する分析を終了したので、今回から「第10章 『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」の内容に入る。この章は、中西氏自身によるフィールドワークの調査結果を示したものではなく、文献に基づく研究であり、その知見を自身の調査結果と照合しようとしている。中西氏は、この章の冒頭で以下のように述べている。
「本章では、統一教会発行の祝福家庭向け新聞『本郷人(ポニャンイン)』を用いて在韓日本人信者達の全体像を把握し、筆者の調査事例の相対的な位置を確認すると共に、『本郷人』が信者教化に果たす役割を考察したい。」(p.515)

 中西氏の調査対象は農村のA郡、都市近郊のB市、ソウル中心部と、性格の異なる地域にまたがっているとはいえ、サンプルが38名と少ないうえに、ランダム・サンプリングによって得られた調査対象ではなく、別の研究の途中で偶然に出会った信者たちと、そこからの紹介によって出会った調査対象であった。自身の調査対象が平均的なデータだったのか、「はずれ値」だったのかを知るために、文献に登場する統一教会信者の暮らしぶりと比較するという手法は間違っていない。

 一方で、『本郷人』は統一教会が発行している新聞であるため、統一教会にとって都合の悪い内容は削除され、模範的な証しだけが掲載されているのではないかという推測が成り立ち、別の意味で「はずれ値」ではないかという疑いがある、というのもうなずける話である。ところが、実際に『本郷人』を読んでみた中西氏の印象は、むしろ在韓日本人信者の実態をかなり正直に表しているというものであった。その理由として中西氏は、『本郷人』が基本的に内部向けの新聞であるため、外部の目を意識した紙面にはなっていないことと、実際に悩みに直面している信者たちを励まし勇気づけることが証しを掲載する目的であるため、困難な状況を信仰によって克服した証しこそが模範的な証しであると考えられているからであるという。すなわち、『本郷人』にはきれいごとばかりが書かれているのではなく、克服した困難の程度が甚だしいほど良い証しだということで、外部の目を意識していれば掲載を控えるような信者の生活実態までも、むしろ赤裸々に報告されているというわけだ。

 渡韓した日本人信者達は、韓国で家庭生活を送るうえでさまざまな問題に直面する。日本で培った信仰を韓国に渡ってからも継続できるかどうかは、こうした問題に対処できるか否かで決定する。もしこうした問題の解決を個々の信者にのみ任せ、孤軍奮闘するような状況においてしまえば、祝福を受けて渡韓した意義や目的を見失ってしまうことになりかねない。近所の先輩信者からアドバイスを受けるというのも励ましになるであろうが、全国から情報を集めて掲載したものを読めば、苦労しているのは自分だけじゃないんだ、みんな大変な中を頑張っているんだという気持ちになり、勇気づけられる。そういう意味で「『本郷人』は在韓日本人信者にとって信仰強化のテキストといえる」(p.516)という中西氏の指摘は正しいであろう。

 『本郷人』は、韓国家庭連合の家庭局国際部が発行する月刊のタブロイド判新聞であり、その内容は以下の二つに大別される。
①文鮮明師の御言葉、教会関係の大会、修練会、行事のニュース、およびそれらに参加した感想文など、神の摂理の動向を伝える内容。
②信者の証し、インタビュー、家庭生活・夫婦生活のアドバイス、子育て・二世教育に関する内容、韓国文化紹介、読者の投稿など、在韓日本人の生活に即した実践的な内容。

 中西氏は『本郷人』に掲載されている証しをまず400個ピックアップし、そのなかから修練会の感想文を除いた212個の内容を分析している。そのうち家族関係に関するものが76件あり、全体の19パーセントを占めるという。この部分が中西氏の関心事であり、彼女は以下のように述べている。
「家庭関係の証しのかなりの部分が嫁姑、夫婦関係、子供についてであり、『舅姑』は難しい舅や姑にどのように仕え、関係を改善したかが中心である。それに対して『夫婦』の内容は、問題がある夫(喫煙飲酒、家庭内暴力、信仰がない)、夫婦生活(妻が夫を受け入れる、夫が妻を受け入れる)、夫の障害、夫の死亡などについてであり、『舅姑』よりも証の内容が多様である。」(p.519)
「家族関係の証しは家族問題克服の証しといっていい。嫁姑関係、夫婦関係をはじめとして、不妊克服、妊娠・出産、養子などに集中しており、いわばいかにして理想的な祝福家庭になるように努力したか/しているかの証しである。」(p.520)

 中西氏は、信者達の家族関係や生活の様子が書かれている証しの中から、特にその内容がよくわかるものを40個抜粋して、本書の巻末資料4「『本郷人』の証しに見る祝福家庭の様子としてまとめている。その資料を一通り読んでみると、まさに千差万別の人生の記録であり、感慨を禁じ得ない。中西氏は客観的な暮らしぶりを自分の調査対象と比較するために、表面的な事実だけを抽出してまとめているのだが、同じ信者としてこれらの証しを読むときには、頭が下がるような思いになる。中西氏は客観的な社会学者として、あえて距離をおいて感情移入しないようにしているのかもしれない。それくらい、一つ一つの証しは内容が濃いものだ。

 舅姑との関係においては、いじめられたり暴言を吐かれたりしても感謝して仕えたところ、最終的には嫁として認められ、結果的に彼らを伝道することができたというストーリーがいくつか紹介されている。夫の暴力、酒や煙草などの問題に耐えながらも、夫を立てながら歩んでいるうちに夫の問題行動が改善したという証しも見られる。文章にしてしまえば簡単だが、その試練を乗り越えていった女性たちの信仰は驚異的なものである。信仰の力というものを感じさせてくれる証しである。

 夫に特に問題がなくても、夫婦間でお互いを受け入れることができない葛藤の証しも存在した。女性の場合には性に対する潔癖な性格から男性を受け入れることができず、男性の場合には容姿の問題で妻を愛せなかったのを乗り越えていったという証しが見られる。夫が障がい者になったり、亡くなったりした、子供に障がいがある、子供が死んだ、自分がうつ病になった、というような証しもある。掲載されているのは必ずしも成功例やハッピーエンドの話とは限らない。たとえ外的には問題が解決しなくても、それをどう受け止めるかということが信仰のテーマになっているのである。

 祝福家庭は子女を授かることを強く願うものだが、子供を授からない家庭も多い。不妊治療と信仰的な努力によってやっと授かったという証しもあれば、養子縁組を希望するカップルや、養子を授かったカップルの証しも掲載されている。

 婚家によく仕えたり、地域社会に奉仕したりした結果として「孝婦賞」を表彰されたというような証しは、「成功譚」といえる内容である。もし『本郷人』が外部の目を意識した紙面であったなら、おそらく掲載されていたのはこうした証しだけだったかもしれない。しかし実際には、こうした証しの占める割合はそれほど多くはない。

 韓国在住の男性信者の証しが二つほど紹介されている。どちらも高学歴で優れた才能を持ち、韓国社会に定着できた証しである。ところが、社会的に成功することと信仰を維持することは「トレード・オフ」のような関係になると思える事例もある。外的な苦労は多いけれども信仰に燃えて暮らしている女性信者の証しと比較すると、信仰とは何か、幸福とは何かということを考えさせられるような内容になっている。

 韓国に嫁いできた祝福2世の証しには、一世の女性信者のような経済的苦労、夫の問題、舅姑との葛藤というような苦労は見られず、むしろ本人の内面の葛藤や、妊娠しないことに対する不安のような内容が見られた。

