韓国の独立運動と再臨摂理シリーズ04


 先回は上海市で結成された大韓民国臨時政府まで話をしました。今回はこの「臨政」についてさらに詳しく説明します。当時の「臨政」に対して、列強はどういう態度を取っていたのでしょうか。

 まず中国はどうかというと、中国と朝鮮の間には2000年の宗属関係がありましたし、どちらも日本と敵対していたので、「敵の敵は味方である」という論理から、中国は韓国の独立運動に対して終始同情的でした。しかし、この時期の中国は、清朝末期以降の内戦と対日戦に明け暮れて、実力をもって支援する力を欠いていました。

 それではソ連はどうでしょうか。レーニン政権はその世界戦略に基づいて積極的に朝鮮人を支援し、かつ利用しました。例えば、上海臨時政府の李東輝派に対する200万ルーブルの資金援助、高麗共産党の育成と承認、遠東革命軍の編成・抗争などを行っています。またシベリア在住の朝鮮人部隊を赤軍に編入し、対日戦を遂行しました。つまり、ソ連は韓国独立運動を共産党側につけて利用し、日本と戦って勝利した暁には、朝鮮半島を共産化したいと考えていたわけです。その意味では臨政を助けたわけですが、それはあくまで自分の野望のためでした。

 それではアメリカはどうでしょうか。韓国の独立運動家が終始頼りにした国はアメリカでした。アメリカは、対日不和を招かない範囲で終始同情的であったと言えます。最終的には日米は戦争になるんですが、それ以前は日本に対する配慮もあって、同情的であったけれども助けてはくれないという状態でした。民間レベルでは、韓国に根づいた米国のキリスト教宣教師は、伝道的見地と人権的見地から韓国独立運動への支援を惜しみませんでした。アメリカは独立運動の資金源として重要視されました。つまり、アメリカに渡った独立運動家が、韓国の独立のために寄付を集めたわけです。アメリカは独立運動にとって宣伝の場であり、外交の最前線でありました。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT04-1

 この大韓民国臨時政府について考えるとき、金九という人物を抜きに語ることはできません。彼はよく「白凡・金九」と呼ばれるのですが、この「白凡」というのは号です。その意味は、白丁のような卑しい凡夫だということです。白丁というのは朝鮮王朝時代の最も低い身分で、「賤民」に属したわけですが、「自分は白丁のような卑しい凡夫にすぎないが、国の為には自分程度の意識水準が必要だ」という意味で「白凡」という号を自分につけたそうであります。

 彼は1876年に黄海道海州(現在の北朝鮮)に生まれました。彼の家系は、李朝初期は両班の家柄だったのですが、11代前に没落して平民に落とされたので、非常に貧しい生活をしていたそうです。金九が生まれたのは1876年ですが、李承晩が生まれたのは1875年ですから、李承晩よりも一歳年下ということになります。この二人はほぼ同い年ですが、ずーっとライバル関係にありました。

 それでは金九の略歴を見てみましょう。
・16歳で東学に転じ、1894年には「東学党の乱」に参加します。この「東学」とは東洋の思想を中心とする宗教で、現在は「天道教」と呼ばれています。
・1905年に乙巳保護条約が締結されたときには激憤して、国権回復運動を志すようになります。
・1910年には日韓併合条約が締結されますが、そのときには地下政府の設立を密議して、黄海道代表に選ばれました。彼はかなり初期の頃から独立運動に参加していたことが分かります。
・1911年には保安法違反の疑いで逮捕され、西大門刑務所に収監されました。
・1917年に出所した後に帰郷し、農村啓蒙運動に励むことになります。
・1919年に三・一独立運動が起こると上海に亡命し、大韓民国臨時政府に参加します。

韓国の独立運動と再臨摂理PPT04-2

 このときから1945年の解放に至るまで、「臨政」は主導権を巡る内紛や暗闘で集合離散しましたが、結局、終始「臨政」に留まり、一貫して「臨政」に尽くしたのは金九ただ一人でした。彼によって、独立精神の法統は最後まで守り続けられたのです。その意味で、大韓民国臨時政府と金九は特別な関係にあると言えます。実は臨政ができたころには金九の役職は「警備局長」であり、その地位はあまり高くありませんでした。ほかに偉い人はたくさんいたんですが、その人たちは喧嘩したり抗争したりして出て行ってしまい、最終的に金九が残ったということです。

 それでは上海臨時政府はどのようにしてできたのでしょうか。三・一独立運動後、京城、シベリア、上海の三カ所に政府が立てられたのですが、やがて上海の臨時政府に統合されていきました。それは、人や資金、地の利の上から、上海が最も政府の樹立に適していたからです。上海には、各地から最も多くの政客が集まりました。

 1919年4月下旬、上海に李承晩を国務総理とする大韓民国臨時政府が樹立されました。この臨時政府は、思想的には混合状態でした。シベリア派の中心人物は李東輝で、彼はこのとき既に共産主義を信奉していました。上海派は民族主義を報じていたので、本来両派は相容れないものでした。しかし、外国の援助を受けやすくするためには一本化が必要であるということで、結果的に上海政府が正統政府となったのです。初期の上海臨時政府の閣僚名簿は以下のようになっていました。
・国務総理 李承晩(在米) → 後に臨時大統領
・国務総理代理 李東寧 → 後に大統領代理
・内務総長 安昌浩(在米)
・外務総長 金奎植(在パリ)
・財務総長 崔在亨
・交通総長 申錫雨
・軍務総長 李東輝(在シベリア)
・法務総長 李始栄

 このように臨時政府の閣僚名簿というものはあったんですが、全員が上海にいたわけではありませんでした。こうした中で、「大韓民国臨時憲章」(憲法に相当)を制定し、国としての体裁を一応整えたわけです。このとき、後の大韓民国初代大統領となる李承晩が、国務総理となり、後に臨時大統領になっているわけですが、なぜ何故李承晩(当時44歳)だったのでしょうか。その理由を列挙すると以下のようになります。

 まず家柄が良かったんですね。李王朝第三代の王・太宗の嫡子・譲寧大君(世宗大王の兄)の直系の家柄です。これを聞いて分かる人は、韓国ドラマを相当見ている人ですね。『流の涙』とか『大王世宗』などのドラマを見たことのある人は、この意味が分かると思います。朝鮮の国を立てたのは太祖・李成桂ですが、その息子である李芳遠が太宗となって王権を確立します。李芳遠の息子の中で、長男は問題児だったんですね。ですから三男の忠寧大君、後の世宗大王に王位を継承しました。長男は王位を譲ったので「譲寧大君」と呼ばれているわけです。ですから、李承晩は朝鮮王朝の極めて初期の段階で王の系譜から外れた人物の直系の家柄であったわけです。

 次に、秀才の誉れ高く、若くして改革運動に身を投じて投獄され、早くから独立運動に専念してきた実績がありました。

 さらにアメリカの有名大学を三つも卒業し、哲学博士の称号を持ち、見識、人物ともに群を抜いていました。

 そして、米国に知己が多く、米国の援助を受けやすい、在米僑胞の声望が高く、資金調達能力が抜群である、年長とカリスマ的魅力などが選ばれた理由にあげられるでしょう。

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