信教の自由と人権のための雑誌「BITTER WINTER」がインターネット上で発表した家庭連合関係の記事を紹介する連載。このサイトの運営者であるマッシモ・イントロヴィニエ氏はイタリアの宗教社会学者で、1988年にヨーロッパの宗教学者たちによって構成される「新宗教研究センター(CESNUR)」を設立し、その代表理事を務めている。
このサイトに「BITTER WINTER」の主任編集長を務めるマルコ・レスピンティ氏が「メイド・イン・ジャパン:家庭連合に信教の自由なし」と題するシリーズ記事が掲載された。その内容は2024年12月に国際宗教自由連合(ICRF)日本委員会が主催した講演ツアーにおける彼のスピーチである。私は彼の同時通訳を担当した。このたび、マッシモ・イントロヴィニエ氏とマルコ・レスピンティ氏から特別に許可をいただいて、私の個人ブログに日本語訳を転載させていただくことなった。
メイド・イン・ジャパン:家庭連合に信教の自由なし1 最初の政治的人権の否定
01/03/2025
信教の自由とは、信じるか信じないかの自由だけではなく、信じるか信じないかに応じて人生を生きる自由でもある。しかし、日本ではそれが制限されている。家庭連合の事例。
マルコ・レスピンティ
4つの記事の1つ目。
東京で講演するマルコ・レスピンティ。2024年12月8日
※本論文は、「日本の信教の自由と民主主義の危機」と題し、国際宗教自由連合(ICRF)日本委員会が2024年12月に企画・主催した会議において、さまざまなバージョンで発表された。この会議では、著者が日本で講演ツアーを行い、6日に広島文化交流会館、8日にビジョンセンター東京京橋、9日に名古屋市のNiterra日本特殊陶業市民会館、10日に福岡のアクロス福岡で講演した。
国際宗教自由連合(ICRF)日本委員会から、この美しい国を再び訪問するという光栄な招待を受け、心から感謝しています。2024年7月22日、私は「信教の自由と民主主義の未来」というテーマで集まったICRF日本委員会の総会でスピーチをするという栄誉に浴しました。私はそれ以前にも、美しい日本の国を訪問する機会がありました。今回、ICRFから、日本の4カ都市で、再び「日本の信教の自由と民主主義の危機」というテーマで、講演ツアーを行うよう依頼されました。これは、この問題がまだ継続している証拠です。私にとってこの数日間は、同じテーマについて講演している仲間、友人、弁護士、専門家、活動家、その他の講演者たちから、日本と信教の自由についてさらに学ぶ素晴らしい機会です。
まず、日本とその歴史、文化に対する深い共感と尊敬の気持ちを表明したいと思います。また、活気ある民主主義国家としての日本を尊敬しています。日本は多くの苦しみを経験してきた国です。その中には他の国々が幸運にも逃れることができた、前例のない大惨事も含まれています。
私は外国人であり、日本語を話すことはできません。私は客人であり、もちろん日本を裁く資格はありませんし、そうするつもりもありません。しかし、一つだけ確実に知っていること、そして普遍的なことがあります。それは、健全な社会の極めて重要な要素であり、真の民主主義の特徴は、すべての人に対する宗教、信念、信条の自由であるということです。国際条約ではこれをFoRB、「宗教または信条の自由」と呼んでいます。これは実際に重要です。厳密には「宗教」とは言えない実践であっても、それは「信条」の表れであり、したがって「宗教または信条の自由」によって保護されています。私はこの声明をさらに推し進めたいと思います。すべての人に対する「宗教または信条の自由」は、最初の政治的人権であり、それは生存権に次いで重要な権利なのです。
人間は創造主によって、ある侵すべからざる権利を与えられています。第一は生存権です。生命がなければ人間は存在しません。第二は、人生で最も重要な疑問に自由に答える権利です。それは神が存在するかしないかに関する疑問です。ここでいう神とは、至高の存在、秩序の原理、究極の宇宙の力、どんな名前をつけてもいいと思います。人間がその決定的かつ最終的な疑問に自由に答えられるとき、究極的な意味で、実際に本当に自由なのです。
信教の自由とは、信じるか信じないかの自由だけでなく、それに従って人生を生きる自由でもあります。信じるか信じないかは、人生をどう生きるかに直接関わります。それは(誰もその権利を制限できない)私的な領域だけでなく、公的な領域にも関わります。私がすべての人のための「宗教または信条の自由」を、人間の基本的権利であるだけでなく、最初の政治的権利として定義するのはこのためです。「ポリティクス」すなわち政治、という言葉は古代ギリシャ語の「ポリス」から来ていて、それは「公的な領域」を意味します。
モーゼス・ジェイコブ・エゼキエル(1844-1917)、宗教の自由の像、フィラデルフィア、Credits.