 中西氏はこれらの事例に対して、「筆者が調査した事例は韓日祝福家庭のごく一部でしかないが、証しの事例と比較しても大差がない。」(p.521)と結論している。これは外的な事実のみの評価だが、実地調査と出版物の記述に差がないということは、『本郷人』の記述には裏表や粉飾がないということである。これから分かるのは、統一教会が事実を隠蔽・美化・歪曲することなく正確に伝える、正直な団体であるということだ。かつて北朝鮮が「地上の楽園」と宣伝され、実態を偽っていたのとは異なり、教会の発行する新聞は現地の状況を赤裸々に伝えているのである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』193


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第193回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国で暮らす日本人の統一教会信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。前回から「五 A郡・B市・ソウルの信者達」の内容に入った。中西氏は農村のA郡、ソウル近郊のB市、ソウルの中心部の三か所に在住する日本人信者を比較して、「信者であることが農村部では顕在化し、都市部では潜在化するということになる。顕在化、潜在化によって信者としての日常生活は異なり、顕在化のA郡であれば、毎日が統一教会の看板を背負っているようなものである。…B市やソウルの信者と比べるとA郡のような農村の日本人女性信者は日常生活と信仰生活が一体化している。潜在化のB市やソウルでは仕事に差し支えないように日常では隠さねばならず、多少の緊張感をもって暮らすようになる」(p.512)と結論している。ここまでは自ら行った調査に基づく客観的な分析であるが、それに続いて彼女自身の主観的な考察を「3 日本と異なる信仰のあり方」という項目を立てて論じている。この部分は極めて問題が多いので、今回特に取り上げて扱うことにする。

 中西氏はこれまでの記述をまとめる意味で、冒頭に「第八章、九章を通じての問題は、脱会者になるか、信仰を保ち続けて信者であり続けるかの違いはどこにあるのかであった。」(p.513)と述べている。この問題意識は、第八章の冒頭で中西氏が以下のように述べているように、彼女の研究の基本的な問いかけであった。
「第六章、七章は信仰をやめて統一教会を脱会した元信者たちが調査対象だったのに対し、第八章から一〇章は信仰を続ける現役信者が対象である。脱会する信者がいる一方で、現役信者が信仰を保ち続けていられるのはなぜかが問題となる。」(p.403)

 そもそもこの書き方には、普通の人であれば統一教会を脱会して当然であるにもかかわらず、現役信者として信じている奇特な人々がいる。どうして信じ続けることができるのか、その理由を解明しなければならないというニュアンスが込められている。普通の宗教団体に対しては、このような書き方はしないであろう。「現役信者として信仰を保ち続けている者たちがいる一方で、脱会する信者がいるのはなぜかが問題となる。」と書くのが普通である。現存する宗教団体に現役信者がいるのは「当たり前」である。その中で、信仰を続けられなくなる人が出てくるのであって、その事情を分析することを通して、人が信仰を棄てる理由について考察するのが通常のアプローチであろう。しかしここでは、やめるのが当たり前であるのに、統一教会のような宗教をどうして信じることができるのか、というバイアスがかかった表現になってしまっているのである。このような問題意識のゆえに中西の分析は、「脱会しないのはなぜか?」という理由を探すという奇妙な論理になってしまっている。通常の思考であれば、「脱会するのはなぜか?」を問わなければならないにもかかわらずである。

 中西氏は一つ目の理由として、調査対象者の中には脱会カウンセリングを受けたものがいなかったことをあげている。これは逆に、櫻井氏の調査対象となった元信者のほとんどが、脱会カウンセリングを受けていたということを示している。このことは櫻井氏自身が認めているのだが、こうした経験をした人々の数は、統一教会信者の数全体に比べれば少数派であり、統一教会を脱会する人の中に占める割合においても少数派である。つまり、脱会カウンセリングによって教会を去るというのは特殊ケースであり、「外れ値」なのであって、それを基本に統一教会の信仰について普遍的な発言をすることはできない。言い換えれば、統一教会を離れる人の大多数は、拉致監禁を伴うや強制改宗や脱会カウンセリングを受けた者たちではなく、自由意思によって離れる者たちである。彼らが信仰を辞める理由こそが脱会の本質的理由なのであって、特殊なカウンセリングを受けた人々が離れるのは、「特殊な理由」によるものであるということになる。中西氏の理由付けは、脱会カウンセリングによって離教した櫻井氏の調査対象と比較したときにのみ言えることであって、脱会者と信仰を続ける者の差異を普遍的・本質的に分析したことにはならない。

 中西氏の上げる第二の理由は渡韓後の生活である。
「調査対象者達の生活は女性の場合経済的に楽ではないが、何とか無難に暮らしており、生活を破綻させるような状況になっていなかった。このことが信仰を続けている直接的な理由であろう。」
「韓国における信仰生活自体も、日本とは異なっており、心身をすり減らすようなものではない。家庭を築き、日曜日に礼拝に出席し、何かの行事には出かけて行く程度である。献金のノルマも日本のように厳しくない。・・・特に農村では統一教会が結婚相談所のように受けとめられ、嫁いだ日本人女性信者達が信者であることも自明視されている。彼女達は結婚難の農村に嫁いできてくれた存在として地域に受け入れられている。・・・韓国は日本人信者にとっては暮らしやすい環境にある。在韓の日本人信者が信仰を維持している背景には、韓国社会で統一教会が社会問題化していないという点もあるだろう。」(以上、いずれもp.513)

 ここで中西氏の「普通な韓国統一教会」と「異常な日本統一教会」、あるいは「ゆるい韓国統一教会」と「強烈な日本統一教会」というというステレオタイプ的な枠組みが再登場する。繰り返して言うが、中西氏の頭の中にある日本統一教会のイメージは、櫻井氏から提供された大量の文献と、櫻井氏自身の記述によって作り出された「虚像」である。

 中西氏は韓国の統一教会を日本の統一教会と比較して結論を下しているつもりになっているが、実際には論理的に破綻したことを言っていることに気付いていない。そもそも、日本での信仰生活が心身をすり減らすようなものであるのに対して、韓国ではそうではないから彼女たちが脱会せずに信仰を続けていられるのだとすれば、日本の統一教会信者たちがなぜそのような信仰生活を継続していられるのかが説明できない。私の信仰暦は現時点で37年になろうとしているが、私以上に長く信仰している日本人の信者は多数いる。本当に心身をすり減らすような信仰生活をしているのなら、日本においてはそんなに長く信仰を継続できないはずである。中西氏は日本の信仰生活を実際に観察したことがないので、「虚像」に基づいたイメージだけで推論しているにすぎないのである。

 実際には、日本における統一教会の信仰生活も心身をすり減らすようなものではない。櫻井氏自身が認めているように、「楽しくなければ続けられない」(p.342)のである。さらに日本の統一教会信者の生活も韓国と同様に、破綻するような状態にはなっていない。日本の統一教会信者の実際の生活は、櫻井氏が描写した脱会者たちの生活よりもずっと多様である。教会員の中には医者も、弁護士も、大学教授も、会社の役員もおり、地方議員や地方自治体の首長を務めている者もいる。特に社会的な地位の高い者でなかったとしても、普通の会社員、公務員、自営業者、あるいは主婦として社会生活を送っている者が大多数である。日本でも大部分の信者が無難に暮らしているとすれば、渡韓した女性たちが信仰を続けていられる理由として、特にそのことをあげる意味はなくなってしまう。

 そもそも信仰とは、無難に暮らしているからとか、暮らしやすいから続けられるというようなものではない。宗教の歴史をひもとけば、迫害の中でも信仰が力強く燃え盛った事例は数えきれないほどあるし、迫害によって逆に信仰が強化されたことさえある。逆に、江戸時代の仏教や中世ヨーロッパのカトリックのように、権力と一体化して優遇されてしまうと信仰が形骸化してしまうということもある。楽だから、暮らしやすい環境だから、社会から受け入れられているから信仰を維持できるという中西氏の論法は、こうした信仰の本質を見落としていると言えるだろう。

 驚いたのは、在韓の日本人信者は無難に暮らしているから信仰を維持できているという主張をした後で、中西氏がそれをひっくり返すような奇妙な議論を展開している点だ。
「しかし、祝福で結婚し、韓国で家庭を築き、無難に暮らしているとしても、統一教会の信仰が特異なものであることには変わりない。アダム、エバの堕落した血統が連綿と受け継がれ、神の血統への転換が唯一祝福であるとする。韓国とアダム国家、日本をエバ国家と規定し、日本が韓国に贖罪すべきとして、祝福で結婚難にある農村男性のもとへ日本人女性信者を嫁がせる。家庭を築くことで、信者は人生全てを教団組織に絡め取られるという他の新宗教には類を見ない特殊な信仰となっている。」(p.514)

 日本人女性が韓国で無難に暮らしているなら、それでよかろうと言いたくなるのだが、それでは批判したことにならず、統一教会を利する記述になってしまうことを心配したのか、取ってつけたように宗教的言説を批判してみたり、「特異な信仰」という根拠不明の主観的価値判断を押し付けたりしている。結果的に、特異な信仰を持った人が無難な生活をしているという、ちぐはぐな主張になってしまっているのだ。自分の書いた文章に統一教会反対派が文句をつけないための「忖度」によって、論理的な破綻をきたしてしまったとしか思えない。このまとめの部分における中西氏の主張は、まさにブレまくっていると言ってよいだろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』192


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第192回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国で暮らす日本人の統一教会信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。今回は「五 A郡・B市・ソウルの信者達」の内容を扱うことにする。これは一言でいえば、統一教会の在韓日本人信者の信仰における地域差を扱った部分である。A郡は農村であるが、B市はソウル近郊の都市であり、ソウルの中心部はまさに首都のど真ん中である。こうした地域の違いが信者の信仰生活にどのように影響しているのかを中西氏は分析している。結論的に言えば、韓国における信仰生活の地域差は日本よりもはるかに大きいということになる。

 まず学歴であるが、A郡とB市に比べてソウルの信者は高学歴である。性別においては、ソウルには男性信者もいるがA郡とB市は女性のみである。農村であるA郡においては、日本人と言えば統一教会信者しかいないため、彼女たちが信者であることは近隣の人々は誰もが知っており、彼女たち自身も信者であることを隠そうとはしていない。彼女たちは地域社会に対して「統一教会で結婚したので韓国に来た」とはっきり伝えており、統一教会の「看板を背負っている」ようなものだという。したがって、「生活自体が伝道。仲のいい家庭を築くことが伝道」であると思っている。彼女たちは頻繁に教会に集まり、信者同士の結びつきは非常に強い。このように、信仰をはっきりと明示しても地域社会から受け入れられているのが、A郡における信仰生活の特徴である。

 ソウル近郊のB市は、2000年のデータで人口約250万人ほどの市である。ソウル近郊でこれだけの人口を有する市と言えば仁川以外にはないのだが、本書では市の名前は伏せられている。B市でも、仕事が不安定な夫がいるという点ではA郡とあまり変わらないという。ここでは、家計を支えるために家庭日用品等のネットワークビジネス「アムウェイ」の仕事をしている日本人女性信者たちが中西氏の調査対象になった。アムウェイの仕事をしていると、日曜日に所属教会に行って会う信者仲間よりも、同じ仕事をする信者仲間の結びつきが強くなる傾向にあるという。そして会社の同僚や顧客の中にはクリスチャンもいる可能性があるので、彼女たちは統一教会の信者であることを積極的に明かそうとはしていない。統一教会信者であることが自明であるA郡とは勝手が違うようだ。教会との距離感も、A郡ほどには密接な関係ではない。

 一方で、ソウル中心部にあるC教会の日本人信者はA郡やB市と比べて社会的階層が高い。韓国の大学で教員をしている者や会社経営者がおり、同様に韓国人信者の社会的階層も比較的高いという。ソウルには韓国人女性と祝福を受けた日本人の男性信者がいるのが特徴的で、これは農村のA郡には見られないことだという。大学で教員をしている男性信者は、仕事に支障が出ることを恐れて、統一教会の信者であることを隠しているという。

 中西氏がインタビューした1962年生まれの6500双の男性信者は、私とほぼ同世代(2歳年上)であり、経歴も一部重なっている。「一九八八年に祝福を受け、大勢の信者がまとまってソウルの教会所属になる。三ヶ月間、語学堂(大学付属の日本語学校)で韓国語を学び、その後、日本に戻り四〇日間のマイクロをして再び渡韓した。『世界日報』が創刊されたときで、任地生活をしながら一日に二〇〇部の配達を担当した。支局(『世界日報』の販売店)を任されると同時に家庭出発をする。このとき所属教会でくじ引きをして、そのまま韓国にとどまることになった。」(p.510)というものである。

 私も1988年に6500双の祝福を受けて「コリア人」(渡韓した日本人に対する当時の呼称)として渡韓しており、語学堂で韓国語を学んだり、『世界日報』の配達をしたりした部分はまったく同じ体験をしている。私の場合には、ソウルの城東区にあった城東(ソンドン)教会に40名ほどの日本人信者が共同生活をする中で活動した。当時は24歳であった。毎朝4時に起床して『世界日報』を配達し、昼間は新聞の拡張と伝道をし、週に3回は語学堂に通って韓国語の勉強をした。当時は全体で約4000名の日本人が渡韓し、『世界日報』の配達を担当したと聞いている。世界日報の配達は1989年2月1日から始まったが、夏になると突如として4000名の日本人のうち3000名が日本に帰るようにという指示が出され、私も8月にはソウルを後にして東京に戻り、日本で活動することになった。韓国で活動した期間は実質で7カ月ほどに終わった。私の所属していた城東教会でも10名ほどが残ることになったが、私は帰国組になった。このときに残った者と帰国した者を分けた基準が何であったかは分からないが、少なくとも城東教会ではくじ引きは行われなかった。韓国で『世界日報』の配達や伝道活動を行いながら、具体的にケアーすべき伝道対象者が韓国にいた者、あるいは相対者が韓国人であり、今後韓国で生活することを前提としている者などが残ったと記憶している。私の場合には相対者が日本人であったため、日本人同士で韓国で生活する必然性が薄かったことも、帰国組になった理由の一つであったかもしれない。