さらに、「宗教または信条の自由」から、その他すべての人権が生まれます。実際、人間にその究極的で決定的な、個人的かつ公的な疑問に答える自由が与えられれば、それに従って生活し、それが含意するすべての自由と権利を享受することができます。表現の自由、結社の自由、教育の自由は、重要な個人的・公的権利ではありますが、本来それらは「宗教または信条の自由」の次に列挙されるべきものであり、そこから派生したものであるとさえ主張することができます。
したがって、「宗教または信条の自由」はすべての人間に関わるものであり、健全な社会の主役となり、民主主義の真の建設者となるべきものです。「宗教または信条の自由」は、直接的または間接的に、常にあらゆる場所で問題になっています。それは人類の歴史を通じてそうでした。「宗教または信条の自由」が人々の公的生活のあり方やその他すべての人権に直接的または間接的な影響を与えたために、社会や帝国、国家や政治共同体が、建設と破壊、発生と消滅を繰り返してきたのです。
もう一度はっきり言わせてください。「宗教または信条の自由」は常にすべての人に関わるものです。それは個人レベルだけでなく、社会全体、そして全人類に関わるものです。たった一人でも「宗教または信条の自由」を十分に享受できない人間がいれば、その損失の結果はすべての人間に及ぶことになります。これは、宗教の自由の問題がすべての問題の中で最も深刻な問題であることを示しています。
学者たちは、「宗教または信条の自由」は、今日の世界で最も脅かされている人権であるとしています。
「宗教または信条の自由」は、あまりにも多くの国で脅かされています。そこでは、憎悪、イデオロギー、権力欲によって、社会的一体性、平和、調和が損なわれています。私たちはそのような国を、非民主主義国家と呼んでいます。私たちは、その国の政治体制がどうあれ、民主主義というものを以下のように理解しています。それは当局が「ポリス」における生活に人々が参加し、共通の善を目指していけるように、権力を適切に行使することなのです。
しかし残念なことに、民主主義国家であっても、国民の「宗教または信条の自由」が縮小される可能性があり、実際に縮小されています。迫害は、財政レベル、行政レベル、組織レベル、文化レベルなど、さまざまな形で現れる可能性があります。「宗教または信条の自由」を制限または否定する民主主義国家は不完全な民主主義国家です。それらは実質的な改革が必要です。
信教の自由の侵害に反対する国連。1960年代のポスターからAIが作成したもの。
私たちは、日本でも今日、「宗教または信条の自由」が縮小、あるいは脅かされていると理解しています。
信教の自由を専門とするオンライン日刊誌「ビター・ウィンター」では、私が主任編集長を務める栄誉に浴しており、この立場で私は、この国でこの問題について学び議論し、懸念を抱く観察者としてこの雑誌に寄稿してきました。「ビター・ウィンター」はここ数年、日本における信教の自由の困難を取り上げてきました。2022年7月8日に奈良県橿原市で安倍晋三氏(1954-2022)が暗殺されて以降、その困難は大幅に増大しました。
2006年から2007年、そして2012年から2020年まで日本の首相を務めた安倍氏は、元海上自衛隊員の山上徹也(41歳)に射殺されました。この悲劇的な事件の後、現在は世界平和統一家庭連合と呼ばれている統一教会をめぐる論争が始まりました。このスピーチでは、今後はこの教団の名称を単に「家庭連合」と呼ぶことにします。
以上の記事のオリジナルは以下のURLで見ることができます。
https://bitterwinter.org/%e3%83%a1%e3%82%a4%e3%83%89%e3%83%bb%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%bb%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%83%91%e3%83%b3%ef%bc%9a%e5%ae%b6%e5%ba%ad%e9%80%a3%e5%90%88%e3%81%ab%e4%bf%a1%e6%95%99%e3%81%ae%e8%87%aa%e7%94%b1/