 中西氏がインタビューした日本人の男性信者が韓国に残ったのも、『世界日報』の支局を任されるなどの責任が大きかったことと、相対者が韓国人の女性であったことも理由としてあったのではないかと推察される。韓国に残ったこの男性は、日本語学校で教師の職を見つけて経済基盤を作っていく。日本人男性が韓国で職に就くのは容易ではなく、誰もが上手に日本語を教えられるわけでもない。この男性信者はとりわけ能力が高かったために、韓国社会に適応して500万ウォンもの月給を手にするようになったのであろう。韓国における代表的な成功例と言えるのではないだろうか。しかし一方で、勤務先の同僚には自分が統一教会の信者であることを明かしてはいない。韓国でも都市部では社会に順応するために信仰を隠す必要があることを意味している。

 中西氏は自分が調査した三つの地域を比較したうえで、「信者であることが農村部では顕在化し、都市部では潜在化するということになる。顕在化、潜在化によって信者としての日常生活は異なり、顕在化のA郡であれば、毎日が統一教会の看板を背負っているようなものである。・・・B市やソウルの信者と比べるとA郡のような農村の日本人女性信者は日常生活と信仰生活が一体化している。潜在化のB市やソウルでは仕事に差し支えないように日常では隠さねばならず、多少の緊張感をもって暮らすようになる。」(p.512)と結論している。

 こうした地域による信仰の違いは、日本では見られないものだ。日本国内において、北海道、東北、首都圏、中部、関西、中四国、九州では、それぞれの地方の文化の違いのようなものはあるだろうが、統一教会の信仰生活そのものが大きく変化するわけではない。同じように、韓国の全羅道、慶尚道、忠清道、京畿道、江原道で土地ごとの文化の違いがあったとしても、信仰生活そのものが大きく変化するわけではないが、信仰の顕在化・潜在化という点では大きな違いが出るというのである。農村部のA郡では信者であることを明かさずとも周囲の韓国人は「日本人女性=統一教会信者」と認識しているが、B市やソウルでは言わなければ分からないし、むしろ隠す傾向にあるということだ。日本における統一教会の信仰では、韓国のA郡のような状況は存在しないか非常にまれであり、全国的にB市やソウルのような状況にあるということになるだろう。

 中西氏の研究は、三つの地域における統一教会信者に対してインタビューを行った結果を客観的に分析したものであり、特段に事実が歪曲されたものであるとは考えられない。ただし、彼女の分析は在韓の日本人信者を対象としたものであり、韓国人を含めた韓国統一教会の全体像をとらえたものではないことは留意しておかなければならない。すなわち、信者であることが農村部では顕在化し、都市部では潜在化するという傾向は、日本人信者には当てはまるかもしれないが、韓国人信者にも同じことがいえるとは限らないということである。韓国の農村にお嫁に来た日本人女性は、ただでさえ地域社会で目立つ存在である。その理由を問われれば、統一教会の信仰を明かさないわけにはいかないであろう。しかし、田舎であったとしても地域社会に溶け込んでいる韓国人の統一教会員がことさらに信仰を顕在化する必要があるとは思えない。

 日韓を本格的に比較するのであれば、同じ韓国人と日本人のカップルであっても、日本に嫁いだ韓国人女性の信仰生活のあり方と日本社会との関係、さらに日本在住の韓国人男性の信仰生活のあり方と日本社会との関係、およびその地域差などを合わせて比較すれば、面白い研究になるかもしれない。しかし中西氏はそこまで問題を掘り下げることなく、韓国における日本人信者の信仰生活と、自らは直接調査していない日本における統一教会の信仰生活を比較することで終わっているため、研究に深みがなくなってしまっている。この点に関しては次回扱うことにする。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』191


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第191回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏は「5 信仰のない夫や舅姑との関係」と題する項目を設け、篤信の信者である日本人の妻と、信仰がほとんどないか、あっても熱心ではない夫や舅姑との間で信仰をめぐる葛藤が起こらないのかどうかを分析している。中西氏によれば、日本人の妻にとって祝福は結婚であって結婚ではなく、むしろ結婚という形をとった社会変革運動であり、宗教実践であるというものであった。それに対して韓国人の夫は田舎における嫁不足を解消するために祝福を受けたのであり、目的は宗教ではなく結婚そのものであった。舅姑も、息子を結婚させたくて祝福に申し込んだのであり、信仰は二の次である可能性がある。そのようにして成立した結婚には、信仰の違いによる葛藤が生じるのではないかと中西氏は予想したのである。

 ところが、中西氏の聞き取りによれば、それは双方にとってそれほど深刻な問題ではなかった。まず、日本人女性たちの夫の信仰に対する評価であるが、夫に信仰がないことを妻は十分に承知しているという。夫は礼拝には出てこないか、出たとしても妻が喜ぶからという程度の動機なのだが、それでも「信仰なしとは言えない」と彼女たちは解釈しているというのである。すなわち、韓国人はたとえ原理を知らなくても、韓国文化そのものの中に原理が根付いていて、「為に生きる」生活ができているというのである。

 この語りは、以前に紹介したことがある韓日祝福を受けて韓国にお嫁に行った知り合いの姉妹の言葉とほぼ同じ内容である。彼女の主体者は親戚に教会員がいて、その人から「統一教会に入れば結婚できる」と言われ、それを動機として入教し、祝福を受けた韓国人であった。こうした場合、祝福を受ける動機は結婚そのものにあるので、宗教的教育は一通りの原理講義を聞いて終わりという場合が多い。『原理講論』を読んだこともなく、その内容を細かく覚えてはいない。伝道される過程で原理講義を何度も受け、『原理講論』を熱心に読む日本の統一教会信者から見れば、「本当に原理を分かっているのかしら?」と思うかも知れない。

 ところが、彼女のとらえ方は違っていた。主体者の両親と同居しながら結婚生活をする中で、主体者が両親に親孝行する姿に感動したのである。主体者はいわゆる優秀で社会的地位のある人ではなかったが、思いやりがあり、人に尽くす人であった。その姿を通して彼女が感じたのは、「自分は『原理講論』の内容を頭で知っているけれども、実際には人の為に生きる生活が出来ていない。しかし、彼は教理としての原理は良く知らないかもしれないけれども、生活の中で自然に親孝行し、人の為に生きている。彼は心で原理を知っているのであり、彼の生活は私よりも原理的かもしれない」ということであった。日本人は信仰をとかく理論理屈でとらえるのに対して、韓国人にとってそれは生活の中で自然な情の発露として現れるものであるという、典型的な例であった。彼女はそうした夫を尊敬し、愛し、二人の子供に恵まれて韓国で幸せに暮らしている。

 それでは舅姑との関係はどうだろうか? 中西氏は、韓国には「シジプサリ(嫁暮らし)」という言葉があり、夫や舅姑に無条件に仕えて暮らす嫁のあり方は韓国の女性にとっても大変辛いものなので、韓日祝福の日本人女性にとってはなおさらであるとしている。私の知り合いの中にも、韓国に嫁いで舅姑と同居している日本人女性がおり、彼女たちが「シオモニ(姑のこと)に侍るのがすごく大変だ」という話を聞いたことはあるので、シジプサリが大変だというのは事実なのであろう。にもかかわらず、本書では日本人妻が舅姑と比較的良好な関係を築いていることが紹介されている。

 統一教会では先祖を大切にするので、儒教の伝統行事である先祖祭祀の時に嫁としての役割を果たすことに対して、日本人の女性信者は抵抗がない。家族や親族が集まる祭祀のときに食事の準備などの手伝いを頑張れば、嫁としての評価も上がるという語りが紹介されている。一方で、長男のお嫁さんはクリスチャンであり、先祖祭祀は偶像崇拝に当たるとして来ないので、むしろそちらの方が信仰に起因する葛藤を引き起こしそうだというわけである。

 統一教会の日本人妻は、夫や舅姑と信仰を共有していなかったとしても、妻の信仰が家庭に支障をきたすようなものでない限り、宗教をめぐる葛藤は起こりにくいと中西氏は分析する。むしろ、日本人女性信者たちにとって信仰実践とは、夫や舅姑によく尽くし、子供を産み育て、家庭をうまく切り盛りすることにあるので、信仰に忠実であればあるほど良妻賢母となり、夫や舅姑に気に入られ、周囲も感心する良い嫁になるというのだ。

 ここで中西氏は、以前このブログで私が紹介した2006年3月号『月刊新東亜』の記事を引用している。その記事は韓国でたくましく生き、社会的にも活躍している日本人の祝福家庭婦人について書いたものだ。
「最近、農村社会で膾炙する話題の中の一つは、韓国農村の独身男性に嫁いできた統一教を信じる日本の嫁である。彼女達は地方各地で数々の団体が授与する孝婦賞をさらっている。……KBSの全国のど自慢の番組にときどき出演して韓国歌謡を歌う農村の日本女性や、光復節にあたって放送や新聞を通して日本の韓国侵略に対して謝罪する日本人の嫁達はたいてい韓国に嫁ぎ、『婚家の方をより愛するように』なった日本統一教信者である」(イ・ジョンフン 二〇〇六)」(p.504)

 この「孝婦賞」というのは、親孝行を実践した模範的な女性に与えられる賞だが、里長や老人会長、地域の人々などの推薦により、郡、農協、赤十字、老人会などの団体が授与するという。祝福家庭の日本人婦人の場合には、農村に嫁いで言葉や生活習慣が違う中で、慣れない農作業や家事育児をきちんとこなし、舅姑が寝たきりになれば下の世話も嫌な顔をせずにするという姿が評価されて受賞するのである。

 このように中西氏は、信仰のない夫や舅姑との関係をいたずらに歪曲して葛藤に満ちたものであると描くことなく、比較的良好な関係になるように日本人女性がうまく適応している現実をありのままに描いており、この部分の記述に関しては好感が持てる。

 にもかかわらず、信仰のない夫や舅姑との関係は必ずしも楽なものではなく、多くの日本人女性が苦労している部分であることを、ここではあえて紹介しておく。それは私が実際に知っている日本人女性信者から聞いた内容でもあり、以前にこのブログでも紹介した、国際家庭特別巡回師室編『本郷人の道』の記述の中にもそうした内容が見られるからだ。

 祝福は、本来は男女とも信仰を動機としてなす結婚であるべきである。しかし、韓国統一教会には日本人女性の相手となる十分な数の男性信者がいなかった。そこで日本人の女性信者の相手を探すために、結婚難に苦しむ田舎の男性に声をかけるということを始めたのである。信仰のない男性に嫁がせることに対する不安や批判は当然あったと思われる。しかし日本の女性信者は優秀で信仰が篤いので、そうした男性をも教育して最終的には教会員にすることを期待して、これらのマッチングが行われたのであろう。しかし、そもそもの動機が信仰ではなく結婚にあった夫を伝道するのは容易ではなく、妻が夫よりも教会を優先する姿勢を見せれば、夫は機嫌が悪くなり、教会に対する反発や不信感をいだくようになる。このことは『本郷人の道』の中で以下のように書かれている。
「任地生活は本来、夫婦が一つの心情で共に行くべきものです。私たちが陥ってはいけない立場は、相対者に向かう横的情を犠牲にして信仰生活に投入する、といっては、『教会活動』を理由に相対者の意識を無視してしまい、結局、相対者の中に教会に対する不信感を抱かせてしまうことです。本来教会によって得た祝福であって、常に私たちを通して相対者が教会を理解し、教会に感謝し、そこから喜びを持って信仰生活ができるようにしていかなければなりません。時々、韓国の相対者に『あなたは教会と私のどちらを取るのか』などの思い詰めたことを言われてしまう例があります。結局、その『教会』と『私』を一つにできなかったということは、任地を共に勝利したということにはならず、家庭出発後も変わらずみ旨を中心に生活していくということが難しくなってくるのです。」(『本郷人の道』p.323)

 信仰のない夫や舅姑との関係は容易なものではなく、多くの日本人女性が理想と現実の狭間で苦労している問題である。にもかかわらず、多くの日本人女性たちが自らに課せられた試練を乗り越えて、夫や舅姑と良好な関係を築き、地域社会から「孝婦」として表彰されているというのは驚くべき事実である。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』

書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』190


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第190回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏は「4 祝福と結婚生活の本質」と題する項目を設け、聞き取り調査の結果得られた知見に対して自分なりの解釈を施している。そこで彼女が下している結論は、祝福は結婚であって結婚ではなく、むしろ結婚という形をとった社会変革運動であり、宗教実践であるというものである。これは暴言に近いものの言い方であり、他者の結婚の本質をこれほどまでに断定的な物言いで規定する資格が一宗教社会学者にあるというのだろうか、と思わざるを得ない内容であった。

 前回はこれに対して、彼女の結婚の定義そのものが現代社会に特有の世俗的で、個人主義的で、(「上昇婚」という言葉に代表されるような)自己中心的な動機に基づくものであることを説明した。たしかに祝福結婚はこうした結婚の定義に収まらないかもしれない。しかし、伝統的な社会においては、結婚は個人の欲望のためにするというよりは、家や血統の存続のため、種族や社会の維持のためといったより公的な目的を持っていた。中西氏の結婚の定義によれば、こうした近代以前の結婚もまた、結婚ではなくなってしまう。

 渡辺京二の著作『逝きし世の面影』は、幕末・維新の時代に訪れた外国人が見た古きよき日本の姿を、彼らが残した文献をもとに再現した本であるが、彼は江戸時代の日本が「子供の楽園」であり、当時の日本人の親子の情愛の深さは、西洋人たちが羨ましがるほどであったことを報告する一方で、夫婦の愛情に関しては日本人にはまったく見るべきものがなかったと述べている。彼はプロイセンの軍人であり外交官であったラインホルト・ヴェルナーの以下のような言葉を引用している。
「わたしが日本人の精神生活について知りえたところによれば、愛情が結婚の動機になることはまったくないか、あるいはめったにない。そこでしばしば主婦や娘にとって、愛情とは未知の感情であるかのような印象を受ける。わたしはたしかに両親が子どもたちを愛撫し、また子どもたちが両親になついている光景を見てきたが、夫婦が愛し合っている様子を一度も見たことがない。神奈川や長崎で長年日本女性と夫婦生活をし、この問題について判断を下しうるヨーロッパ人たちも、日本女性は言葉の高貴な意味における愛を全く知らないと考えている」

 日本の上流階級の女性たちは、しあわせな少女時代を過ごすが、そのしあわせは結婚とともに終わったという。結婚は個人と個人の精神的な結びつきというよりも、家と家の結合であり、実家を離れて夫の属する家に入ることであった。家の支配者である舅姑および夫に対する奉仕者として、徹底した忍従と自己放棄の生活をするのが新婚生活だったのである。昔の日本の女性たちが余裕や自由が持つことができたのは、舅姑が亡くなり、子供が一人前になった後の晩年だけであり、「甘い新婚生活」などというものはそもそも存在しなかったのである。もし中西氏がタイムスリップして江戸期から明治期にかけてのこうした結婚のあり方を調査したならば、彼女の記述は以下のようなものになるだろう。これは統一教会の祝福に対する彼女の評価を、そのまま近代以前の結婚に対して当てはめたものである。
「聞き取り調査から近代以前の日本人女性達は、婚家での生活を『家』を存続させるための義務であるとして受けとめていることが窺われる。彼女達にとっては結婚と結婚生活はこのためにあり、愛情や精神的安定を求めて結婚したのではないことは明らかである。結婚に愛情や精神的安定を第一に求めたのならば、近代以前の結婚は到底受け入れられない。彼女達は儒教的な近代以前の価値観を内面化し、惚れたはれたで一緒になることはふしだらなことであり、親の命令に従うことが娘としての道理であると受け止めることで、親が決めたどこの誰ともわからない相手と愛情もないまま、大変な生活になることを覚悟の上で結婚することができた。

 さらにいえば、近代以前の結婚は結婚であって結婚ではない。結婚をどのようにとらえるかにもよるが、男女の愛情と合意、全人格的な結びつきという点を強調するなら結婚とはいえない。むしろ結婚という形をとった『家』という社会単位の存続であり、儒教的価値観の実践と見る方がわかりやすい。」(以上、魚谷による書き換え)

 こうして比較すると分かることは、中西氏は統一教会の祝福のあり方を否定することを通して、伝統的な社会における結婚をも否定することになってしまっているということだ。しかし、彼女が当然のものとして肯定する世俗的で個人主義的な現代の結婚観は、欧米社会や日本にみられる離婚率の上昇によって破綻しかかっており、再考を求められていることは既に前回説明したとおりである。

 さて今回は、これまで韓国在住の日本人女性に対する聞き取り調査をもとに客観的な記述に努めてきた彼女が、この部分でなぜ「本質」と銘打って批判的な記述をしたのかを分析してみたいと思う。

 そもそも、中西氏が最初に書いた論文「『地上天国』建設のための結婚一ある新宗教教団における集団結婚式参加者への聞き取り調査から一」(「宗教と社会」Religion and Society 2004, Vol.10: 47-70)には、こうした批判的な記述はなく、以下に示すような共感的な記述が見受けられる。
「韓国の男性と結婚し、夫や夫の父母に尽くすこと、子どもを生み育てることは、結婚生活それ自体が、贖罪となり、理想世界『地上天国』建設への実践となる。それは、彼女たちが入信前から求めていた生きる意味や世界平和への思いを満たすことにつながる。彼女たちは、もともと現実の結婚に対して夢や希望を持っていなかったが、生きる意味や世界平和への思いをかなえるという限りにおいて、統一教会における結婚は受け入れられるものとなった。…そこに恋愛感情は必要なく、結婚相手の男性が自分の好みに合うかどうかも問題ではない。日本と韓国の歴史的な関係に照らし合わせるなら、むしろ合わない相手と一緒になることこそ意味がある。結婚生活を続ける中での苦労もやりがいのある苦労となり、乗り越える力を彼女たちに与える。統一教会の結婚は、男女が好意をよせ合った結果の結婚とは異なるが、彼女たちにとって自己実現となり得るものであった。

 最初に述べたように、本稿は、統一教会や合同結婚式の是非を問うものではない。韓国に嫁いだ日本人女性たちの語りから、合同結婚式をとらえ直す試みであった。彼女たちの語りから構成してみると、合同結婚式を受け入れ、韓国での結婚生活を継続できるのは、彼女たちが元来もっていた欲求と統一教会の結婚観が一致した結果であると解釈できるものとなった。もちろん、彼女たちが統一教会の教えを内面化した結果の結婚にすぎないという解釈もできる。ただ筆者は、欲求と統一教会の結婚観とに一致がなければ、彼女たちがA郡に暮らすまでに至らなかったのではないかと感じる。A郡で暮らすとなると生活環境は激変する。田舎暮らし、交際したこともない韓国人男性との結婚生活、場合によっては夫の父母やきょうだいと同居、言葉は満足に通じない、決して豊かとはいえない生活、三食がキムチを中心とした唐辛子味の食生活など、実生活の現実に直面する。欲求と結婚観の一致がなければ、到底A郡では暮らせないのではないかと感じるのである。」(p.64-65)

 この文章からは、統一教会の女性信者達はもともと統一教会の結婚観に一致するような内面の欲求を持っていたことが強調され、それが彼女たちの自己実現となるものであることが肯定的に評価されている。しかし、後に書いた本書の分析では、教団の教えを内面化された結果とし、組織の一員として動いているだけだという否定的な記述に書き換えられているのである。いったいその間に何があったのだろうか? 実はこのことは、米本和広氏の著書『われらの不快な隣人』の中に、以下のように書かれている。
「宗教社会学者の中西尋子が、『宗教と社会』学会で、<『地上天国』建設のための結婚ーある新宗教団体における集団結婚式参加者への聞き取り調査から>というテーマの研究発表を行なった。…その会合に出席にしていた『全国弁連』の東京と関西の弁護士が詰問した。『霊感商法をどう認識しているのか』『(日本の)統一教会を結果として利するような論文を発表していいのか』。出席者によれば、『中西さんはボコボコにされた』という」。

 つまり、彼女は弁護士たちに徹底的に糾弾され、結局はその圧力に屈して、櫻井氏と一緒にこの本を書くことになったのである。このように、いまの日本の宗教学界では少しでも統一教会に有利なことを書こうとすると、たとえその内容が客観的で中立的なものであったとしても、統一教会に反対する人たちから圧力がかけられてしまうのである。それまで聞き取り調査に基づく客観的な記述を行っていた中西氏が、突如として「4 祝福と結婚生活の本質」と題する項目を設け、祝福結婚を一刀両断に切り捨てるかのごとき表現を不自然にしているのは、こうした圧力が背景にあったからであると思われる。
 

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』189


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第189回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏は「4 祝福と結婚生活の本質」と題する項目を設け、聞き取り調査の結果得られた知見に対して自分なりの解釈を施している。これまでの客観的なデータの記述からここでまとめに転じることになるわけだが、「本質」と銘打って行う彼女の分析は、彼女が執筆した部分の中で最もひどい内容になっている。いったい、他者の結婚の本質をこれほどまでに断定的な物言いで規定する資格が一宗教社会学者にあるというのだろうか、と思わざるを得ない。以下に主要な部分を引用する。
「聞き取り調査から韓日祝福の日本人女性達は、韓国での生活を地上天国の実現と罪の清算として受けとめていることが窺われる。彼女達にとっては結婚と結婚生活はこのためにあり、愛情や精神的・物質的安定を求めて結婚したのではないことは明らかである。結婚に愛情や精神的安定を第一に求めたのならば、祝福は到底受け入れられない。彼女達は統一教会の教説を内面化し、恋愛結婚は堕落した結婚であり祝福こそ理想の結婚と受け止めることで、教団が決めたどこの誰ともわからない相手と愛情もないまま、大変な生活になることを覚悟の上で結婚することができた。

 さらにいえば、祝福は結婚であって結婚ではない。結婚をどのようにとらえるかにもよるが、男女の愛情と合意、全人格的な結びつきという点を強調するなら結婚とはいえない。むしろ結婚という形をとった社会変革運動であり、宗教実践と見る方がわかりやすい。」(p.500)
「祝福と結婚生活は地上天国の実現と罪の清算のための社会変革運動である。彼女達は結婚しようと思って祝福を受け入れたのではなく、統一教会による社会変革運動に共感して身を投じた。したがって祝福に恋愛感情は必要なく、下降婚になっても構わない。信仰のない夫は同志にはならないが、神の子を生むためには必要である。経済的に楽でなく、苦労の多い生活も社会変革運動であり、そのための宗教実践だから受け入れられるものになる。」(p.500-1)
「統一教会の女性信者はみな文鮮明の花嫁の立場にある。夫は文鮮明の身代わりで種を与えるだけにすぎず、彼女達は夫を通して文鮮明の姿を見ている。本音をいえば、大切なのは夫よりも文鮮明であって、彼女達は文鮮明に付き従って共に運動を展開しているのである。彼女達の生活は実態として見るならば、国際結婚をして韓国で生活しているだけだが、彼女たち自身にとっては日本にいたときと変わりなく、文鮮明を頂点にした組織の一員として理想世界を作るため、罪の清算のために邁進する毎日なのである。」(p.501)

 彼女たちが結婚した動機が恋愛感情になかったことは確かだが、だからと言って彼女たちの結婚生活に愛情や人格的な結びつき、あるいは精神的な安定といった要素がないとどうして言い切れるのであろうか。ましてや「祝福は結婚であって結婚でない」という言い方は暴言に等しい。中西氏は恋愛感情と夫婦の愛情を同一視しているようだが、これらは多くの場合別物である。恋愛感情は男女を互いに引き付け、結婚の動機となりえるものであるが、それが一生涯継続することは少ない。通常の結婚生活においても3年程度で熱烈な恋愛感情はなくなり、その後はより穏やかで持続的な夫婦の愛情に変わっていくものである。これは現代の恋愛結婚の場合だが、昔の見合い結婚の場合には親が決めた相手と恋愛感情もなく結婚し、夫婦になることも珍しくなかった。それでも長年連れ添っているうちに徐々に夫婦愛が培われていったのである。統一教会の祝福家庭にもこのような夫婦の愛が育つということを、中西氏は想像できなかったのだろうか。

 この問題に対して、「サイコロジー・トゥデイ」の元編集長であるロバート・エプステイン博士は以下のように述べている。(以下、ビデオ映像からの書き起こし)
「世の中には見合い結婚をして徐々に夫婦間の愛情が成長している例が多くあります。私は2003年からそのような人々を探し出し、幅広い聞き取り調査をしてきました。そもそもの問いかけは見合い結婚の夫婦の間で愛がどのように成長していくのか、愛が成長するのに何が必要だったのかを見つけようとしたのです。と言うのも現在の私たちの婚姻スタイルは機能していません。米国では初婚のほぼ半数が離婚に終わっています。再婚の3分の2が壊れていきます。そして三度目の結婚も75%が離婚しています。今の結婚文化が全くうまく行っていないのは明らかです。

 安定した結婚生活を送れないことによって離婚前後の実に長い期間、様々に惨めな思いを味わい、苦しみを経験するのです。つまり離婚調停とか子供に対する親権の争い、弁護士の加入など、多様な事柄が横たわり私たちを苦しめています。ですから新たな結婚モデルが必要なのは明らかですが、私達が適用できる別のモデルが実は世の中に存在しています。

 私たちが調査のために見合い結婚のサンプルとして選択した夫婦の約28%が統一教会信徒の家族でした。それで若干の比較調査をすることができたのですが、統一教会の夫婦はみな、それ以外の見合い結婚の夫婦と同様に時間と共に愛情が成長しています。統一教会以外の文化を背景にした見合い結婚も、同じように愛情が成長しているのです。

 すなわち見合い結婚が西洋社会の典型的な結婚スタイルと比べて全体的によい傾向が見られ、質的に異なるものになっているのです。例えば典型的な西洋社会の結婚モデルでは、夫婦の間の愛情の度合いを示す曲線は下降線をたどります。見合い結婚の夫婦を見れば、多くの場合に愛情曲線は上昇線をたどるのです。最新の調査によれば、見合い結婚当初の夫婦の愛情度が10点満点中平均5.3点だった夫婦たちに、平均14年後に改めて聞き取りをした際、彼ら夫婦たちの愛情度は平均9.3点でした。これは非常に劇的な上昇傾向と言えます。

 つまり時間と共に愛情を高めていくことは可能なのです。統一教会の信者の場合も、同教会以外の文化を背景にした見合い結婚の夫婦に見られたのとほぼ同じ傾向を見ることができました。」

 日本でも伝統的な見合い結婚が衰退し、欧米流の恋愛結婚が主流となったが、その結果は欧米の現実と同じ離婚率の上昇であった。すなわち、恋愛結婚が必ずしも安定した結婚生活をもたらすとは言えず、むしろその逆であることをデータは示しているのである。

 また、統一教会の祝福結婚について研究した米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、統一運動においては結婚前の独身生活においては恋愛を全面的に禁止しているが、マッチングを受けて相対者が決定した者たちは、「聖別・約婚期間」に徐々にお互いに対する恋愛感情を育てていき、夫婦になった後にも互いに対する愛情を育てていることを認めている。これが事実であれば、韓国人と日本人のカップルにのみこうした夫婦の愛情が育たないということは考えられない。

 「祝福は結婚であって結婚でない」という中西氏の発言は、彼女自身が言う通り、結婚をどのようにとらえるかによって規定されている。中西氏は結婚を、男女の愛情を動機として、精神的・物質的安定を求めてするものだと定義しているが、これは極めて現代的で世俗的な結婚の定義である。一言でいえば、個人主義的で(「上昇婚」という言葉に表現されるような)自己中心的な動機に基づく結婚が当たり前であるという時代の結婚観である。しかし、伝統的な社会においては、結婚は個人の欲望のためにするというよりは、家や血統の存続のため、種族や社会の維持のためといったより公的な目的を持っていた。中西氏の結婚の定義によれば、こうした近代以前の結婚は結婚でなくなってしまう。

 ジェームズ・グレイス博士は、現代アメリカ人の結婚に対する価値観は、個人主義的な幸福の追求に重きを置くあまり、社会全体の利益に対する深い関心をまったく欠いた状態になっており、これが離婚の増大に代表される現代社会の病理の原因であると分析している。そして社会に貢献することを主要な目的とする統一教会の結婚観から、アメリカ社会は多くを学ぶことができると評価しているのである。

 中西氏は、祝福は結婚であって結婚でなく、社会変革運動であり、宗教実践であるとしているが、そもそもこれらを分離して考えること自体が彼女の分析の限界である。統一教会の祝福は紛れもなく結婚であり、それと同時に社会改革運動であり、宗教実践でもあるのだ。端的に表現すれば、宗教的信仰を動機として、社会を変革するための結婚なのである。彼女が「祝福は結婚であって結婚でない」と主張するのは、彼女の結婚の定義が世俗的で個人主義的なものであるため、その定義に統一教会の祝福が当てはまらないということに過ぎない。

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書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』188


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第188回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏によれば、韓国で暮らす日本人女性信者たちの結婚生活を下支えしている統一教会の教えは、①地上天国の実現と、②罪の清算であるという。前回から②の「罪の清算としての生活」に関する記述に入ったが、今回はその続きである。

 中西氏は「日本人女性信者達は韓国での生活を罪の清算として受け止めていると同時に、もう一つ、別の受け止め方もある。離婚、脱会で韓国の生活をやめることは逆に『蕩減が重くなる』という理由である。」「韓国での生活を続けることは罪の清算になるが、逆に離婚や脱会をして韓国での生活をやめることは罪を増すことになる。だから韓国での生活をやめられない、離婚も脱会もできないということである。」(p.498)と述べている。

 まず、韓国での生活をやめれば「蕩減が重くなる」という表現は、『原理講論』の中に出てくる蕩減条件の立て方に関する記述に基づくものであり、宗教的教義の理解としては正当なものであることを確認しておきたい。そもそも「蕩減」とは、罪を償うためにそれを埋め合わせるに足るだけの条件を立てることを言うのだが、原理講論ではその程度として「同一の条件」「より小さな条件」「より大きな条件」の3種類が紹介されている。このうち、「より大きな条件」をもって償うことを「増償法」と呼び、以下のように説明されている。
「これは、小さい価値をもって蕩減条件を立てるのに失敗したとき、それよりも大きな価値の蕩減条件を再び立てて、原状へと復帰する場合をいう。例えば、アブラハムは鳩と羊と雌牛とをささげる献祭において失敗をしたため、彼の蕩減条件は加重され、一人息子のイサクを供え物として、ささげるようになった。また、モーセのときには、イスラエル民族が四十日の偵察期間を、天のみ意にかなうように立てることができなかったために、その蕩減条件が加重され、彼らは一日を一年として計算した四十年間を、荒野において流浪しなければならなかったのである」(『原理講論』後編 復帰原理・緒論より)

 したがって、こうした教義を理解している在韓の日本人女性信者が、「祝福破棄したらなおさら蕩減が重くなる」(p.498)というような捉え方をするのはある意味で自然なことである。しかし、このことを中西氏は青春を返せ裁判の資料から引っ張ってきた「いったん原理に出会い、これを知った者が、原理を捨てることは、原理を知らない者以上に罪深いことであり、その者は霊界において、永遠に責め続けられる」といった証言を引用しながら、「この教えを植え込まれ、恐怖心ゆえに脱会できなかった」というような解釈と結び付けている。

 祝福の破棄や離婚によって蕩減が重くなるという宗教的言説が、韓国での苦しい生活を忍耐していくうえで心の支えになったり、励ましになったりした可能性はあるであろう。しかしながら、その恐怖のゆえに離婚や脱会ができない心理状態に追い込まれていたというのは、まったく別の話である。なぜなら、実際にそのような言説を聞いていても脱会する信者が日本に多数いるのと同様に、祝福を破棄して離婚、日本への帰国、脱会といった選択をする信者は渡韓した日本人女性の中にもいるからである。このことは櫻井氏の示した事例によっても、中西氏のインタビューによっても示されており、こうした宗教的言説は信者の自由意思を拘束して脱会を阻止することはできないことが証明されている。したがって、こうした宗教的言説を信じるか信じないかは、最終的には個人の自由意思に基づく選択によって決定されるのであり、その効果を過大評価することはできない。

 中西氏はこうした宗教的言説による恐怖や忍従という要素を指摘する一方で、信者達の現実の信仰生活を観察すれば、それだけで韓国にいるわけではないことを認めている。少々長くなるが、その部分を引用してみよう。
「日本人女性信者達は韓国での生活に地上天国の実現という希望的な意義を認めながら、その一方で罪の清算や棄教の恐怖を併せ持って生活を続けている。夫や舅姑に仕え、口答えもせずに耐え忍ぶだけの生活をしているように見えるかもしれないが、実際に接した日本人信者に限っていえば、経済的に楽ではなくとも忍従の日々を送っているようには見えなかった。教会に集まると『うちのシオモニが』『うちの主体者が』と、姑や夫の話をして楽しそうに笑っている。調査地滞在中、彼女達の家に訪問することがしばしばあった。『一人で食事するんでしょ』『何もないけど、よかったら食べに来たら』と家の夕食に誘ってくれたり、こちらからいきなり訪ねて行って家に上がって聞き取りをしたりした。途中で夫や姑が帰宅することもあったが、彼女達はいっこうに気にする様子はなかった。ある女性の家で聞き取り調査をしているところに夫が帰宅したことがあった。夫は気遣ってくれたのか、着替えるとすぐに子供を連れて散歩に出かけた。夕方だったので筆者の方が調査を切り上げて帰るべきだが、彼女は『いいの、いいの』と夫に遠慮する様子もなかった。もし彼女達が夫や舅姑に遠慮しながら暮らしていたら、筆者を家に誘うことはないだろうし、こちらから訪問するのも嫌がったと思う。」(p.499)

 中西氏が罪の清算や棄教の恐怖を強調する割には、実際に彼女が出会った日本人女性たちの生活は楽しくて生き生きとしたものであったし、韓国人の家族との関係も気兼ねのない和気あいあいとしたものだったようである。統一教会反対派は、韓国に渡った日本人女性たちは苦労ばかりの多い生活を強いられているかのように主張しているが、実際には彼女たちは韓国でたくましく生きており、現地に適応して充実した生活をしている場合が多いのである。このギャップの原因としては二重の要素が考えられる。

 第一に、彼女たちの生活を支えているのは確かに統一教会の信仰だが、その中における創造原理的な部分と堕落論・復帰原理的な部分のバランスである。中西氏の表現によれば①地上天国の実現と②罪の清算という二つの動機のバランスになるのだが、人はネガティブなことを中心とするよりも、ポジティブなことを中心として生活した方が前向きで積極的な生き方ができるものである。日韓の壁を越えて理想家庭を作り、神の子を産み育てるという創造原理的な希望の方が彼女達の信仰生活の中でより大きな部分を占めているということではないだろうか。自分の置かれた環境が「罪の清算」のためであるという認識は、彼女達が乗り越えるべき試練や苦労に立ち向かっていくときにはクローズアップされたかもしれないが、幸福な家庭生活を送っている場合には無理にそのことを意識する必要はないのである。

 もう一つの要素は、宗教的な教えと現実の生活とのギャップである。在韓の日本人女性信者たちは俗世間と隔離された修道生活を送っているわけではなく、世俗の世界の中に身を置いて生活しているわけであるから、四六時中宗教的なことだけを考えて生活しているわけではない。実際問題として、いかに篤実な信仰を持った人だといっても、常に「罪の清算」のことだけを考えて生活しているわけではないだろう。

 さらに、同じ宗教的教えを信じているといってもその解釈の仕方は人それぞれである。例えば、統一教会の祝福について研究を行った米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、男性が主体であり女性が対象であるという『原理講論』の公式の教えがあるにもかかわらず、実際の夫婦関係における男女の役割分担に対する考え方は祝福家庭のカップルの中でも様々な解釈が存在すると分析している。すなわち、文字通り女性は男性に従うべきであるという考え方をする者もいれば、主体と対象はより実存主義的な意味であり、役割分担を固定化しないより開かれた解釈をすべきだと考える者もいたということだ。

 このことから敷衍すれば、韓国における祝福家庭の夫婦関係や嫁姑の関係においても、日本人が贖罪のために一方的に夫や舅姑に仕え、忍従しなければならないという考え方はあまりにも文字通りの「根本主義的」な教義の理解であり、実際の家族関係はより柔軟で開かれたものであるべきと考える者がいても不思議ではない。宗教的な教えが存在することと、それを実際の生活に適用して実践することは別の話であり、両者の間には常にギャップがあることは理解しておかなければならないであろう。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』